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岸田秀再読 その18「一神教vs多神教」(3/3) [本]

 

 岸田秀再読 その17「一神教vs多神教」(2/3)からの続き

 

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文庫版 岸田秀あとがき 唯幻論の批判に対する反批判 2013

「わたしが気に喰わない、癪に障る、唯幻論が肯定できない、批判したいというのは大いに結構なことであるが、わたしは冗談を言っているのではなく、本気で真面目に自分が考えていることを述べているのだから、せめて斜に構えて唯幻論をまともに取りあげず、軽くいなしてからからかうようなことはやめて、そちらも真面目に論理の誤りや根拠の曖昧さを突くとかして、正面から批判してもらいたいと衷心から思っている。」p250

 

→岸田氏はしばしば気にして反批判を書いているが、中には雑音もあるし批判する人がいるのは、世の常なのだから放っておけば良いのでは、と思う。それにつけても言葉の人を傷つける力の強いのに唖然とする。

 

解説に代えて 三浦雅士   「正義感には憎しみが籠っている。」1970年代からの贈り物である。

 

 例えばカントの「純粋理性批判」に言う「理性」とは仔細に読めば、岸田秀の唯幻論のその「幻」のようなものであることがわかる 外界に接しているものは直感で、それを整理するのが悟性で、外界に一切関わらずに、悟性がまとめた情報(言語化され概念化された情報)だけをもとに、つまり間接情報だけをもとに考えるのが理性なのだ。したがって理性は常に間違う危険性と共にある。

 岸田秀がやっていることは「純粋自我批判」 人間が発明した「自我」はなるものがどこで間違うか、なぜ間違うかをはっきりさせること、つまり批判することが必要だというのが、岸田理論の骨子だ。」p254

 

 丸山圭三郎は、人間は言語を獲得したために本能が壊れたと考える。

 カントは、人間と人間以外の動物が決定的に違っていて、それは理性があるかないかの違いだとする。

 丸山は、動物と人間のあいだにそれほどの違いはない。言語を持っているかどうか。言語が飛躍的な力を人間に与えた。それが文化。言語獲得の結果自然から人を隔離した。丸山は哲学思想、世界を究明したいという個人の知的欲望の救済に的を絞る。岸田は自我が共同幻想つまり歴史と文化をもたらしたことに注目している。考察対象が異なる。

 岸田は自我の成立以上に今現在どのような悪さをしているかに関心がある。それを解釈し直しいわば治療しようとする。

 

吉本隆明  文芸批評の原点を探るため言語論へと進み、その過程で国家論構想に至り、提起したのが共同幻想(国家や社会を考える手がかりとして重視1968)、対幻想、自己幻想。

 対幻想とは、他者論。人間にとって最大の他者は自分自身=母の所産。自我にせよ言語にせよ人類が哺乳類の一員である以上必然。自我、言語は哺乳の期間が無ければ成立しなかった。

 共同幻想 吉本は共同幻想と自己幻想は転倒した関係にあるとし、岸田は自己幻想も共同幻想も同じものとする。岸田が正しい、少なくとも大きい可能性を秘めている。集団こそ個人の始まり。

 

「一神教vs多神教」の中でも最も印象に残る岸田さんの一言は「正義感には憎しみが籠っている」だが、今こそ噛みしめられなければならない言葉だろう。正義を標榜するのは常に集団、つまり集団を背負った私なのだ。そして集団を背負った私はほとんど必然的に憎しみの対象、すなわち敵を作ってしまうのである。本当は思想に歴史などない。歴史もまた思想すなわち幻想に過ぎない。けれど、様々な思想が刺激しあって沸騰する時代、互いに深め合う時代と言うものが稀にはあって、記憶をさかのぼると1970年代はまさにそういう時代だったと言う気がする。正義感には憎しみがこもっていると言う言葉は1970年代から届いた貴重な贈り物なのだ。古今東西人は正義を論じてきた。だが、正義と憎悪は紙一重であるとする考え方は多くは無い。岸田氏のこの指摘は、21世紀の今こそ熟考されるべきだろう。一神教の核心もまたそこにあると思われるのである。」p202

 

→1970年代が様々な思想が刺激し合い沸騰し、互いに深め合った稀な時代だったかどうかは不学にして自分は知らない。ものぐさ精神分析が出たのは1977年だから1970年代ではあるが。一神教の核心とはそのとおりに違いない。

 

 丸山 圭三郎(1933〜1993)は、フランス語学者、哲学者。ソシュール研究の第一人者であり、終生「コトバ」の本質を追究した現代屈指の言語学者・哲学者。著書に『ソシュールの思想』(1981年)、死の不条理と向き合った『生の円環運動』(1992年)、「生命と過剰」、「ホモ・モリタリス」など。晩年、井筒俊彦を高く評価したという。フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857〜1913)は、スイスの言語学者、記号学者、哲学者。「近代言語学の父」といわれている。

井筒 俊彦(1914年(大正3年) - 1993年(平成5年))は、言語学者(語学の天才と言われた)、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。

 

読後感

 

→およそ6〜500万年前人間(ヒト亜科)が地上に生まれ、超古代文明(アトランティス、ムーなど)を經て紀元前4〜3000年頃古代文明、エジプト文明、メソポタミア文明、インド文明、漢文明などを作り上げた。人はその過程で、人間は地球上をどう移動したのか、移動の動機は奴隷の発生、逃亡だけではあるまい。他にも例えば極北、極東、南海など未知の世界への憧憬、フロンティアスピリットもあったのではないか。

 もし人間の本能が壊れたとして、それは文明史のいつの頃からだったのか、あるいは最初から壊れていたとすれば、生じた自我がいつからどういう理由で、かくもおかしな自我に変容したのか。よもや初めからではあるまい。

 これらの疑問は、既に人類学、世界歴史学などでかなり解明が進んでいるに違いないが、残念ながら不勉強で知識に乏しいので、岸田秀氏の本ばかり読んでいるとそのペースに巻き込まれそうな気がしてくる。

 

 それにしても氏の着眼点の独自性には驚かされる。すべて理解出来そにうにはないけれど、なお少し読んで見ようと思う。


 

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岸田秀再読 その17「一神教vs多神教」(2/3) [本]

 

岸田秀再読 その16「一神教vs多神教」(1/3)からの続き

 

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 第3章なぜ多神教は一神教に負けるか?

 

 文字が無ければ一神教は成立しない。具体的世界とは別の抽象的世界をつくるには文字は不可欠である。キリスト教の聖書 イスラム教のコーラン。一神教の成立は都市において。多神教は農村の信仰。

 「抽象的な絶対神を求めるのは、ひとつの逃げ込み先というか、自我にひとつの欺瞞的な安心感を与える幻想なのです。唯一絶対神を信じることができれば、精神的に非常に楽なのです。だから誰にも唯一絶対神を信じたい誘惑がある。そういう誘惑に抗しなければならないということを言いたいわけです。」p91

 

 仏教の解脱とは違う。自我を捨てれば人間は生きていけない。(必要悪) 。自我は病気、 自我は弱い方がいい。(人間は多神教的相対主義の方が良いという理由)

人類の歴史は自我の強い奴と弱い奴が対決すると、必ず強い奴(病気の重い奴)が勝つ。絶対矛盾的状況だ。ネアンデルタール人(絶滅=自我が弱い)とクロマニヨン人(現世人=自我が強い)。

 母性的宗教は世界宗教にはなれない。一神教は父性的宗教、抽象神なので規模拡大が可能。

 共産主義も一神教。ユダヤ教かキリスト教の改訂版である。

 

「そうなんですね。何か正しい処方箋を1つ見つけ、一人残らず皆がそれに従えばうまくいくという考えがそもそも間違っているんですよ。そんな処方箋は無いんですよ。もしあったとしてもどんな正しい事でも、ほどほどの限度内にとどめておかないとすべて間違ったことに転化します。p109」

 

→一神教は他の価値観を一切認めず、集中力が強い?抽象神のほうが力がある。多神教は力が分散するので弱い?岸田氏は明言してないが。確かにキリスト教の布教力、イスラム教の拡大力の大きさを見ると、そうとれる。仏教は布教でなく中国がインドに行って学び、日本から中国に留学して学んだ者が国内で布教するところが違う。キリスト教は掠奪、多神教を殺しつつ、力で改宗させる、イスラム教はやみくもにアッラーのもとに平伏させるという印象がある。

 

 第4章 科学も一神教か?

 一神教は世界を一元的に見る見方(ひとつの世界観)である。ローマ帝国はヨーロッパを征服したその不可欠の道具がキリスト教。征服されたヨーロッパがキリスト教を足場にして世界制覇、植民地化する。そのバネがヨーロッパ人の屈辱体験。

 アフリカから黒人に差別され追放された屈辱体験、エジプト帝国で奴隷にされた屈辱体験、ヨーロッパ帝国に征服された屈辱体験。(アメリカはヨーロッパから追放された四度目の屈辱体験…。と、岸田氏は別のところで言っていたような。)

 ヨーロッパ人の言う理性とは神の別名みたいなところがある。

 

「科学は宗教的情熱に動かされて、既成宗教のキリスト教にとって変わろうとしたんですよ。だからキリスト教側があんなに怯えて弾圧に走ったのです。科学の背景にあるのは理性と言うことになっていますが、理性の宗教と言うのは一神教の変形でしょう。理性というのが最高神の代わりになっているわけですから。p114」

 

 自然科学も一神教の一種の異端、マルクス主義も一種の異端。プロティスタンティズムも異端。その異端を弾圧することでキリスト教は、カトリシズムに固まっていく。

 科学は反証可能だから宗教ではないとしたが、人生の重要なものは繰り返しがきかないので科学的に証明できない。科学主義という信仰になってしまう。科学万能主義は誇大妄想だ。

 一神教的自我は神に支えられて強い。日本人の自我はそれがないので弱い。ヨーロッパ人の自我に負ける。自我は強い方がいいのか。

 

→歴史という幻想を解消することは出来ない。歴史の相対化は必要だが。悔恨のない人生はないと岸田氏は言う。自分も「我が人生に悔いなし」という歌は嘘っぽいと思うのでこれは同意する。

 

 第5章 正義はなぜ復讐するか?

 自我は必要悪だから、いい加減な自我の方が良い。絶対的な自我でなく相対化していく自我。一神教的自我でなく多面的な自我。いろいろある考え方の一つの考え方と認める一神教的考え方とは形容矛盾か。自分だけが正しいとする、一神教的な考え方にどう対処するかは難問。p137

 絶対的な正義、絶対的な惡、絶対的な法もない。しかし正義、悪、法の観念は必要ないとすると、社会秩序が成り立たない。正義、悪、法を相対的に捉える必要がある。

 正義が復讐する理由。犯されたままでは自我が維持できない。回復しようとする衝動が復讐欲。

 いろんな考え方を許容すれば、一つの価値観を持つより、争いの程度はゆるい。

 

→中島みゆきの歌に「東には東の正しさがある。西には西の正しさがある♪」(旅人のうた)

というのがあった。世に正義が多すぎる。復讐心のない純粋な正義感は無い物ねだりか?

 

 第6章 一神教は戦争の宗教か?

 一神教は被抑圧者の宗教だからそれを打破すべく必然的に戦争と結びつく。

 自我は他者を含んでいる。迫害され差別されると、正義が失われ、自我はこれに耐えられない。被害者は正義感が強い。正義感には憎しみが籠っている。正義感に基づく行動は暴力的、破壊的。正義感ではいかなる問題も解決しない。

 ローマ帝国の支配下で支配層に迎合していたユダヤ教徒が堕落、イエスが神の国を説いて、民衆に支持され処刑されたのちキリスト教が成立、ユダヤ人批判に走る。

 プロティスタンティズムが体制化してマルクス主義が出てくる。

 自分の側に正義があることを示すため、絶対神の対比で悪魔が出現する。悪の枢軸(イラン、イラク、北朝鮮-ブッシュ)の起源。

 キリスト教を愛の宗教というのは、どれほどの人を虐待したか、という客観的事実を見れば無理。父なる神より神の子イエスが前面に出る。憎しみの宗教だからこそ反動的に愛を強調した。

 聖俗分離が出来ているのがキリスト教の最大の特徴だ。本音と建前の使い分けが出来る。

 被差別集団の特徴は、団結心が強く、被害者意識と復讐欲が強いこと、かつ戦闘的。

多神教は上層の人が創始。仏陀は王家の嫡男、ヒンドゥ教もバラモンという上層階級の宗教、日本の神道も天皇家の宗教。一神教は被差別の下層階級の宗教(闘争的、非寛容、戦争の宗教)

 布教は抑圧されていることを気づかせること、岸田も一神教は怖いと気づかせようとしている。一神教が間違いという議論自体が一神教的。(三浦)

 岸田 怪物にならずに怪物と戦う方法があるか(ニーチェ)

 

→岸田氏も一神教を相対化すること、全否定することの難しさを認めていると思う。それでも多神教の方が被害が少ないだけ一神教より良いと言っているのだろう。

 

 第7章 イスラムはなぜ聖俗分離出来なかったか?

 科学もキリスト教という一神教の帰結。宇宙は唯一絶対神が支配。その支配の法則を知るのが近代科学の出発点。同じ一神教のイスラムで近代科学が成立しなかったのはなぜか。

 キリスト教はヨーロッパ人にとって、押し付けられたものだから反発して神を殺し、全知全能性を人間が奪い取った。宇宙を神に変わり支配したかったのだ。神を相対化して聖と俗が分離して、革命が起こり、近代科学が発達した。ヨーロッパ人は誇大妄想的になり神が支配する宇宙の原理、すなわち永遠の真理を探求し始める。神を信じるから神の宇宙支配の原理を知りたいとするが、それは自己欺瞞の嘘。神の原理を盗み、その原理を使って宇宙を支配したかったのだ。無限に進歩しようとするのがヨーロッパの自然科学の特徴。成立動機を考えれば明らか。

 ユダヤ教は聖俗分離ができなかった。内面と外面の使い分けができなかった。イスラム教は、アッラーの神が上手くやってくれているので、神の原理を追求する動きもなかった。よって近代科学もイスラムには成立しなかった。

 

「イスラム教はアラビア半島に生まれ、アラビア半島中心に広がったわけですが、誰から押し付けられたわけでは無い。アラブ人であるムハンマドが神の啓示を受けて、同じアラブ人の民衆にその事実を告げただけなのです。そのため、ヨーロッパ人と違って、アラブ人は神を殺したい欲望を持たなかったのです。」p209

 

 キリスト教は終末に向かって進む。時間、歴史を重視。イスラム教は時間、歴史がない一瞬が神による。因果関係もない。

 「イスラム教は世界がその一瞬一瞬、神によって作られていくと言う発想ですね。だから、例えば水を熱するから湯になると言うんじゃない。水があるのはその瞬間のアッラーが作ったからであり、火があるのもアッラーが作ったからというんです。湯になるとすればそれもその瞬間にアッラーが作ったんです。簡単に言えばそういうことなんです。因果関係なんてない、あらゆる瞬間がアッラーに直属していると言う、そういう考え方でしょう。だからインシャラーなんですね。それでは、自然科学なんかが発達する余地は無いですよね。p214 」(インシャラーは、「神の御心のままに」イスラム教で絶対神アッラーを讃える言葉)

 

 本能の満足を求める自己。幻想我は生き甲斐、価値観、誇り、自尊心、アイディンティ、自惚れ、誇大妄想に由来する。現実適応を求める自己が現実我。幻想我と現実我の対立を何とか調整するのが自己の役割。面従腹背=聖俗分離、政教分離 二枚舌、本音と建前の使い分け、ユダヤ教、イスラム教よりキリスト教が使い分けが上手。p224

 アジアの中では日本人が上手かったが欧米人よりは下手。イスラム教、ユダヤ教がキリスト教に遅れをとったのは、使い分けが苦手だから。ヨーロッパは二枚舌を使い分け狡かった。ヨーロッパほど悲惨な歴史神、正義、聖戦、革命のために冷酷無情に殺し殺され、殺し合った人々はいない。聖俗分離したから戦争に強い。近代化は聖から切り離された俗が発達し、戦争も合理化した。戦死者も急増した。イスラエルがアラブパレスチナより強いわけも同じだ。

 聖なるものは、アイディンティの安定に関わるもの。誇り、価値集団の和、生きる意味、戦う目的など人間の行為を意義づけるものが聖なるものである。自我は幻想、現実には根拠のないもの、その自我に価値と根拠を与えるものが聖なるものだが、それは合理的に発見出来ない。p231

 

「人間は潜在的に別の世界、あの世、極楽、天国があって欲しいと思っているのではないでしょうか。死の恐怖と言うのは人間だけにあると思いますが、自分が完全になくなってしまうと言うことを100%信じるのは難しいですよね。どこかで何か超越的なものを信じたいわけです。あるいは信じることで生きているということがあります。」p232

「人間は、何か神秘なるもの、永遠なるものに自分の自我をつなげたい、と思っています。自我が幻想であることを知れば解決の糸口が見えてくる。自我が不安定故に宗教の働きがある。人殺しの正当化に使われにくい宗教ならどんな宗教でも構わない。人殺しの正当化に使われやすいのは一神教だ。」

 

→自我が不安定故に宗教の働きがあり、「宗教の働きが幻想だと自覚すれば解決の糸口がある」が結論であろうが、糸口であって具体的な方法は示されない。これは求める方に無理があるのだろう。最後に一神教vs多神教は、人殺しの正当化に使われやすい一神教よりまだ多神教の方がマシだとする。おおかたの人は賛同するのではないかと思う。

 

岸田秀再読 その18「一神教vs多神教」(3/3)へ続く


 

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岸田秀再読 その16「一神教vs多神教」2002 [本]

 

岸田秀 「一神教vs多神教」 聞き手三浦雅士(1946〜評論家) 朝日新聞出版 2013(2002)

 

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 これまで宗教について、一神教vs多神教という考えなどあまり持ったことがなく、宗教そのものの知識にも乏しいので、ある意味新鮮で面白く読んだ。自分には刺激的な面白い本だと思う。

 例によって気になった点を自分なりに解釈して、メモしつつ読んだ。後からメモを読み返すと、初歩的なことに感心してばかりしている。通読に思いの外長時間を要したが、ひとえに我がこの分野の無知がその要因だと思い知らされる。

 

 本は三浦氏が聞き手、産婆役として岸田秀の理論を引き出す形式である。第一章を除き2〜7章までの表題は問い(?)になっている。三浦氏が聞き岸田氏が答えているが、どうして、どうして三浦氏も自分の意見を言っている。書は1〜7章からなる(2002初版)。自分が読んだのは2013年朝日新聞出版の文庫版。

 

 以下自分なりの解釈を。「かっこ」内は直接の引用。→は自分の感想。

 

第一章 一神教は特異な宗教である

 

 一神教はひとつの特異な現象、異常な現象として中近東だけに発生したただひとつの例外。(世界の他の宗教は多神教である)

 迫害されて恨んでいる人たちの特異な宗教だ。ユダヤ教は、ニーチェの言うルサンチマンの宗教でユダヤ教から派生し展開したのがキリスト教。イスラム教も同じく恨みの宗教。

 ユダヤ教が一神教の起点。エジプト帝国の植民地奴隷がモーセに率いられて反乱を起こし集団逃亡。ユダヤ教を信じユダヤ人になった。被差別者の宗教である。よって恨みがこもっている。ユダヤ教から展開したキリスト教も同じである。

 ユダヤの神、ヤハウェはユダヤ民族の祖先ではなく(血縁関係ではない)、ユダヤ人と神は契約して信者となった。いわば養子縁組の関係。モーセはエジプト人。太陽神アトン信仰を奴隷たちに教え、奴隷たちがユダヤ民族となった。

 一神教はファミリー・ロマン(家族物語)の観念。よって全知全能の父という非現実的概念であり、抽象化傾向が強い。復讐欲と嫉妬心が強く残酷な罰を下す恐ろしい神。多神教の神と正反対。(ドジな神さえいる)

 ローマ帝国が軍事力でヨーロッパ人にキリスト教を押し付けたから、一神教が外へむかい、帝国主義、植民地主義となってゆく。押し付けられたので、押し付け返していく宗教である。

 キリスト教を押し付けられた被害者意識が攻撃性のもと。ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカで繰り広げた破壊の凄まじさを見よ。

 キリスト教特にカトリックは多神教的なところがあるが(マリア信仰)、ユダヤ教、イスラム教の方が一神教の原理に忠実である。

 ヨーロッパ民族は白人種で、人類最初の被差別人種である。報復の思想がユダヤ教、キリスト教教、イスラム教と続く一神教の系譜だ 白人の先祖は黒人から生まれたアルビノ、白子だった。白い肌は劣勢遺伝。差別された恨み(ルサンチマン)と一神教が結合した。

 エジプト人は黒人だった。エジプトの植民地だったギリシャ人も。

 アッラー、ヤハウェも戦争神である。ベドウィンをまとめる神、遊牧民、牧畜民、農耕民をまとめる神である。部族連合を成立させる神。多神教を追い出す。

 豊かなアフリカから自然環境の厳しさの中へ。差別、報復、多神教を放棄させられ はるか天に唯一神を空想してしがみついた。

 自分たちが、特異であるかも知れないという疑惑を、払拭し隠蔽するために、逆に最も普遍的で最も正常だと信じ込むようになった。それにしてもブッシュの独善、完全な正義、独善、誇大妄想は不可解。

「音標文字と象形文字、一神教と多神教、罪の文化と恥の文化、肌の色、胎児化の程度など。白人種と他の人種との違いを見て白人優位の根拠にする。白人種が生まれた時のトラウマ(劣等感)は根が深い。」p59

 

→(にわか勉強)イスラム教とは〜6世紀アラビア半島でムハンマド(預言者)が絶対神アッラーのもとに遊牧民等を纏めたのがイスラム教。ユダヤ教、キリスト教の影響を受けている。経典コーラン。偶像崇拝否定。体制派スンニ派(最大多数派)、急進派シーア派。2019年16〜18億人の信者。サウジ、中東、東南アジアなど。

 

 一神教は三つとも被差別者の宗教で、恨みがこもっている。そうでないと彼らの残虐性は理解しがたいとする説、エジプト人、ギリシャ人は黒人とする説などは独自なのか、賛同者がどれだけいるのか自分には分からない。

 

第2章 自我は宗教を必要とするか?

 ユダヤ教からキリスト教が派生し、さらにイスラム教が派生、同一の宗教の三つの宗派が一神教だ。

 アラブの大義がイスラエルに大敗=アラブナショナリズムが否定されて一神教が先鋭化。原理主義は思考停止の一症状である。タリバンも追い詰められてイスラム教の原理にしがみついた。追い詰められて堅苦しくなる。ビシャブ、女子教育の禁止、ジハード、自爆など極端に走る。

 

「人間の自我と言うのは自分だけのもので、しかも他から切り離されていて孤立していて独自なものですから、人間の個人が死に、自我が滅びるということは、他の何ものによっても埋め合わせできない絶対的な喪失です。だから、人間だけに死の恐怖があるのだと思います。そして死の恐怖というのは耐え難い恐怖ですから、人間はその恐怖を鎮めるために、実は自我というのは切り離されてはいないんだ、孤立してはいないんだ、神につながっているんだ、という信仰を必要としているのです。それが宗教になったんだと思います。そこで自我を支える上はひとりなのか、沢山いるのかという問題になるわけですね。p61」

 

 不安恐怖が強いほど強い自我を必要とするのだ。自我を強くするには強い神が必要になるのだ。自我を消滅させたい、「無我の境地に達したいvs自我を強くしたい」は二律背反。

 多神教は森林の宗教、自然の恵みを享受vs一神教は砂漠の宗教、自我を堅持したい。

 人間の自我はまず自分を人間と思うところから。そのためには自分を人間だとしてくれる何かが必要。神でなくとも良い。親、祖先、神。祖先崇拝は多神教。一神教は他を排除するが、多神教は一神教を排除しないから一神教の方が良い。

 

→自我を支えるものの一つが宗教。不安が強いほど強い神を求める。それが一人の神(一神教)か、複数(多神教)か。分かりやすい。一神教vs多神教への着眼は、独自なのかどうか不学にして知らないが、議論の展開に拡がりを持つことは確かで、凄いと思う。

 

 岸田秀再読 その17「一神教vs多神教」(2/3)へつづく


 

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