SSブログ

岸田秀再読 その15「唯幻論論 岸田秀対談集」1992 [本]

 

唯幻論論 岸田秀対談集 青土社 1992

 

0_IMG_8909.jpeg

日本の技術と国際協力

 

 江戸文化は抑制の文化だ。鉄砲、火薬の高技術は花火へ、造船技術では大船を作らない。 車は駕籠。維新後欧米の文化に触れ、技術より抑制解放を学んだ。欧米への劣等感がバネ、いたずらに自惚れない方が良い。

 

 スペインはキリスト教の布教、アメリカは民主主義というような、日本には自分の考えを普遍的だと考える伝統がない。何らかの普遍的、イデオロギーを世界に広めるという発想は無い。なくてもいい。

 

→国際協力に際しては、あった方が良いと思うが。例えば、国際協力、援助においてアフガニスタンのボランティア中村医師、ペシャワールの会の価値観などはどうか?

 

石井威望(1930 - )は、システム工学者。東大名誉教授。

佐々木 毅(1942- )は、政治学者(政治学・西洋政治思想史)東大名誉教授。

 

 

 

ジャパン・バッシングの深層構造

 

 アメリカに与えられたトラウマに目をつぶり、そこが盲点となっているものだから、日本が相手側に与える屈辱にも無感覚になっていて、援助を与えて無神経に相手を怒らせてしまう。それでは何のために経済援助してるのかわからないことになる。p38

 

→唯幻論による経済援助批判。

 

松本健一(1946- 2014)評論家、思想家、作家、歴史家、思想史家。麗澤大学経済学部教授。

 

幻想としてのセックス、幻想としてのボディ

 

 本能が壊れたのは言葉を操作するようになったからでなく、本能が壊れたから言語を発明したのだ。p116

 

→自我の発生は本能と無関係とする説はないのだろうか?

 

 人間のセックスは趣味の一種。ゴルフと同じく。

 

 人間関係も幻想によって成り立っている以上、2人の関係が成立するのは、2人の間に何らかの共同幻想があるからだ。だから幻想がなくなると、人間はみんな自閉して自分だけの世界に閉じこもってしまうことになる。

 

→となると最近の引きこもりも幻想喪失が原因か?

 

 天皇では理念にならない。日本の近代天皇制はキリスト教のコピーだった。神聖不可侵として祭り上げたが失敗した。日本人は天皇のためでなく、自分の所属する部隊長のために戦った。日本人は、アラブ人がアラーの神を信じるように、何かを信じることはおそらくない。クールで冷めている。現世的。いい加減。

 

→いい加減がベストということになる。

 

 天野祐吉 (1933〜2013)コラムニスト 広告批評主宰。

 

家庭について

 

 僕は子供がいないので可愛いという感覚はわからない。赤ちゃんは猫と同じようにかわいい。つまり人間としてかわいいんじゃなくて、いわば動物としてかわいいんだと思う。 つまり自我と言うのは赤ちゃんの時はないですから、自我のない存在としての可愛さだと思います。そして親の側から一方的にかわいいと言う感覚です。

 

 人間の現実というのは共同幻想である。共同化されて初めて現実になる。だから、人間は表現をする。犬や猫や猿が小説を書かない。必要がないから。人間はなぜ表現するかというと、他者に認められたいからであって、なぜ認められたいかというと認められないと自分が存在し得ないからだと思う。自分が自分を認めているだけでは、物理的に自分で自分を支えているようなもの。不可能。p147

 

 家族を持たないと精神が安定しない。自分が世界の中に存在しない気がする。家族の中で育ったからだ。幼児時代の再現である。

 

→女流詩人への岸田氏の説明は口調まで優しい。昔サラリーマンのとき、子供のない上司は何となく苦手だと思ったことがあり、同僚も賛同した。あれはなんだろう。

 

 伊坂洋子 (1948〜)詩人 山手樹一郎の孫。

 

戦争に抑圧された「日本」

 

 戦争を経験していない世代にも、同じ心境が脈々と流れている。それが表向きの対米協調、平和主義のかげに抑圧されているわけですね。しかし、抑圧されたものはなくなったわけではないので、あるときに爆発する危険がある。政治家はそこを考えなければいけない。国家というのは、最終的には不合理な国民感情で動くんです。よく国益って言いますが、世界の国々が合理的に冷静な利害打算のみで動くなら、戦争なんてほとんどありえないわけですよ。p182

 

 アメリカだって、自分の過去を正視していない。日本だってそうです。ともに自分の歴史を知らない者同士がことがうまくいかないのは、相手のせいだというふうに思い始めると、破滅的な喧嘩になりますからね。日米両国がお互いの歴史を正直に見ることが何より大事だと思うんです。p187

 

→歴史認識を中国、韓国が日本に迫るのもこれ。歴史認識を同一化することこそ難題。

 

 松本 健一(上掲)

 

カウチポテトの天皇制

 

加藤 カウチポテトで眺めるテレビの画像に天皇が映っている。反発でも親和でもない。無関心。無関心の中であり続ける天皇制というのが、平成以降の天皇制。

岸田 歴史上のヨーロッパの王政や帝制なんかと比べると、日本の天皇制には特異な点があります。それを一言で言うと、天皇は滅ぼされないということです。ヨーロッパは王の背景に神がいる一神教。中国は天、天命により王が変わる。日本は実権を握ったものが天皇を殺すと、自分が困るから殺せなかった。もう一つは天皇家は付き合いの良い家風。要するに時代の要請に非常に敏感に付き合って都合のいい役割を演ずる。幕府を征夷大将軍に任じ引き下がる。戦前の神として大元帥陛下、戦後は一家団欒の象徴天皇を演じる。天皇制廃止した方が良いとも、崇拝してもいない。ただまあ、いてもいいんじゃないかと言う感じが正直なところです。

 

竹田 天皇崇拝をやってあれだけの失敗をしたが、また危殆に瀕したときは分からない。昭和天皇の異端性の根とからんで。

単一民族幻想が日本人のアイディンティの根拠。 万世一系幻想。天皇制と結びついた。

どうやって日本人のアイディンティを築けば良いのか、なくても良いのかなハッキリした答えはない。p228

加藤 これまで天皇制を問題にすること、そのことの理由は自問されずに来た、というところがあった。その最大の理由は昭和天皇が敗戦後、退位せずに、その地位にとどまってきた。ここにはどうもおかしいものがある。一言で言うと、やはり戦争責任という問題のリアリティーがそこで確信されていたということだったと思います。ところが昭和天皇が死んでしまって、この戦争責任の追及と言うモチーフ自体が宙に浮いてしまった。また、天皇制自体の日常生活レベルでのリアリティーはいっそう、急激に薄まりつつある。

吉本隆明は本当に大衆に根付いた天皇観と言うものは相対化、無化できるのかということだろうと言っている。知識人には適用されても大衆にはどうか。しかし相対化、無化のモチーフの底自体が相対化され、問い直されないとこの戦争体験から来るモチーフが平成以降に生き延びることにならないのではないか。p230

 

岸田 天皇に戦争責任はある。責任とは法的責任だ。看板として、止められるのに止めなかったが、戦争を軍部と国民が望んでいたことも事実。

 

加藤 天皇はお父さんでなく叔父さんになってしまった。世間の目、親戚縁者の目に対して自分はどう生きるか親戚、世間に親和感情を持っているかが、今の天皇制を一人一人の人間が考える上で重要だと考える。

 

→最近、天皇制議論はあるのかどうか知らない。岸田秀氏の「天皇はまあいてもいいのではないか」というのは昭和年代にはわかるが、平成、令和年代にはどうなっていくのか眞子様、佳子様騒ぎを見ている限り想像もつかぬ。

 元号年暦を廃して西洋暦に統一する意見がもっと強くなると思ったが、目立たぬよう元号を必死に守る一派が勝っているのが不思議。「天皇はまあいてもいい派」が支えているのかも。

 

竹田青嗣(1947- )は、哲学者・文芸評論家・音楽評論家。早大名誉教授。在日韓国人二世。

 

加藤 典洋(1948〜2019)  文芸評論家、早稲田大学名誉教授

 

差別って何?

 自我を高いところに位置付けたい。自分より価値が低い劣等な他者を必要として差別が始まる。集団の差別動機も同じ。差別は無意識だから自分が差別者かはわからない。差別された側が言わないと。

 上位の人に劣等感、下位の人に優越感を持つのはやむを得ない。差別感情はゼロにできない。セルフコントロールは可能。

 

→差別の発生、差別感情の特性は論じられているが。差別の破壊力とセルフコントロールの方法が少し物足りない気がした。自分の読みが浅かったのかも。

 

竹田青嗣 加藤典洋(前掲)

 

橋爪大三郎(1948- )は、社会学者 東工大名誉教授。

 

宗教的感情の行方

 

 宗教的感情は人間が自我を築いた必然的結果。超越的なものに繋がる必要があるが、必ずしも神で無ければということは無い。

 自分という存在がそれだけに限定されるのではなくて、超越的なものにつながっていると思いたいという希求は十分あるんですけれども、正直なところその超越的なものが何であるか僕にはわからない。僕という存在の安定にとってはそれが必要だというところまではわかるけれども、その必要な物を私は見失っているというか、発見できないというか、何か分からないので非常に不安定であると言うのが正直なところです。

 強い自己を確立しても、真の自己を発見しても不安感は去らない。自分の安心立命の根拠づけるものを欲しいが見つからない。宗教もご先祖様も僕自身としては上手くつながらない。超越的なものを他人に設定されたくない。僕は宙ぶらりんだ。

超越的なものはどこかにあるという幻想は持っている。外ではなく自分の中にもない。やっぱりないのか。

 

→岸田秀氏の宗教的感情についての率直な心情吐露。超越的なものはどこかにあるという気持ちを持っている自分を含め、多くの人々はこういうところだろうと思う。友人に二人クリスチャンがいるので、顔を思い出している。

 

栗原彬(1936 - )は、社会学者。立教大名誉教授。立命館大学研究顧問。専門は政治社会学。

 

 

青野聰(1943- )は小説家、元多摩美大教授。父は文芸評論家青野李吉。

 

コロンブス五〇〇年の猛威

  

 ヨーロッパ人にとってキリスト教は外来のもの。押し付けられた反感、距離感があり科学者と詩人が分離した原因。アラビア人にとってイスラム教は、内側から生じた、自ら創った宗教。アラビアの偉大な科学者は同時に偉大な詩人、医者、宗教家で分離していない。

 1533年、民衆を大虐殺したスペイン人がインカ帝国は民衆の自由を抑圧していた権威主義者とどのツラ下げて言えるか。正当化の理由にキリスト教を使った。

 本能が壊れている状態が人間の本来の姿であって、それは無限に欲望が拡大し、無限に破壊衝動が渦巻いている状態です。人間のいろいろな民族、いろいろな文化は、その状態に何とかブレーキをかけて、これまで何とか続いてきたのです。そのブレーキが最初に外れたのがヨーロッパ民族においてなんですね。「自由」と言う言葉が象徴しているように、ブレーキが外れると人間好き勝手なことをしていいわけで、ある意味で非常に愉快なわけです。フランス革命を見ても「自由」になった人間は、嬉々として人を殺し、好きなだけ破壊活動をするわけですね。ヨーロッパ文化の魅力はブレーキが外れた状態の魅力だと思います。別の言い方をすれば、お互い我慢してきたのを、最初に我慢をやめたのがヨーロッパ人だった。我慢する人間としない人間が対立すれば、必然的に我慢する人間は負ける。相手を殺していけないと思っている者と、殺そうとしている者との喧嘩ですから。それがヨーロッパの強さの秘密だったんだと思う。p355

 

→本能崩壊論にたった岸田氏らしい議論の展開。しかし本能が壊れてなくともブレーキが外れた以降の、議論の展開は可能だし、それはかなり当たっているのでは、とつい思ってしまう。

 

佐伯 彰一(1922 - 2016)は、アメリカ文学者・比較文学研究者・文芸評論家・翻訳家。東大名誉教授。

 

加藤 尚武(1937- )は、哲学者、倫理学者。京大名誉教授。元東大特任教授。

 

読後感

 

 唯幻論論と題しているが、入門者のために唯幻論そのものを論じていないので、間違って購入しかねないなと余計な心配。「天皇制」や「宗教的感情」などを、とくに面白く読んだ。

 あとがきで、岸田氏はものぐさには、講演は苦手で対談は楽だと言う。対談集を読むことは岸田秀氏の考え方を理解するためには有益だ。相手への反応が即応なので、心の動きが見えることが時々ある。繰り返される主張はその思いの強さをも示す。

 それにつけても本に対談相手の紹介が無いのは困ってしまう。自分で調べねばならない。人違いしかねない。編集担当者の怠慢ではないか。


 

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。