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岸田秀再読その10 「ものぐさ社会論」2002 [本]

 

ものぐさ社会論 青土社 2002

 

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 唯幻論と唯脳論 養老孟司

 養老先生については説明不要であろう。解剖医。昆虫採集家でもあり、最近は都市田舎の参勤交代を主張したりしている。1937年生まれ85歳、岸田氏より4歳年下。

 

養老 私は現実とは、個人の脳が決定しているものと考えていますが、これを言うと反論が来ます。世の中がバラバラになってしまうと。それを恐れているわけです。けれど、世の中がバラバラになったのを見たことがありますか(笑)。要するに、社会というのは、現実を統制する装置として機能しているんですね。

岸田 そういう不安を持つのは、本来個別的でバラバラな存在である人間を無理に組織して社会が形成されているのを心のどこかで知っているからでしょう。人間の心をまとめるのは無理な話なのです。それぞれが勝手に現実を作っているわけですからね。ただ、普通は各個人が作るそれぞれの現実にそれほど違いがないから折り合いがついています。でも誇大妄想の場合はどうでしょうか。それを認めてくれる他者が1人もいなくても妄想は持続できるものでしょうか。

養老 スケールを大きくすればヒトラーも、中国共産党の首席も、アメリカ大統領だってそうだと思います。何億もの人間をコントロールできると考えている。これはまさしく幻想です。個人的な幻想に過ぎないものを、あるシステムが共同幻想により維持させているわけです。でもそのシステム同士がぶつかると大変なことになる。戦争はその結果起こるものだと思います。戦争を防止するには、自分の考える現実は幻想に過ぎないことをお互いに認識することです。でも、われわれは現実に特権的な地位を与えているので、それを変えるのはアイデンティティの崩壊です。ほとんどの人は抵抗するでしょう。それを保証するのは何か。私は死体を解剖していたからよくわかりますが、大きな目で見れば人間は皆同じです。

・ これを読むと養老先生が唯幻論を話している錯覚に陥いる。しかし、岸田氏は、人間と動物は本能のありようからして違うところから出発している。養老先生が同じように人間と動物は(本能崩壊を含めて)違うと考えているのか、それとも基本的には同じと考えているのか、対談を読んでもまだよくわからない。二人は近いのか遠いのか。唯幻論と唯脳論は似て非なるものか。

 

岸田 学生に質問されたことがあります。生きる目的が幻想なら、なぜ生きるのかと人間が人生に何らかの永遠の絶対的な価値を求めるのは、自分が不安から逃れるためであって、弱さの家の1種の必要悪のようなものです。例えば好きなある人を楽しませ、その喜ぶ顔を見るという一時的価値でどうして満足できないのでしょうか。

養老 私なら「そんなことを考える暇があったら体を使って働け」と言いますね。同じように学問をやって何になりますかと学生に聞かれます。そもそも生きる目的を求めるのがいかにも現代人ですね、すべてに目的があると思っている。そう思うのは都市に住んでいるからです。都市には人間の作ったものしかないから、すべては意識の中にあり目的があると考えてしまう。

 

・生きる意味学ぶ意義についての二人の見解。養老先生の特長は身体重視。脳化で出来た都市に住んでるから人間は身体(自然)を忘れるのだとする。たしかに岸田氏議論に身体はあまり登場しない。たしか吉本隆明が幻想は身体から入るとかなんとか、言っていたがあれは何かヒントになるのだろうか。

 唯脳論は限りなく唯幻論に近い感じがある。ではどこが違うのかは、この対談でも直接議論されていないので不明だが、なお、興味がある。

 

言葉を喪失した時代を考える 中沢けい(作家)

 

岸田 抑圧されているから症状に出ると言うのが神経症です。抑圧されているものを言葉に表現すれば、神経症は治ります。症状とは抑圧されているものの、非言語的表現なのですから。そもそも言葉には重力があるんですよ。交通事故などで脳が損傷を受けても、うまく言語化できると、脳の機能が回復することもありますから。言葉は栄養であり、愛情でもあります。

 

・たしか物語や小説は神経症を癒す力があると言ったのは、河合隼雄だったように記憶している。書くこと、読むことで抑圧から解放されるというのは感覚としては頷ける。

 

グローバリゼーションと精神分析 大須敏生

 

大須敏生 金融情報センター(FISC)理事長(1936〜) 1984設立 財団法人で金融機関等における金融情報システムの活用や安全性確保についての調査・研究・提案を行う。

 

 かつてサラリーマンの時、仕事で全国銀行データ通信システム(全国銀行協会)に出入りしていた頃FISCにも行った記憶があり、大須理事長の名前は聞いたことがある。

 岸田氏の著書「日本がアメリカを赦す日」をめぐって、氏の史的唯幻論を紹介する対談となっているが、特に目新しいことが話されてはいない。両氏はフランス留学の同窓生で、対談が実現したのであろう。憲法改正論議になり岸田氏の持論が展開されている。官僚OB(大蔵者金融局長)の大須氏も同調する。

 

大須 いわゆる平和憲法と言われる日本国憲法は、明らかに押し付け憲法、占領軍総司令部のアメリカ人が起草し、それを翻訳したものです。いろいろ日本人の作業も入りましたが、基本的には翻訳調の、読むにに耐えない、日本語で書かれたところが目に付く憲法ですね。

岸田 平和主義を選ぶのならば、今の憲法をやめて新しく憲法を作り、その中に平和条項を入れればいい。もっと自分の頭で考えた議論に基づいて決めるべきです。そういう平和主義でなければ、真の平和の礎にはなり得ないのです。

 

 その後侵略と謝罪の問題に移り、次の岸田氏の発言に驚かされた。氏が大江健三郎をこう見ているとは意外だった。

岸田 例えば、大江健三郎のように、自分が他の日本人たちと違って、高潔な道徳的人間であることを誇示したいだけのために謝罪謝罪と叫んでいるとしか思えないような人もいますから、本当に心から謝罪を考えている人と混同しないように注意する必要があります。

 

日蓮、現実を真に見据えた人 石川教張 ひろさちや

 

 アメリカの占領下の今と蒙古の国難下の日蓮の諫暁を材料にしている。

 岸田 見たくない現実 現実隠蔽は時代の閉塞感をもたらす。敗戦後半世紀以上なのにアメリカの占領下にある現実の屈辱を経済力があることで辛うじてプライド保持している。現実を見ている人と見ていない人の対立、不安が増大している。

 占領下にあることを認識すべし。現実を否認し、日本は占領下にあるのではない、と自己欺瞞することが、日本をおかしくしている。為政者と国民は共犯関係にある。

援助交際、いじめなどは子供が大人の欺瞞、その隠蔽に気付いているのが遠因だ。

 

・岸田氏の議論は単純にして明快。かつこの対談から20年以上経った現在(終戦からは77年経過)の我が国の状況も依然変わっていないし、よりひどくなっている。

 自己欺瞞を隠蔽することで動いている日本の歴史、見たくないものを見ることの難しさと安易な隠蔽ないし先送りへの逃避という岸田理論は残念ながら当たっているようだ。岸田理論からすれば、隠蔽した自己欺瞞はいつか表に吹き出しかねない、と歴史が教えている。

 

読後感

①養老先生は小さいとき父を亡くし、医者である母親に育てられ解剖医となったことはよく知られている。それが唯脳論の形成にどういう影響を及ぼしているのかいないのか。しかしそれをこの対談に期待するのは的外れというものだろう。

②岸田秀氏の対米従属、属国論は、米国の対中政策、ロシアのウクライナ侵攻をめぐり近年ますます深刻で危険な状態になっているように思える。

③自己欺瞞 隠蔽、抑圧そしてその暴発は人もまた国家と同じという。解決するには抑圧を正視することしかないが、自己の崩壊に繋がりかねないというのだから、厄介で救い難いとしか言いようがない理論だ。


 

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