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岸田秀再読その5 「ものぐさ精神分析」 (2/2) [本]

 

岸田秀再読その4「ものぐさ精神分析」(1/2)からのつづき

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 なお、「歴史について」の中に「日常性とスキャンダル」と題した一文がある。これは岸田氏の考え方(悲観や虚無)をよく表しているように思う。

 岸田秀氏ならずとも、自分を含めて歳をとると、長生き必ずしも良いことばかりではないなと思う。未来にはもっとマシなものが待っている、あるいは今よりは良くなるだろうと思って生きてきたが、人類は懲りずに愚行を繰り返している、と嘆くことばかりである。自分の価値観のために戦争を始める。核兵器廃絶は進まず。原発はやめない。コロナは人命より経済優先。etc.人間はいつまで経っても、いっこうに利口にならない。

 

 岸田秀氏は言う。

「人間に関する諸々の問題を説明しうる理論の出発点は、私の考えによれば、1つしかない。それは、他のところで既に繰り返し述べたように、人間が現実を見失った存在であるということである。現実を見失った人間は、おのおの勝手な私的幻想の世界に住んでおり、ただ、各人の私的幻想を部分的に共同化して共同幻想を築き、この共同幻想をあたかも現実であるかのごとく扱い、この擬似現実を共同世界としてかろうじて各人のつながりを保ち、生きていっているに過ぎない。p85

 様々な不合理な破壊的現象は、要するに、抑圧された穢れたたものの発現であり、そして、穢れたものは聖なるものの陰画であり、厳密に聖なるものと対応していて、つまり聖なるものが汚れたものをつくり出すのだから、聖なるものを我々が必要としなくなれば問題はたちどころに解決する。それは可能か。われわれは聖なるものに頼らずに生きてゆけるか、日常生活を構築できるか、集団を形成できるか。p99

 最後にもう一度問いたい。人類はあらゆる形の聖化と縁を切ることができるであろうか。もしできないとすれば、人類にはこれまでの過去よりましな未来が待っているとは言えないであろう。」

 

 唯幻論には、国家論で展開された史的唯幻論、ともう一つは「性について」で詳細に記述される性的唯幻論がある。こちらは「種族維持本能が壊れた」からと始まるだけで、論理展開はほぼ同じである。したがって再読した感想も上記と変わりは無い。性に関するものなので分かりやすい。若い人には関心は高かろう。自分の歳にもなれば斜め読み、飛ばし読みだが、若い人なら縦に行を飛ばさずにしっかり読むだろう。

 

 さて、「ものぐさ精神分析」はあと人間について、自己についてなどが唯幻論に基づいて書かれている。この中では時間、空間、言語の起源が興味を引いたが、正しく理解したかどうかもう一つ自信がない。

 

時間と空間の起源

「欲望を抑圧して悔恨した時点と現在との間に時間を構成した。未来とは修正されるであろう過去である。未来が限定されること、すなわち、死を我々が恐れるのは、過去を修正するチャンスが限定されるからである。(中略)この意味において、死の恐怖を知るのは、抑圧する動物たる人間のみである。

 抑圧した屈辱の場所と現在の場所との間が空間である。

「ついに幼児はその心に屈辱を刻みつけつつ、自己ならざる者に転化していった、もろもろの対象を閉じこめるための容器として空間を発明する。

 時間と空間が成立したとき歴史が始まった。」

 

自分には時間(過去、現在、未来)の方は分かるような気がするが、空間の方がしっくりこない。

 

言語の起源

「本能が対象から切り離されて欲望に変質し、まずイメージに向かうようになった人間の場合には、刺激と反応との自然なっ結びつきは失われてしまった。このままでは人類は現実に対応出来ず、コミュニュケーションも出来ないので言語を発明した。言語は文化の根幹である。

 母親が幼児の喃語のうちの一定の発声に反応することによってそれに一定の意味を付与し、言語として共同化してゆくのである。

 言語化するということは共同化すること。 言語化されたものは擬似現実であり、現実とぴったり合った言語はない。言語の多さは 機能の不全性を示す。言語を失えば現実は崩壊する。われわれの行動は分解する。要約すれば、言語は、現実との直接的接触を失しない、現実の対象への直接的反応ができなくなり、現実と遮断されたエスのなかでばらばらなイメージを増殖させたわれわれが、それらのイメージを材料に失われた現実へ戻る代理の通路として構築したものである。」

 要約すればの以下は、本能崩壊の結果代用するものとして文化(言語)を作ったという理解で良いであろう。が、続いてしたがって言語は人類の根源的な神経症的症状だ、という点については、何度も読み返すのだが老化もあってもう一つ理解が出来ない。

 赤ん坊の喃語の状態が、動物や鳥では鳴き声を発している状態のような気がする。つまり言語(コミュニケーションツール)は人以外も持っている。言語の発明を唯幻論で言えば岸田氏の上記のようになるだろう。しかし、大事なのはヒト特有の文字の発明であるが、それに言及していないのは何故か。

 言語はあるのに文字のない民族は何故存在したのか、その理由も知りたい。岸田秀氏のいう幻想の共同化において、文字はどういう役割を果たしたのか、大いに寄与したのではないかと思うのだが。

 

そろそろ、「ものぐさ精神分析」の読後感想文を書かねばならないが、何度も言っているように、唯幻論について「半知半解」感が強すぎてなお、思考がまとまらない。

 

 中公文庫版の解説を伊丹十三が書いているが、岸田秀理論をきちんと理解して見事な一文を寄せている。これは、数ある著書解説の傑作の一つではないかと思う。著者との対談「保育器の中の大人」においても相当な精神分析学者だなと思ったので、今更驚くことでは無いが、この解説で、そうかこの本はこう読むのか、と改めて思い知った点が多々ある。

 解説者は「ものぐさ精神分析」は患者の書いた精神分析論だとする。著者と母親との葛藤の中からすべては幻想だと知り、人間は本質的に神経症だと認識する。この体感から著者はフロイドを学び、人間は本能が壊れたため社会生活に必要な自我という行動規範が欠けたこと、自我の代用としてやむなく幻想=文化を作ったのだという考えに至る。唯幻論は、まさに著者の経験、体感から生まれたのだとする。いわば、自分のようなのほほんと生きて来た者にわからないことがあっても、何ら不思議なことでは無いとあらためて認識させられる。

 

 分かることもあるのだから、もう少し辛抱して読むことにしよう。

 

 蛇足ながらYouTubeに唯幻論の解説がある。“なぜ生きる意味がないのか?”【唯幻論】by 岸田秀

 

https://www.youtube.com/watch?v=36EqX0i7Bcs

 

 現代のユーチューバーは唯幻論をこう解釈し、こう表現するのか、という意味で興味深い。ニヒリズムが前面に出ているのが特徴か。この項の冒頭に書いた「日常性とスキャンダル」の聖化や価値観についての岸田秀氏の結論を想起させる。なお、本能が壊れた理由としては早産説をとっている。この方が一般的にはわかりやすいからだろう。


 

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岸田秀再読その4ものぐさ精神分析 (1/2) [本]

 

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 当たり前のことだが、岸田氏の唯幻論そのものを理解するには、氏の原点ともいうべき「ものぐさ精神分析」をじっくり読むことが一番良い。

 再読といっても唯幻論を取り巻く周辺の随筆や対談から始めたので、遠回りしている感じが否めない。そこで図書館で「ものぐさ精神分析」(岸田 秀 中公文庫1982)を借りて来て読んだ。読書記録に無かったが、やはり一度読んだような気もする。ただし、周辺の短文を読んで得た知識がそう思わせるのか、本当に読んだのかはいま定め難い。

 

 読んでみると、自分の疑問に思ったことのたいていのことが書いてあったのに驚く。

まずは個人の心理を集団の心理と同じように論じることについては、「ものぐさ精神分析」の冒頭の章である「歴史について」の中の「日本近代を精神分析する」にいち早く出てくる。

「フロイド理論は何よりも、まず社会心理学である。一般には、フロイドは、神経症者個人の心理の研究から出発して精神分析理論をつくりあげ、その生涯の後半に至ってその理論を宗教現象や文化現象などの集団心理に応用したと考えられているが、私の意見によればこれは逆であって、彼はまず集団心理現象を下敷きにして、そのアナロジー(引用者注 ー類推)に基づいて神経症者個人の心理を理解しようとしたと言うことができる。(中略)わたしの理解しているところの精神分析は、本来、社会心理学であるから、集団現象の説明にそれを用いるのは拡大適用ではなく、当然のことであって、別にその妥当な根拠を示す必要はない。」

 

 岸田秀理論の元になっているフロイドの超自我、自我、エスと言う考え方は、立憲君主制の政体における皇帝、政府、民衆との類比から着想されたものだ。という吉本隆明の言はこのことだった。個人の精神と集団の精神は通底するという理論は、基本的にフロイド理論をベースにしており、岸田氏がフロイドに大きく影響されていることも示している。

 

 前にも書いたが、自分はこのことについてあまり違和感が無い。

 

 次には唯幻論の出発点となる「人間の本能が壊れた」ということについての記述。著者が忙しい人はここだけは読んで欲しいと言っている章「歴史について」の「国家論ー史的唯物論の試み」に書かれている。

 人類は生物進化の奇形児だ。L・ボルクの胎児説に立ち、人類は猿(まだ人類ではない人類の祖先)が胎児化したもの=猿の胎児がそのままの形でおとなになったのが人類(幼形成熟ネオトニー)であるとする。

 (未熟で生まれたため)自活まで長時間を要し、親の負担は大きく子の本能生活が変質する。子の本能は全知全能に置かれた状態の中で現実とずれが生じる。本能に従うことは現実への不適応を意味する。つまり現実への適応保証するものとしての本能はこわれてしまった。本来なら現実我を保存する個体保存の本能が、全能の幻想我を保存する方向へずれる。種族保存の本能も同じことである。

 胎児化の結果であるが、個体保存の本能の場合に、その本能の発現と、それの目的の遂行の手段たるべき感覚、運動器官の発達との間に時間的ズレがあるのと同じように、、種族保存の本能の場合にも、性欲の発現と、生殖器官の成熟との間に数年の時間的ずれがある。そのため人類の性欲は、まず不能の性として出発する。結果として幻想に遊ぶ性となる。

 なお、上記のボルクの胎児化説については別の章「性の倒錯とタブー」にも以下のとおり触れられていて参考になる。

「L・ボルクの説であるが、人間の進化を説明する仮説として「胎児化」説というものがある。この説は簡単に説明すると、要するに、人間は猿の胎児であるという説である。大人の猿と大人の人間は非常に違っているが、ある段階では、胎児の猿と胎児の人間は大体同じような形態をしている。猿は、その段階からぐんぐん発達し、おとなの猿の形態に近づいてゆくのだが、人間の場合は、その発達が奇妙に遅滞し、いつまでも胎児の形態を保持したまま生まれてくる。つまり猿が極端な未熟児の状態で生まれたのが人間である。」(p105 )

 (参考)幼形成熟ネオトニーについてネットで検索すると次の説明があった。

 「人間は、チンパンジーとほとんどの遺伝子を共有しているが、チンパンジーは生まれて数年で大人になり、子供を産むが、人間はそれ以上十数年しないと、性的に成熟しない。すなわち大人になれない。しかも、人間の外観は、チンパンジーの赤子のままであり、その十数年の差が、知能や、遊び、手先の技能向上に役立っている。早く大人になってしまうと、自己の子孫を残す活動に、ほとんどの日常は奪われてしまうため、知能や技能が進歩する暇がないという。このように、幼少時の名残を残しながら、大人になることをネオテニーとよばれているのだという。」

 

 前記「国家論ー史的唯幻論の試み」における「本能が壊れ、私的幻想が生まれて共同幻想に至る記述をもう少しメモして見る。

 個体維持本能、種族維持本能ともずれてしまったので、何らかの手を打たないと人類は滅亡する。

 現実原則に従う自我と快感原則に従うエスとの対立(フロイド) 。 エスは本能ではなく快感原則は本能原則でなく幻想原則だ (死の衝動は人類の特有な傾向と理解し)快感原則は涅槃原則 である(フロイドは無機物の状態への復元)。

 本能はエスに変質する。エスは個体保存ナルチシズムと前性器的倒錯のリピドー。そこで人は抑圧することはじめてを知る。そこに文化が発生した。

 (引用者注)リピドーとは性的衝動を発動させる力(フロイド)、本能のエネルギー(ユンク)。

 文化は矛盾する二面を有する①個体保存と種の保存を保証し=作為された社会的現実すなわち擬似現実であり②私的幻想を吸収し共同化=共同幻想となるものでなければならない。

 この文化こそ例えば家族(集団)であり、擬似現実、共同幻想だから不安定な点が特長だ。

 各人に分有された共同幻想は超自我及び自我となり、共同化されずに残った私的幻想はエスを構成する。このエスが共同幻想にもとづく集団の統一性を危うくする重大な要因となる。

 このくだりはすんなり頭に入ってこない。ずれたので放っておくと人類が自滅するので代わりのものとして文化を発明したというが、文化の発生要因は別にあるのではないか。 文化は民族によって異なるが、異ならない文明についてはどう考えれば良いのか。 幻想、その共同化などがやはりわかりにくいのはこちらの理解力が乏しいせいか。既成概念で凝り固まっているためか。

 

 平たく自分の言葉で言い直して見よう。

 猿(類人猿と人類の祖先)から類人猿(チンパンジーなど)と人類に進化した。猿人猿は本能を持ったままおとなになったから本能に従えば生きられた。人類になった方は猿の胎児のまま生まれ大人になったため、本能が本来の機能を果たせない。つまり本能が壊れた。 そのため、代用品として幻想、文化を生み出して人類として生き残った。幻想、文化は胎児が全知全能の状態で現実とのずれを見いだして、自我を抑圧することを知り、そこから生まれたのである。私的幻想を共同化したものが文化だ。

 この説では、系統発生的にいうと猿から類人猿になり類人猿が人類に進化したのではなく、類人猿と猿は共通の祖先から生まれた兄弟ということになる。自然発生は系統発生を繰り返すと言う説がある。人間の胎児が、類人猿の段階を経ているかどうかは、生物学的にわかるだろうが、経ていると考えるのが自然なような気がする。

 猿からいきなり進化したとしてなぜ類人猿は胎児化せず、人間だけが胎児化して(未熟児として生まれ)本能が壊れたのか。

 

 進化の仕組みや進化論の今などをもう少し学ばないと、最初のこのあたりは理解できそうもない。また、幻想その共同化のところもフロイド論などを含めて、精神分析学をもっと勉強する必要がありそうだ。我が唯幻論理解の現状は、面白いがストンと落ちない、という岸田 秀再読前の状態のままである。(ものぐさ精神分析下へ つづく)


 

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