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白鷺42年 〜鷺宮今昔〜 [随想]

 


 妙正寺川辺の遊歩道が自分の主たる散歩道だ。遊歩道は両岸にあり、かなりの距離があるが、歩くのは西が早稲田通りにかかる永久橋から東は鷺ノ宮駅近くの双鷺橋の間のごく短い間である。


 


 妙正寺川は川というより排水路というべき風情だから、むしろ街なかを歩いた方が変化があって面白いくらいだ。


しかし、少ないながら遊歩道には休憩ベンチがあるので、最近はどうしてもこのコースにならざるを得ない。


遊歩道と言っても木々も少ないので日陰、緑陰などが少なく、コロナ以後ジョッギングランナーが増えたのも難点。


 


このところコロナフレイルで、すっかり弱って歩数も減った。


ウォーキングや散歩というよりよろよろ歩き、情け無いが水源地の妙正寺池(妙正寺公園)へもたまにしか行けなくなった。


 


中野区の区民活動センターの広報誌「鷺宮」に昭和32年と現在の鷺宮橋と双鷺橋の写真が掲載されていた。


写真の右鷺宮橋は家から1分、左の双鷺橋は家から7〜八分の鷺ノ宮駅の近くの橋である。


 


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昭和32(1957)といえば、疎開地栃木県那須烏山市の男子高校2年生。田舎でのんびり暮らしていた。写真で見る限り、当時の中野区白鷺の地も、東京郊外といっても我が田舎の雰囲気と同じようなものだと分かる。しかし現在を比べればやはり東京の方が変化は大きいのではないかと思う。


 


昭和55(1980)西多摩の東大和市から越してきたので、この鷺宮の地に住んでなんと42年になる。我が人生の半分を超えたことになる。もっともこの内、家族帯同転勤の大分2(福岡1年この間は空き家にしていた)、単身赴任の大阪2年の計5年間は住んでいなかったが。


 


このことは「白鷺35年」と題して201512月のこのブログに書いた。


https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2015-12-23


 


よって今回は、「その2」みたいなものになる。


 


前回は白鷺なる地名の由来や、かつて飛んでいたであろう鷺を、自分は35年間一度も見なかったことなどを描き、「眼裏に白鷺を見て暮しをり」と駄句を詠んだ。


 


今回の冷や汗駄句、駄句。題して「春団地」。


 


鷺ノ宮駅の南口を出て三分ほど歩くと東京都住宅供給公社(JKK)の団地が上掲の鷺宮橋まで続いている。この辺りの人は通称「西住宅」と呼ぶ。鷺ノ宮駅の西にあるからであろう。4、5階建18棟あって敷地は広い。 


我が家から鷺ノ宮駅までは、この団地内の遊歩道を歩くことになる。団地には広い庭と公園があり、樹木も大きくそこそこあるので、今となっては、この地の住宅の密集化をおおいに防いでいることになり、ありがたい。


団地集会所には数本の巨桜(おおざくらーこの辺にしては)があるので近年は花見をここで済ませ千鳥ヶ淵、新宿御苑、井の頭公園なども久しく行っていない。


 


暮れかねる団地の時報新世界


夕方団地のスピーカーからドヴォルザークの「新世界より」(交響曲九番第二楽章)の曲が原曲という「家路」(堀内敬三作詞の唱歌)のメロディが流れる。「遠き山に日は落ちて〜♪」である。暮れかねるは遅き日、永日と同じ春の季語。


 


見上げれば枝重なりて花天井 


遠目には花天蓋の巨桜


集会所の太い桜枝は、遊歩道の真上を跨いで妙正寺川を覗いている。遊歩道の真下で仰ぎ見ると、枝が層をなして伽藍の天井に見えるし、大きいので遠くから見れば、形の良い樹全体が花の天蓋のようだ。


 


人気なき雨の団地の巨桜


さすがに雨の日は花の下に人が殆んどいないことがあって、その静けさに驚くことがある。


 


一昨日(おととい)と昨日のひよどり落花かな


桜には毎日ひよどりが来て花を散らす。鵯は秋の季語。落花は春だから季違い。酒井抱一の句 鵯の花吸ひにくる夜明けかな もあるしよしとしよう。


 


双鷺橋川面を覗く花枝垂れ


眺むれば双鷺橋詰め花筏


上掲写真の双鷺橋を詠み込んだ桜の句。妙正寺川の川幅は狭いので流れる花筏は速い。双鷺橋の近くに鷺宮八幡神社とその別当寺白鷺山福藏院が同じ敷地に隣接してある。そこの桜も風情がある。


 


多作多捨拾ふ句はなし目借り時


 


駄句ばかりつくる詠み手にも、桜の季節は句材が尽きない。断るまでもないが、駄句は蛙の目借り時のせいにはあらず。


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白鷺山南蔵院 [随想]

 


福藏院正幡寺の所在地は中野区白鷺1丁目になる。近隣の地名が井草、沼袋、阿佐ヶ谷、荻窪など谷や低地を現しているので分かるようにこの地は川、湿地が多い。昔から白鷺が多く棲み飛んでいたのであろう、寺の山号を白鷺山(しらさぎさん)とつけたという。


鷺宮地区は発展して広くなり、1965(昭和40)年の住居表示施行により鷺宮、上鷺宮、白鷺に分かれた。自分が住んでいる白鷺(しらさぎ)という字名はこの山号に由来する。


 


福蔵院は真言宗豊山(ぶざん)派。宗祖空海弘法大師。総本山奈良の長谷寺。東京では西新井大師(總持寺が総本山、有名なのは護国寺などがある。宗紋輪違いとか。


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福藏院は西武新宿線鷺ノ宮駅(駅名は何故か「ノ」が入る)のすぐ近く、妙正寺川のほとりの閑静な住宅街の中にある。


隣接して鷺宮八幡神社があり、明治の神仏分離までは福蔵院が別当を務めていたという。つまり寺はいわゆる神宮寺で神社の運営管理をしていた。


開山の頼珍法印が大永元年(1521に亡くなっているので、「新編武蔵風土記稿」では文亀・永正(150121)の頃の創建と推測されている。東京の最古の寺は金龍山浅草寺(628)というから、それに比較すればさして古寺ではない。


 


本殿の屋根に太陽光発電パネルがある。景観を損ねるという人と、合理的でかつ屋根のデザインにフィットしてなかなか良い、という意見とに分かれるようだ。たしかに言われるまで屋根にそれがあるとは気がつかなかった。


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庭が綺麗に整備されて庭木の手入れが行き届いて、敷甃も端正。


 


寺の庭には桜、ヤマモミジや柿、木斛、花梨、槇、石楠花などが植えられ四季を通じて表情を変える。なかでも樹齢350年というヤマモミジには圧倒される。


今年の春は、3月中旬の開花、二分咲きのころから41日〜8日の花祭りを経て花冷えの時期、落花に至るまでの桜、その後の木々の新緑とたっぷり寺の庭を散策して楽しませて貰った。


 


ある時、立派な常緑樹を指して庭師に、この木は車輪梅ですかと聞くと木斛(モッコク)との答え。怖そうな職人さんだったので、それ以上聞くのが憚れたからネットで調べた。


「モッコク(木斛)は、モッコク科モッコク属の常緑高木。別名でイイクともよばれる。江戸五木の一つ。モチノキやマツと並び「庭木の王」と称される。


江戸五木(えどごぼく)とは、江戸時代に江戸で重視された造園木で


①モッコク 木斛


②アカマツ 別名雌松 女松 (クロマツが雄松 男松)


③イトヒバ サワラ椹の変種。(サワラは檜に似た木)


④カヤ 榧


⑤イヌマキ 犬槇 」とあった。


 他の寺でも同様だろうが、ここには江戸五木や庭木の王が殆んど植栽されているに違いない。


寺の鐘楼も立姿が優雅な趣き。桜の季節には一層引き立つ。


 


本堂のソーラーパネル花曇り 


鐘楼の腰に花散る古刹かな


新品の地蔵前掛け花まつり 


 


山門の近くに都内には珍しい立像の「十三仏の石仏」がある。


立札をグーグル検索(テキスト)すると次のとおり。少し長い引用になるが。


 


ここにならぶ仏菩薩が十三仏です。 右から不動明王(初七日釈迦如来(二七日文殊菩薩(三七日普賢菩薩 (四七日地蔵菩薩(五七日弥勒菩薩( 七日薬師如来 (七七日観世音菩薩(百か日勢  至菩薩(一周忌阿弥陀如来(三回忌閦如来(あしゅく七 回忌大日如来 (十三回忌虚空蔵菩薩 (三十三回 です。 この十三の仏菩薩は、死後の忌日をつか さどるもので、冥界で生前の審判を受ける死者の救 済を願ってまつられたものです。このように自他の供養がまとめて修められることから、室町時代以降、 民間で広く信仰されました。


銘によれば、八体は、寛文六年(一六六六)の大 日如来像を最古として、貞享二年(一六八五)の普 賢菩薩像に至る十九年間に造立され、あとの五体は 破損したものとみえ、現存のものは百余年後の寛政 八年(一七九六)に真言講中の二十七人によって再 建されたものです。


このように石像で十三体そろったものは都内でも めずらしく、他の石仏と同様、江戸時代後期の日常 生活に深く根づいていた庶民信仰の現われといえま しょう。


            昭和五十六年三月  中野区教育委員会」


 


花冷えや地蔵の前掛け寸足らず


十三仏涎前掛け花衣


蓮華坐に桜蘂降る十三仏


 


 


 


 


 


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鷺宮八幡神社 [随想]

 


 


自分が42年住んでいるこの地中野区鷺宮地区白鷺は、区の北西部に位置する。北に練馬区、西に杉並区が隣接している。最寄り駅は西武新宿線鷺ノ宮駅になる。


 


この駅から歩いて二分の近くに、鷺宮八幡神社がある。西暦1000年ころ、京都から東日本統治のため派遣されていた源氏の源頼義が、東北を平定した時に建立した鷺宮八幡宮と伝わる。


昔から鷺が多く棲んでいた地なので「鷺宮」の名をつけたとされる。


 


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自分の毎年の初詣はここである。祭神 は應神天皇。


境内末社(御祭神)は次のとおりで、小なりと言えども多くの神社がそうであるように沢山の神々が集まっている。


一 六社さま 


  稲荷神社(宇迦之御魂命御嶽神社(麻知分)


  八雲須賀神社(須佐之男命北野天満神社(菅原道真公)


  粟島神社(少彦名命)疱瘡神社(大己貴命) (大黒さま)


二 稲荷神社 宇迦之御魂命


三 御嶽神社 櫛眞知命(火盗難少彦名命(長寿・平癒)


 


例大祭 は八月二十八日。例年神輿を子供達が曳いていたが、コロナでこのところお休みである。


 


源頼義は鷺宮八幡を建立した時、同時に鎌倉街道を挟んで高松八幡神社を対をなす形で建立したが、あちらは地名の高松(今の練馬区高松)の名がつけられた。建立時が鷺宮より少し後だったので、若宮八幡宮とも呼ばれる。自分はまだ参拝したことはない。


 


ネットによれば、鷺宮八幡については次のとおり記されている。


 


「鷺宮八幡神社の旧称は鷺宮大明神であり、これが地名の由来となっている。旧上鷺ノ宮村、下鷺ノ宮村の氏社であり、練馬区高松にある高松八幡神社とは鎌倉街道を挟んで対に建てられた由縁がある。


社伝によれば、1064年(康平7年)に前九年の役に勝利し東北を平定した源頼義が戦勝を感謝し、国家と源氏の安寧を願い建立したのが始まりとされる。高松八幡神社も同じ由緒であり、両社は鎌倉街道を挟んで南北に建立されている。鷺宮の方が先に建立されたので、高松の方は若宮八幡宮と呼ばれるようになった。


また1884年に編纂された「新編武蔵風土記稿」の上鷺ノ宮村の項目には、「古ハ大木数多アリテ多クノ鷺ヤドリシユヘ、土人、鷺ノ森或ハ鷺ノ宮ナドイヘリ」と記されており、その昔境内に老樹が林立し、鷺が多く棲息していたことから、近隣の里人は鷺宮大明神と称し、これが地名の由来となったとされている。」(ウキペディア)


 


建立した源頼義は河内源氏2代目、その子義家が3代目の有名な八幡太郎義家である。石清水八幡宮(京都府八幡市)で元服したので通称八幡太郎義家と呼ばれた。白川帝に仕えて武勇伝が多々ある。


余談ながら河内源氏の初代は頼義の父、源頼信、時代が下がるが源頼朝は7代目。


 


河内源氏(かわちげんじ)とは、河内国(現在の大阪府)に根拠地を置いた清和源氏のことをいう。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。


 


源頼義の八幡神信仰は篤く鶴岡八幡宮(鎌倉)、大宮八幡(杉並区)も彼が建立している。


 


八幡神信仰の神「八幡神」(やはたのかみ、はちまんしん)は、我が国で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。鷺宮八幡神社でいえば、隣接する白鷺山南蔵院がそれにあたる。


 


白鷺山南蔵院


 


https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2022-04-11


 


八幡神社、伏見稲荷神社によらず日本の多くの神はそれぞれの土地にあまねくおはし、現代生活の中にあっても人々の願いや祈りに応えるために存在する。鷺宮八幡神社もその一つだが、それなりに建立のエピソードがあって面白いものだとしみじみ思う。


ひとくちに寺社仏閣、神祇釈教というがお寺や神社は日常生活に必要な時に必要なと人にだけ関わるだけなのに、静かにこの国にあっって連綿と生き続けている。奥が深い。


 


蛇足ながら、上記のネットの記述は、神社境内にある立札の説明とほぼ同じだから、どちらかがどちらかを参考にしているのであろう。


参考の為重複するが立札をグーグル検索したので記録しておきたい。


 


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立札


「当社の創建は康平七年(一〇六四陸奥守源頼 義勅を奉じ、東国平定後鎌倉街道に面した当地 に社殿を建て、八幡神の御神霊を奉祀し戦勝感 謝国家安泰、源氏の隆昌を祈願したのが始めで あると伝えられる。往昔境内に老樹、林立し鷺 が多く棲んでいたので、里人は鷺宮大明神と称 し、これが地名の起因になった。正保二年(1 六四五)今川直房所領の頃、八幡神社と改称し た。慶安二年(一六四八)以降江戸幕府より御朱 印七石余を寄進せられ、中野区内に於て、御朱 印を付与された唯一の神社で崇敬厚き古社であ る。戦後宗教法人法により発足し、昭和二十五 年国有境内地三四六二(一〇四九坪)の譲与を 受け、同三十五年本殿、幣殿・拝殿五十坪余改 築、及手水舎改築、明治百年記念事業として、 同四十年御嶽神社、同四十二年稲荷神社を同社 境内に合併改築、同年神楽殿改築、参集殿新築、 石塀設置、同五十年天皇陛下御在位五十年記念、 「狛犬設置、同五十六年本殿幣殿屋根葺替え改 修、同六十三年天皇陛下御在位六十年記念事業 として、社殿改修、常夜燈設置等神社の面目新し今日に至っている。」


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