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岸田 秀再読その2「保育器の中の大人 精神分析講義 (岸田秀 伊丹十三)」 [本]

 

 岸田 秀氏の「唯幻論」に賛同した一人に伊丹十三がいる。

 「ものぐさ精神分析」を読んで世界が俄かにくっきりと見えるのを私(伊丹十三)は感じた。私は、自分自身が確かに自分自身の中から手を伸ばして世界をつかみとっているのを実感し、驚きと喜びに打ち、震えた」(「ものぐさ精神分析」中公文庫版1978の解説)と書いている。その賛同、感動ぶりが伝わってくる。

 

 伊丹十三(1933‐97年)は、映画監督伊丹万作の長男として京都に生まれた。(たまたまだが、岸田秀氏と同年生まれである。)

 俳優であり、かつ映画監督(代表作に「お葬式」、「マルサの女」、「ミンボーの女」、「マルタイの女」など)として活躍する一方で、「女たちよ!」(文藝春秋1968) 「ヨーロッパ退屈日記」(文藝春秋新社、1965年) など、軽妙で洒脱なエッセイの書き手としても知られる。

 1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京都港区麻布台3丁目のマンション南側下の駐車場で、飛び降りたとみられる遺体となって発見された。当初からその経緯について様々な説が飛び交った。まるでミステリーのような最後だった。

 2000年、大江健三郎(伊丹とは愛媛県立松山東高同級生)の小説「取り替え子」に伊丹十三を思わせる人物が描かれ、話題となった。よく知られているように、氏の妻が女優の宮本信子で、妹は大江健三郎の妻大江あかりである。

 伊丹十三は、岸田 秀の「ものぐさ精神分析」(1977)を読み、彼の主張する唯幻論に傾倒する。翌年1978年12月、岸田との対談を収録した共著「哺育器の中の大人 精神分析講義』岸田 秀 伊丹十三(朝日出版社)を上梓した。

 

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 これを読めば少しは唯幻論理解に役立つのではないかと考えた。メールで予約して自分が図書館で借りて読んだのは、のちに発行された文春文庫を参照したというちくま文庫版(2011) である。文庫化は如何にこの本が売れて読まれたかを示している。

 「子育てとは何か?」「人を愛するとは?」「何のために人は生きるのか?」「男(女)らしさについて」…初歩的な、しかし避けられない問いは、自我の構造や(無)意識の世界、幻想や知覚の仕組みなど根源的な問題につながっている。稀代の才人・伊丹十三と、「ものぐさ精神分析」で知られる岸田秀が真っ直ぐな対話を通して、生きるために欠かせない精神分析の基本を丁寧に分かりやすく解き明かす。と帯にある。

 (精神分析の基本を)わかりやすく解き明かすとあるが、伊丹十三も精神分析の専門家なみの博識を駆使しており、どうしてどうして難解な対談ではある。

 挿入された何枚かのベン図?のようなものも、果たしてどのくらいの読者が理解の助けになるのだろうかと訝る。少なくとも自分にはすんなりとは読み解けない図が多い。

 

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 伊丹十三(生徒)の質問に答える講師岸田秀氏の発言をランダムに拾って見る。

・人間は本質的に未熟児で家庭が大きな哺育器である。

・本能が壊れたのは未熟で生まれたからだ。

・まず先に本能が壊れて現実との密接な接触を失い幻想を持ったのであり、 幻想を持ったからリアリティを失ったのではない。

・自己という内面はすべて幻想でできている。 剥いても芯はない辣韮の皮だ。

・現実は一つしかない。 色々な現実は無いので幻想と推測せざるを得ない。

・文化は幻想という松葉杖。 本能が壊れたので(=足が悪いので)松葉杖(文化=幻想)を使う。

・ある理想のために戦うことは立派ではなくそのこと自体が悪、暴力の行使と同じ。

すべては幻想だからそうムキになるな。

・正義や聖なるものを信じ怒鳴る者こそ人類の愚行の元凶だ。

 

 対談の最後は次のやり取りで終わる。難解対談を象徴しているエンドだ。

伊丹 そりゃそうでしょうねぇーしかし、唯幻論っていう以上は、唯幻論自身も幻想であることを免れないわけでー

岸田 まぁ、そうですね

伊丹 仮に、すべてを一番矛盾なく説明できる論理であったとしても、その時はすでに、論理性とか合理性とか、矛盾律とか同一律とかの上に立脚した論であって、つまり論理性と合理性という幻想を採用した上に成り立っているわけですからね、すなわち唯幻論もまた一場のー

岸田 幻想であるトー 幻想ではあるんですけれども、しかし我々何らかの幻想を持たざるを得ない。価値体系がなきゃ行動できないんだから、結局ーだからね、せめて、どのような価値体系にせよ、我々の信じている価値体系が幻想であるということを知っておけと言いたいわけですねーどうせ幻想なんだからームキになるなトー

 

 ちくま文庫版では、用語、人名解説も付され吉本隆明の解説などもあって頼りにしようと読むが、それら自体も難解なのだから困る。

 理解の一助になろうかと3点メモを取ったが、読み返しても余り助けにならないようだ。

 ①文春文庫坂解説 吉本隆明

 岸田秀さんの心理分析の特徴を一口に言えば、大胆で、粗っぽくて、そのかわり自分で考えて造成したあとがにじみ出ていることだと思う。これは、およそ、日本の心理学者や精神医学者からうける印象とは正反対のものだ。

 (以前岸田秀さんと)国家の共同幻想について論じあったとき、個人が幻想の中に入り込むときは、必ず逆立ちして幻想が身体で、身体が幻想のように入っていくものだと言う説明が、個人幻想の集合が共同幻想なのだという岸田秀の考え方からは納得してもらえなかったことを記憶している。ーーわたしはいまでも岸田秀さんを説得する自信があるがーー。

 「保育器のなかの大人たち」でも岸田 秀氏は納得していないようだと言う。

 「幻想」についてもこれをヒントに何回か対談における幻想の項を読み返すが、自分には吉本説も岸田説もよく理解が出来なかった。

 

 吉本隆明は岸田秀氏の心理学の構成の基本点は、次の6点をとりあえず押さえておけば良いと言う。これは自分にとって岸田論を理解するには大いに助けになった。

 ⑴乳幼児は空腹の時、隣に母親がいないと心に欠陥を発見する。その欠落が積もり積もって構造化した時、対象世界になる。だから、対象世界は、欲求の挫折の構造化であり、従って我々に敵対的なものだ。

 ⑵人間の欲求の根元は一次的ナルチシズムに帰ろうとすることだ。そして1次的ナルチシズムの特権は、全能感と一体感で、それが欲しいという願望があると言うことだ。

 ⑶性欲というものは、一次的ナルチシズムの復元の試みだと思う。そして人生は一次的にナルチシズムの世界から出発して挫折していく過程だといえる。

 ⑷近親姦のタブーは、父と娘、母と息子、兄と妹、姉と弟が家族的役割(身分)だから、男女の性的な役割と両立しないところに起源を持っている。

 ⑸フロイトの超自我、自我、エスと言う考え方は、立憲君主制の政体における皇帝、政府、民衆との類比から着想されたものだ。

 ⑹苦痛にもめげずに宗教者が修行したりするのは、自分が聖なる存在だというセルフ・イメージを証明したいからだ。自分の偉大さ、善人性と言うことを証明するためには、いかに人は全てを擲つか。肉体的苦痛まで受け入れることができるのだ、と言うことじゃないか。馬鹿げたことだ。

ー これに岸田秀さんの思想的な姿勢である習俗のニヒリズムが裏打ちされていて点晴を添えている。

 

 ②春日武彦(1951〜精神科医)解説 強靭で真摯さのこもった手作り感の魅力 

 「人生に意味はない。それは猫生や鯨生に意味がないのと同じである。本能が壊れた人間は、代わりに自我に頼って生きており、自我は幻想だから、もともと何の目的も役割も居場所もないが、それではどうすればいいかわからず、生きる元気も出ないので、自我を意義づけ位置づけるために人生に意味を必要とする。人間は、人生の意味を探すがないものを探すわけだから、必然的に様々な愚行を犯すことになる。愚行を全て避けようとすれば生きるのをやめるしかないから、なるべく愚行を少なくして何とか生きるしかない。」

 

と解説者は人生に意味はあるかと問われた岸田秀の答えを上記のように紹介しているのは、本人が唯幻論を端的に説明して、その論に基づく岸田秀氏らしい答えだということだろう。

 カウンセリングでクライアントが相談したとき、唯幻論で回答するとどんな質問でも大抵似たようなことになるだろう。吉本隆明の言う習俗のニヒリズムか。

 かくのごとく岸田理論では人間の本能は壊れたという前提に立ち、人生に意味はないという結論になる。尋ねた人は納得するか、反駁するか。こうまで断言されると唖然として黙るような気がする。

 

 ③文庫版の伊丹十三のあとがき

 私(伊丹十三)が対談で岸田秀から学んだことはー。

 人生で「他者と出会うためには、まず自分と出会う努力をする必要があるのであり、逆にいえば、自分に出会う努力をした者だけが他者ともよく出会うことができる」

 「自分と出会うということは、とりもなおさずエス(注)と出会うということに他ならない。(自我にはすでにに出会っている)ところがこれが筆舌に尽くしがたく難しいのだね。なぜなら、エスに出会うためには、とりあえずエスを直視する必要があるからである。ところが、エスと言うものは、自我から排除された、自我に反するもの出てきている。つまり、自分の中にそのような要素があることを、本人が死んでも認めたくないようなものでできているのがエスなのである。」

 「岸田さんの言う通り、理屈はまことに簡単、しかし実行はまことに難しいのであり、私がいまだに迷い多き人生を歩んでいることに変わりはないのである。」

 

  (注)エスとは ウキペディア

 エス (Es) は無意識に相当する。正確に言えば、無意識的防衛を除いた感情、欲求、衝動、過去における経験が詰まっている部分である。

 エスはとにかく本能エネルギーが詰まっていて、人間の動因となる性欲動(リビドー)と攻撃性(死の欲求)が発生していると考えられている部分である。

 リビドーこれはジームクント フロイトが「性的衝動を発動させる力」とする解釈を当時心理学で使用されていた用語_Libido_にあてたことを継承したものである。一方で、カール・グスタフ・ユングは、すべての本能のエネルギーのことを_Libido_とした。

 

 読後感

 岸田 秀氏の独創的かつ特異な発想と意表をつく言い方(表現)。伊丹十三の博学ぶり。我が脳の脆弱性を再認識した。

 伊丹十三は理屈は簡単(だが実行は難しい)と結論づけているが、情けないことにその簡単な理屈が自分にはなおよく分からない。困ったことに生来の脳の脆弱性に加齢による認知力、読解力の低下も加わりつつあるようだ。

 目借りどき 我に難解 唯幻論 の心境になっている。


 

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