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岸田秀再読 その12 「唯幻論大全」 2013 (2/2) [本]

 

 岸田 秀再読 その12 「唯幻論大全」 2013 (1/2)からの続き

 

「近代的自我を目指した知識人 夏目漱石 自己本位と則天去私の間を揺れ動き解決せず終わった。

 対人恐怖(日本人)、対神恐怖(欧米人)=近代的自我、主体性、理性的 いずれも幻想」

 

・文豪もカタナシ。

 

「自制の文明(人類存続の唯一の道)をアメリカに教えられるか? 自制の箍を外した=日本の近代化」

 

・江戸時代は自制の良き時代だったという。アメリカは説得されたら、自国の存在根拠を失い崩壊するから無理。とすると?

 

「進化論は生物の進化を説明する自然科学理論というより、イデオロギーである。ダーウィン理論と今西棲み分け理論=和をもって貴しとする。

 ダーウィニズム生物進化の理論を超え社会的ダーウィニズムとなり弱肉強食、人種差別、植民地主義、帝国主義を正当化するイデオロギーになった。欧米諸国が先住民を虐殺し絶滅させたのは欧米文化の犯罪でなく、生物学の適者生存の法則にしたがっただけ。となる。

 今西イズム 共同生活のため対立をせず棲み分けて無関係に暮らすのが良い、という和のイデオロギーである。」

 

・なるほど。イデオロギーね。特定の政治的立場に立った考えということか、勉強になる。

 

「民族や国家を動かす最強の動機は屈辱の克服。そのため別の誰かを差別、差別された者が屈辱に反発する連鎖が歴史を形成するという仮説=史的唯幻論。」

 

・なるほど。差別がすべてのもとだが、この差別がどうして生まれるのか、差別の自由の有無などが問題。屈辱の抑圧、一時的沈静化そして暴発その連鎖ー救い難い。

 

「ストックホルム症候群(1970 年BK強盗に人質が協力した事件)。

 外国を憎悪し軽蔑し排除しようとする誇り高い誇大妄想的な内的自己から外国崇拝外国のようになりたいとする卑屈な外的自己への反転=戦後の日本」

 

・なるほど。単なる身の保全、無意識の自己防衛、個体維持本能では無いのだ。

 

第三部 セックス論

 例によって斜め読み。読み飛ばした箇所があるかも知れない。

 

「まずリビドーが自分の中にとどまっている自己性愛期があって、その後リビドーが外へ向かう対象性愛期が来ると言うフロイトの性発達過程の図式は、このことを指している。これは人間に特有な過程である。この性欲の非対称性は本能に基づくものではなく人間特有の文化的条件に由来している。

動物雄が派手、雌が地味、雌が雄を選ぶ 人間は逆 女が派手男が地味 男が女を選ぶ。」

 

・本能が壊れたとする証拠を探して涙ぐましいものがあるが、延々と繰り返し展開される性的唯幻論とエピソードを、女性たちはどう読むだろうか、と考えても想像出来ない。性差別ととるのか、よもやよく考えてくれた、と言うことはあるまいと思うが。男である自分でも、男のことであってもよく分からないのだから、答えは女性であっても同じようなものかも知れぬ。

 

「マックスウエーバーの「プロティスタンティズの倫理と資本主義の精神」禁欲的なキリスト教の世俗化(働くために働く、貯めるために貯める)の結果産業資本家と労働者の誕生。」

 

・(歴史についてでなく)宗教と性文化に収録されているのは、少し奇異な感じがしたが、岸田氏はおおよそウエーバーの理論を認めつつ、他に重要な要素として「性、セックス」があったのに、ウエーバーがそれを何故避けているのか理解し難いと言いたいようだ。

 はるか昔の1964年、社会人になった2年目職場でこの本を使って読書会をやったことを思い出した。自分が言い出しっぺ!、マイ サラダデイである。

 

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あとがき 

「フロイトは「性理論に関する三論文」で人間の性本能が壊れたとした。それをヒントに性だけでなく、あらゆる本能も壊れたと拡大した。この三部作によって、人間の自我、歴史、セックスがまさに幻想に支えられて成り立っていることが理解してもらえればいいなぁと期待している。」岸田秀。

 

・人間の性本能が壊れたとする理論はもともとフロイトのものであり、岸田秀氏はそれをヒントにあらゆる本能(個体維持本能?)も壊れた、と拡大したことを確認。本能が壊れた結果、その代わりに幻想である自我が生まれ、文化(歴史)が生まれたーと。これも確認。

個体維持本能の代表たる食欲について、あまり触れていないのは何故だろう?。食的唯幻論があっても良さそうだが。不思議である。摂食障害、拒食症、過食症、ダイエット、断食道場、大食い競争、ゲテモノ食いなどは本能崩壊とおおいに関係ありそうだが。自我発生、文化発生をどう説明するのだろうか。

 

 さて、唯幻論理論で本能が壊れたからというのは、その後の議論展開にどれだけの重みがあるのか。読み手へのインパクトが強いことは認めるが。

 動物(生物)として進化した人類が意識、自我、文化、歴史を生み出したからと議論を始めてはまずいのか。例えば、直立歩行を始めて脳が発達したので、自我が生まれ、文化歴史が生まれたとか。それが幻想であるか、そうでないかを考えれば良い。

 性本能の特異性も、食欲の特異性も本能が壊れたからでなく、生物としての人類の特徴に過ぎないのではないか。

 

 まだフロイト理論や岸田唯幻論が充分理解出来ていないからか、残念ながらまだ自分はこのレベルにある。よる年波に思考の根気が続かず、理解力低下が著しく明らかに耄碌寸前状態にあり、これ以上再読を続けても理解できないのではと、すっかり自信喪失状態にある。

 読後感

 たしかに「大全」というだけに見出しの文章、本文とも整理されているので、これだけで岸田唯幻論の概要は掴めると思う。「唯幻論始末記」よりこちらが良いとは思うが、難は分厚いことだけである。

 

 川柳擬き

   読了の唯幻論や半夏生

 戯れ歌

   再読の唯幻論や半夏生 半知半解 半分可笑し  

 

 念の為ながら、「可笑し」は唯幻論ではなく戸惑っている自分のことである。


 

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岸田秀再読 その11 「唯幻論大全」2013 (1/2) [本]

 唯幻論大全 岸田秀 岸田精神分析40年の集大成 飛鳥新社2013 

 

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  今からほぼ10年前、著者79歳のときに刊行された589pの大冊。

 40年の集大成とあるように唯幻論を「自我論」、「歴史論」、「セックス論」の3部に整理。巻末に初出が掲載されており、原題も変えたものがあるよう。ただ集めただけでなく記述内容も補強的に加筆、加除されたところもあるが、基本的論議は変わってはいない。

 例によって、自分が気になっているところや、新たに気づいたところなどをメモしつつ通読したが、本は分厚くて手に重く閉口した。

 

第一部 自我論

「人間の本能は、生まれてから後に壊れる。このことを示す証拠はたくさんある。例えば、生まれた直後の人間の新生児の指及び掌を刺激するとひとりでに把握反射が起こる。強く握るので、鉄棒にぶら下がることができるほどである。また、新生児を支えて直立させ、床に足がつくようにすると、原始歩行と呼ばれるが、反射的に歩き出す。ところがしばらくするとこの把握反射や原始歩行の能力は失われ、1年くらいたたないと回復しない。それに反して、例えば猿においては、新生児の時に持っている把握や歩行の能力が中断されることなくそのまま持続する。すなわち、人間においては本能として持っていたこれらの能力が一旦壊れ、後から学習によって同じ能力を新たに身に付けなければならない。p49」

 

・未熟児として生まれのが、「本能が壊れた理由だ」とする説明のなかの記述。

 把握反射や原始歩行は、自然発生は系統発生を繰り返す際の一つの現象に過ぎないのでは?本能が壊れたためではなく。

 

「誰でも幼い時から親子関係の中で築いてきた自分の物語に支えられて、自我の安定を維持しているものであるが、この物語に欺瞞がなければ何ら問題は起こらない。この物語に欺瞞があり、それを隠蔽し、抑圧する時、神経性的症状が発生する。したがって、神経症を治すためには、自分の物語に含まれる欺瞞を隠蔽し、抑圧することをやめて、真実を明らかにしさえすればいいのである。ただそれだけなのである。しかしそのためにはそれまでの自我の安定を捨てなければならず、それが招く不安と恐怖を引き受けなければならない。神経症が治るか治らないかの問題は、それまでの偽りの自我の安定を捨てる決断をするしかないかの問題である。その後は、新しい真実の自分にある物語を構築してゆけばよいのである。それも容易ではないが…。」p106

 

・この論調は穏やかだが、岸田氏は人間(集団や国家も)は大なり小なり神経症である、大なり小なり狂っていると著者はあちこちで激しい口調で書いている。またそれは自己欺瞞があるからで、それを治すにはそれを直視することだが、それは自己を否定しかねないので極めて難しいとも。

 この穏やかな表現と、別のところでの激しい表現の落差は、何かと戸惑う。

 

第二部 歴史論

「時間は、悔恨に発し、空間は、屈辱に発する。時間と空間を両軸とする我々の世界像は、我々の悔恨と屈辱に支えられている。p108

 かくして、時間と空間が成立したとき、人類の歴史が始まったのである。p119

 

・岸田氏は言って無いけれど、個々人では時間と空間が成立したとき、人生が始まったのだろう。

 藤森照信 どっかヘンだぞと体と気持ちがついていかない。(中略) 頭では説得されつつも全身では困ってしまうのである。

藤森照信(ふじもり てるのぶ、1946年- )は、建築史家、建築家(工学博士)。東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

 米原万里 国家や文明を精神分析の手法で見ることに抵抗。(中略)かなりトンデモ本ぽい。

 米原 万里(よねはら まり、1950年 - 2006年)は、日本のロシア語同時通訳、エッセイスト、ノンフィクション作家、小説家である。「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」「オリガモリソブナの反語法」などを読んだ記憶がある。父の米原昶(いたる)氏は共産党機関誌編集長。

 

・集団、国家を個人の心理、精神と同じように扱うことへの岸田氏への批判例と岸田氏の反論が面白い。

 おおかたの読者の思いも似たようなものだろうが、自分は本件あまり違和感はないことは前にも書いたとおりである。むしろ本能が壊れた方に納得感が弱い。

 

 「しかし、史的唯幻論論は、これまでいずれの史観も納得できず、なんとなく居心地が悪かった、その居心地の悪さを解消する、わたしにとって全く好都合な史観であって、自分に好都合な虫の良い身勝手な見方を選ぶと言う点では、わたくしもかつての大日本帝国やアメリカ帝国やソ連帝国と同罪ではないかという疑問が出てくるが、少なくとも史的唯幻論は史的唯幻自体も幻想であると考えており、おのれの見方を絶対視せず、1つの正しい世界のあり方や見方などが存在しないとしている点において、他の史観よりもいくらかマシであるいうことにして、この疑問はこれ以上考えないことにする。p146」

 

・史的唯幻論もまた幻想だというパラドックス。唯一の正しい史観など存在しないと自覚しているだけマシ。これ以上思考停止。なんと素直な…。

 

「神と理性との違い 神は個人の外にあり理性は個人の内にある。共通点は全知全能。普遍性、絶対性。」

・神と理性、これがどれだけ災忌を齎したか!と言いたいのだろう。キョウレツで、キビシイ。

「フランス革命 抑圧された民衆ではないある種の人々が全知全能の理性に基づいて新しい世界を創造しようとした誇大妄想的企てであった。」

 

・抑圧された民衆蜂起の近代革命とは真っ赤な嘘。ヨーロッパ世界史の常識は欺瞞。

「道義戦争 道義の勝敗 国家存立の精神的価値の根拠 存在する価値のある国民の共同幻想で国家は成り立っている。軍事力、領土、経済力があっても国は消滅する。」

 

・道義的観点から戦争の勝敗を見直すというのは、グッドアイデアだが、その「道義」も幻想?。

 岸田秀再読 その12「唯幻論大全」 2013  (2/2)へ続く


 

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