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野見山 暁治の水彩画 [絵]

野見山暁治(のみやま ぎょうじ)氏は1920年福岡県生まれ93歳、現役の画家。池袋モンパルナスにいたというから、戦前から戦後を通じて活躍し、抽象画の第一人者。2000年文化功労者。文章家で1978年『四百字のデッサン』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞している。

1943年東京美術学校洋画科卒、直ちに20歳で応召、満州で発病し入院。
1952ー1964フランス滞在。
「信濃デッサン館」の館主窪島誠一郎(作家水上勉の子息)と協力し、戦没画学生(とくに母校・東京美術学校から召集された者達)の遺作の収集・保存に奔走し、それが「無言館」設立(1997年)に繋がる。

現役の画家の水彩画を取り上げるのは、どこか躊躇する。敬称を略することにも、ちょっと引っかかる。大家だし、こちらはアマ、絵を拝見するだけだからとお許し願う。

つい先日、東京新聞(2014.2.28夕刊)に開催中(3.23まで)の「野見山暁治展(いつかは会える)」の紹介がされて美術評が掲載されていた。
批評子は、彼が他の現存の大家たちと少々違うのは、美術の潮流や美術界といったものから離れ、気儘に自由な精神性を誇示し続けられたことにあるとし、淡々と老いを受入れる優雅さを望むと書いている。
そのうえで、100号を超える大作への拘りは老いへの抵抗と言い、全体的に形態が弱く、色彩も濁り気味でどんよりと鈍く、以前のような軽快な爽やかさに乏しい(優雅に老いを受け入れていない)、と手厳しい。
自分は、こういう文章を読むと、一部の人はうなづくかもしれないような変わったことを言わねばならぬ批評家にならず、良かったといつも思う。
色彩の濁りもどんより沈むのも、その時の作者の精神性を現している。それが、老いから来るというのは先入観、というか独断であろう。濁りも色のうちであるし、どんよりも時代の空気、あるいは作者の何らかの意思を表現している、かも知れないではないか。批評子は今幾つか。93歳の精神が分かるはずもない。

野見山暁治氏は以前から気になっていた画家の一人である。中身は忘れているが、エッセイも読んだことがある。読書記録を見ると「うつろうかたち」( 2003 平凡社)だった。
自分には理解の外にある抽象画に興味がある訳では無い。何処かでペンでサラサラと描き水彩を着色した絵を見たことがある。それに惹かれたのだ。

画集で水彩画を探して見た。
水彩画は、フランス滞在(1952〜64)中のものとそれ以外のもの、風景、人物などの具象画と抽象画とに分類出来そうだ。
大きさに注目すると、水彩としては意外にかなり大きいことに気づく。

抽象画はやむを得ないとして、具象画でも、描かれたものとは違った題名が付けられていて戸惑う。俳句、連句でいえば付きが離れているのだ。抽象水彩ももちろん同じなので、自分などは絵と題名が一致せず悩む。これは野見山氏の油彩の抽象画でも同じだ。題名が数字、記号でなく詩的な文章なのが救いである。



「ヴオヴァロン 」以下の3枚は渡仏中のものだろう。
「パリ風景」(1963 水彩 インク)25x44cm。
「パリ風景」(1963 水彩)23x45cm。
「もう忘れた」 制作年不詳(不詳といっても自分が捜しきれなかったという意味だがー以下も同じ)。抽象水彩画。さつまいもらしきものが中空に浮かんでいる。
「題名、制作年不詳」抽象画。サインが無いので逆さと言われても反論出来ない。
「題名、制作年不詳」女性像。
「はやく消えろ 」制作年不詳。ローソクの灯のようなので、題名との「付き」は近い。
「ブラッセルの女 」(1957-58 昭和32-3 水彩 グアッシュ) 53.0×37.0cm。渡仏中の習作か。
「明日にしよう 」(2001 H13 ペン インク グヮッシュ)38.0 ×30.0 cm。この2枚は何処かで見たような気がする。上を向く男だが、明日何をするのか。
「長い一日 」(2001H13 ペン インク グヮッシュ)34.5× 51.0cm 。赤い椅子にもたれる女。
「工事場 」1956 インク グワッシュ )37.5×54.0cm。2枚とも渡仏中のもの。
「花 」(1961 グワッシュ ペン インク )65.0×50.0cm。



「電話しよう 」(2001H13 ペン インク グヮッシュ)56.5 ×38.0cm。右向き二人?
「どうしよう 」(2001H13 ペン インク グヮッシュ)56.5 38.0cm。鏡に言っているのか。
「嘘じゃない 」(2012H24 グヮッシュ)66.0 ×92.5 cm。嘘は左の紫か右の煙?。
「コスタ・ブラバ 」(1963水彩 インク)37.5×41.4cm 。コスタ・ブラバは、スペイン北東部、カタルーニャ州の地中海に沿う海岸線。フランス海岸まで続く景勝地らしい。
「九月の空」(1972 インク グワッシュ )60.0×43.0cm。半抽象画とでもいうのか。
「憶えている景色」(1987 グワッシュ )60.5×81.0cm。
「自画像 」(制作年不詳)油彩であろう。
「風の便り 」(1998 ガッシュ )38.5×56.5cm。赤と青が素晴らしい。
「振り返るな 」(2012 H24 グヮッシュ)66.0 ×92.5cm 。左下橙色 中に虎模様。
「水の音 」(2001 H13ペン インク グヮッシュ)68.5× 50.0 cm。下半身裸は男か女か、音は何の水か。観るものが勝手に考える。
「何と伝えよう」( 2012 H24 グヮッシュ)92.5 ×66.0cm。コメントする能力なし。
「忘れた刻」(1987 グワッシュ )60.0×80.5cm。上に同じ。

氏にとってもやはり油彩が本命だが、水彩が好きなことはよく分かる。氏は水彩についてこう書く。
「水彩とはいつとはなしに馴染んでいる。そんな付き合いだから、倦きれば、そっぽを向けばそれでいい。油彩みたいに澱んだものがない。記憶を消して行くようで清々しい。(略)
油絵とは闘いだが、闘い疲れた時に、水彩絵具喉を潤すような快さだ。しかし、それはあまりにも無抵抗だから、この中に浸りきると寂しい。
水彩画では室内の女や裸婦や、花瓶の中の花々を描く。どうしてだか自分では分からない。
一般に美しいとされているそれらの具体的なものを、油絵ではどうして描かないのか。
(略)
ぼくにとって食卓に座って食べるのが油絵。ソファに傍りかかったり、そこいらを歩きながらでも食べれるのが水彩画。果物かケーキか、あるいは飲み物。そう言えば話が早いか。
ただ誤解のないように一言付け加えると、食卓以外を軽く見ている訳ではない。デザートの爽やかさは、ぼくにとって大事なものだ」(僕にとっての水彩画)

水彩画には油彩のために下絵として描くものと、そうでない水彩画(水彩タブロー)と二種類あるように思う。氏の水彩画は、下絵でないにしても最終的には油彩画を描くために水彩を描くようでもあってどちらになるのか微妙だ。

三岸 好太郎・ 節子の水彩画 [絵]

三岸 好太郎(みぎし こうたろう1903 - 1934 )は、北海道札幌市出身。戦前のモダニズムを代表する洋画家で前衛絵画の先駆者。自分の絵を「視覚詩」と称したことでも知られる。

画家の三岸節子(旧姓・吉田)とは1924年(大正13)21歳のとき結婚した。新婦19歳。
「コンポジション」や「オーケストラ」(1933 s8 油彩)などを発表した彼は、その後シュルレアリスムに移行し、1934年に連作「蝶と貝殻」シリーズを発表する。とくに「海と射光」は晩年の彼の代表作となった。

1929年(昭和4年)26歳の時に中野区鷺宮5丁目407番地にアトリエ付き住宅を建てて住む。1934年新しいアトリエ建設を計画、資金調達のため関西に赴き旅行先の名古屋で胃潰瘍による吐血で突然倒れ、心臓発作を併発、31歳の生涯を終えた。先に帰京した節子に3人の幼子が遺される。

たまたま、鷺宮5丁目407番地は場所(特定出来ないが)は、我が家から5分ほどのところになる。鷺宮は、当時東京郊外とはいえ、その名も低地、湿地を表す沼袋と井草の間にあり、鷺も舞っていたであろう。近くに荻窪、阿佐ヶ谷もある。
独立美術協会葬も鷺宮で行われたという。

好太郎にはあまり水彩がない。一時期油彩でさかんに描いたピエロシリーズのための習作かとも思われるグヮッシュを一枚見つけた。あとは「海と射光」など。

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「横向きの道化 」(1929 s4 グヮッシュ)54.6× 39.6cm。
「海と射光 」(1934 s9 水彩 インク )37.0×28.0cm。
「二人の女 」(制作年不詳 鉛筆 インク)水彩ではないが。
「少年道化 」(1929 S4 油彩 )78.0× 63.0cm 道化シリーズのおそらく最初の作品 。グワッシュの「横向きの道化」より少し大きいだけ。
「海と射光 」(1934s9 油彩 )162.0× 130.9cm。代表作。かなりの大きさだ。
「海洋ノ微風 射光ハ桃色ダッタ バタ色ノ肉体 赤イ乳首ハザクロノ実ノ如ク二ハレテイル」(「 蝶と貝殻ー視覚詩」より)

「 赤い肩かけの婦人像」(1924 大正13油彩)66.0×51.0cm 。劉生の麗子像の雰囲気。モデルは吉田節子、19歳。三岸節子の描いた自画像(1925 油彩)と比べると面白い。明らかに自画像の方が生き生きしている。

「筆彩素描集「蝶と貝殻」 手彩色・紙(10点組)1934(昭和9)30.2×22.8cm。
蝶と貝殻をモティーフとした自らの素描作品10点「蛾」、「ヴィーナスと蝶」、「貝殻」、「海と射光」、「花と蝶」などを凸版墨刷とし、手彩色を加えた画集という。100部限定、予約注文制で刊行した。アトリエ建設の資金調達の一助にと企画したともいわれる。
彩色は三岸夫妻の手により一点一点なされており、同じ絵でも画集ごとに調子が微妙に変わっている。上掲水彩の「海と射光」も同じものか。

かたや三岸 節子(みぎし せつこ1905 - 1999)は、新制作協会会員。愛知県一宮市生まれ。結婚10年で夫の好太郎と死別、その後三人の子供を育て上げつつ絵を描く。

「三岸好太郎という、まことに破綻の多い、素朴であるが不敵な面魂をたくわえた天才と生活をともにした事実は、大きな代償を払って学びとった人生である。
名古屋から「コウタロウ、シス」という電報が鷺宮の家に届いたとき「ああ、これで私が生きていかれる」と思いました」(「花こそわが命 三岸節子自選画文集 」求竜堂1996)

1968 年(63歳)南仏カーニュに居を移す。また、1974年ブルゴーニュの農家を買い画業を続け、1991年86歳の時に帰国する。
1994年、女流洋画家として初の文化功労者となる。
1999年(平成11)急性循環不全により大磯の病院で逝去。94歳。

女流作家の活躍が難しい時代、画家同志の結婚、震災、戦争、夫の死と子育て、年下の画家菅野圭介(すがの けいすけ 1909-1963)との別居結婚・解消、数度の海外での制作など凄まじいというほかない生活のなかで多くの傑作を残した。炎のーとさえ称される類稀な画家の生涯である。(「炎の画家 三岸節子」 吉武輝子 文藝春秋1999)

美術にも造詣の深かった司馬遼太郎は、次のように書く。
「好太郎の生涯は、31歳までしかなかった。かれはそのみじかい時間のなかで、すぐれた作品をのこしたばかりでなく、めまぐるしく旋回する行動と精神によって、ひとの人生の何倍かを生きた。三岸節子は、そういう好太郎の精神と内臓の奥まで入りこんで、血や粘液にまみれたさまざまのものをつかみ出しては、昇華させ、表現した」(微光のなかの宇宙 私の美術観 中公文庫1991)

三岸節子の絵は、花もベネチアなどの風景画とも強烈な色と単純化したかたちが特徴であるが、自分にはどこに好太郎の影響があるのか、判然としないのが残念。
むしろ節子が、私が愛したたった一人の人と言い切った菅野圭介の絵の方が、そっくりだと思う。

三岸節子には、水彩画がまったくないわけでは無いようだが少ない。彼女の油彩は、下絵やエスキースも不要だったようにも見える。カンバスにじかに油絵の具を重ね、削り、描き上げたような絵ばかりだ。
鉛筆デッサンやパステル画を見ると、三岸好太郎と似ているところがあるようにも見えるが、気のせいかもと思う。

三岸節子の絶筆はさくら花の絵とされるが、92歳の時に「私は人物が描きたい。最後の仕事は人物とゆきたい」と言ったと伝えられる。花や風景ばかり描いた画家が、晩年になぜ人物をと、思ったのか、心の内を知りたいものだ。

「自画像 」(1925油彩 )20歳。
「花 」(パステル)40.0x28.0cm。
「リュ.ド.セーヌ」(鉛筆パステルクレパス)41.5x32.5cm。
「花 ヴェロンにて」(1982 油彩) 77歳のときの作品。

鳥海青児の水彩画 [絵]

鳥海青児(ちょうかい せいじ1902 - 1972)は、神奈川県平塚市生まれの洋画家。画号の由来は知らない。本名は正夫。
鳥海は岸田劉生(1891-1929)や萬鉄五郎(1885-1927)の感化を受け画家として出発したという。しかし、後年になって、彼らとは違って新聞紙で油分を抜き光沢を抑えた重厚なマチエール(絵肌)と抽象に近い単純な構図という独自の画風を確立した。
すなわち、構図も対象も単純化して、茶色を基調とした渋い色調の油絵具を砂を混ぜて厚く塗り重ねてはノミとカナヅチで削る、という独特の技法により土壁のようなマチエールの作品を制作したのである。沈んだ茶色の色とともに日本的な油彩画のひとつの典型と評する人もいる。

代表作は、いずれも油彩の「黄色い人」(1956)、「ピカドール」(1958)、「昼寝するメキシコ人」(1964)など。「うづら」(1929油彩)宮城県立美術館(洲之内コレクション)も絵の好きなひとにはよく知られている。

1928 (昭和3)年、26歳のとき札幌で三岸好太郎 (1903-1934)鳥海青児 吉田節子(1905-1999)展覧会をひらいている。3人は年も近い。彼も独立美術協会に属した。

1930年渡欧。その後もアフリカ、中南米、インド、中国など海外に旅行している。旅の画家でもあった。同時代の多くの画家は、三岸好太郎、松本竣介、萬鉄五郎など若くして亡くなったが、鳥海青児は戦後を通じて活躍し、昭和47年70歳で没した。

鳥海青児の水彩も少ない。当然のことながら、彼の水彩もあのざらざらした絵肌の油彩とは対照的に淡白なものである。しかし、色調は黒、茶、グリーンを使い油彩と共通するところがあるような気もする。



「沖縄風景」(1939 s14グヮッシュ )18.4 ×29.8cm。首里城址でなく沖縄独特のお墓のようだ。少ない黒い線が緑を生かして効果的。
「風景 」(制作年不詳 水彩 )20.8 ×35.3cm。抽象的にも見えるがまさしく水彩のかろやかさ。
水彩画が少ないので、他を。
「北海道風景」( 1943 S18 油彩)戦時中の作品。暗い。
「石だたみ 」(1961 S36油彩)インド旅行の風景。
「狸穴風景 」(1954 S29油彩 ) 赤い屋根が目立つ。戦後絵が明るくなったと言われる。がざらざらしたマチエールは変わらない。
「ピカドール 」(制作年不詳 パステル) 29×23cm。ピカドールは騎乗の闘牛士。やりで刺す。マタドールは剣でとどめを刺す闘牛士。バンデリリェロは銛(もり)打ち。それぞれ役割があるとか。トレアドールは何かわからぬ。パンツが有名だが。
鳥海が好んで描いた題材のひとつ。
「北京天壇 」(1939s14油彩)鳥海にしては明るいが、梅原龍三郎などとは対照的に沈んだ色調の空。

例によって余談。鳥海青児が小説家・美川きよ(みかわ きよ1900-1987本名鳥海清子87歳で没)と結婚したのは昭和14年。鳥海37歳、美川38歳。美川きよは作家小島政二郎(1894-1994 百歳で没)の愛人としてよく知られていた。作品に「夜のノートルダム 鳥海青児と私」(中央公論1978)がある。鳥海、美川、A(小島)の愛を書いた。題名は、美川が鳥海から買った昭和8年の作品、「夜のノートルダム」から。今回初めて通読してみた。さすが作家である妻の書いたもの、鳥海青児の人と絵を知るには好著である。
夫人がよく夫の画業を支えたことがよく分かる。71歳で死別したあと87歳で亡くなった。

ホアキン・ トレンツ ・リャドの水彩画 [絵]

J.T.リャド(Joaquin Torrents Llado1946-93 )は 最後の印象派ともいわれたスペインの画家。47歳の若さで亡くなる。
スペインのバダローナ(カタロニア)で1946年生まれた。比べるのは変だが、自分より6歳下だから、日本でいえば終戦1年団塊の世代のはしりくらいということになる。
同じスペインカタロニア出身の画家には、ジョアン ミロ、ガウディ、サルバドール ダリもいる。抽象表現主義の画家アントニ タピエス(1923-2012)もこの地ではなかったか。
この国には、ピカソ、ゴヤ、ベラスケス 、 アントニオ ロペス 、エル グレコと画家の巨星が多い。考えてみれば凄い国だとあらためて思う。

リアドは1955年、バルセロナのアカデミア・バルスで絵を描き始め、1961~66年にはサン・ホルヘ高等学校で絵画を学ぶ。美術学校時代から多数の賞を受賞。1965年には、弱冠19歳で助教授に任命される。 まさしく神童、天才というほかない。

1968年(22歳)にマジョルカ島パルマにアトリエを設置。野外で 島の風景をスケッチ、アトリエに帰り絵を描く生活に入る。
マジョルカは西地中海の真珠と呼ばれる美しい島。 マヨルカとも。スペイン王室の避暑地である。 ジョアン ミロが 晩年に過ごした。また ショパンが結核となりジョルジュサンドをともなって、療養し「雨だれのプレリュード」を作曲した島として名高い。もっとも今はサッカーの方が有名か。

1990年(44歳)、日本での初個展開催。初のシルクスクリーン作品発表。 1992年、オランダ花のオリンピック“フロリアード1992" の日本公式ポスターおよび記念版画も制作した。
1993年3度目の来日個展開催。
同年大動脈瘤により47歳の若さで急逝。

リヤドの絵は、油彩、水彩も強烈な色彩と溢れる光と陰が特徴。とてもアマチュアの参考にならないような高度な技術のようだ。画像で見るとシルクスクリーンやジクレーのせいか油彩、水彩の区別がつかない。ということは水彩でも油彩と同じような迫力のある絵がかけるということになるのか。リヤドはなお、アマチュアの自分にも勉強すべきことが多い画家のような気がする。何か分からないが、得るものがあるように思うのだ。特に色彩に惹かれる。
ともあれ、絵を並べて眺めて見た。原画が水彩か油彩か判然としないのが残念だが。



「ためいき橋Ⅱ」(1991 水彩 )多くの画家の好んで描く風景。光と、その影である紫(!)が混じる水彩。紙の上で色彩は集り、散乱する。
「ソン・エスパセス公園の片隅」(1990 水彩)複雑な色彩の音楽。蔭にはたくさんの色彩が隠れている。
「ヴェネチア(トルセロ)」(1987)画面に文字が現れる。
「カネットの夜明け」(1991)代表作のひとつ。
マジョルカは、街並みや庭園にイタリアの影響を強く受けているという。
「アルファビア 」(1992 )
「ライの薔薇」(1994)
「カロリーナ アミーゴ嬢」(1995)
即興的な線と鮮やかな色が、光の中で輝き、しかも並外れたデッサン力を発揮した肖像画が多い。例えば、ほかに「バージニア・ロペス嬢」など。
「ロルカの詩Ⅲ」(1996)画面が枠で仕切られそこに詩が。
「薄明かりのヘネラリッフェ」(1997)



「キューガーデン」(1998)
「夕暮れのサンタ・マリア教会 」(クロモグラフ1999) 17.0x24.3cm。
クロモグラフは版画技法のひとつ。別名、イルフォクローム、とも。スイスチバ社が開発したのでシバクロームとも。通常の版画ともっとも異なる点は、版画が刷られているものが、紙ではなく、フィルムという点。技術的には、写真の応用。
「マリアとの自画像 」(ジクレー2003) 48.0x33.5cm。
 ジクレー「Giclee」とは、インクジェットプリンターで印刷された限定版画作品のこと。
原画を高感度スキャナでトレースするか、原画のポジフィルムをトレースし、色彩をコンピューターで最大数十万色に分解、解析する。
このデータを利用し超ミクロなサイズのノズル(噴射口)から紙やキャンバスに各色を噴射する技法。年賀状の「インクジェット用紙」の印刷法と同じもの。
非常に繊細な線のタッチ、微妙な色彩の変化、色彩の揺れなども逃さず再現することができ、現在最も原画に近い版画製作法といわれる。
「サンティ・ジョバンニ・エ・パオロ 」(ジクレー2004 )33.9x48.9cm。ヴェネチアにある大教会。ジョバンニは聖ヨハネ、パオロは聖パウロ。
「サン・マルコ広場 」(ジクレー2004)25.4x35.4cm
「ジヴェルニーのしだれ柳」(ジクレーonキャンバス 2009 )62×62cm。両脇に滝のように落ちる光の束の縦線、真ん中の水面の横線の美しい対比。好きな絵である。
ジヴェルニーというのは、モネの晩年の住まいがあった場所で名作「睡蓮」の舞台。
「プリマヴェーラ 」(ジクレーonキャンバス2011 ) 62×62cm。プリマヴェーラは春の意。ルネサンス期のイタリア人画家サンドロ・ボッティチェッリが1482年頃に描いた春「プリマヴェーラ」を知っている人は多いだろうが、この絵も、それとは全く別の美しさで人を魅了する。
「グランカナル 」(ジクレーonペーパー 2009) 19×27cm 。大運河。
「ジヴェルニーの想い出 」(ジクレーonキャンバス2011 )29.0×29.0 cm。
「アルファビアの朝」
「モナコの薔薇 」上掲「アルファビアの朝」とともに逸品。

にわか勉強だが、版画には版の形式と種類があるという。
木版(凸版)形式は 木口木版 と板目木版の二種類。
銅版(凹版)形式は、 ドライポイント エッチング アクアチント他が種類、石版(平版)形式 は リトグラフが種類 。リトは石のこと。孔版 形式の種類は 、シルクスクリーンといった具合。
最近のCPの進歩で、版画技法はこれらのアナログ版画を大きく変化させているようだ。
そのひとつがジクレーであろう。
画家は原画をスキャナーで取り込み、インクジェットで印刷部数限定で販売できるようになった。原画が水彩か、ガッシュかパステルかはたまた油彩かまでよくわかる。画家は原画を手元に置くことも出来、愛好家も複数者が楽しめるので便利なツールである。
反面、手彩色などの味は楽しめないが。

洪水のように奔流し、溢れ出んとする光と陰の色、点描、スパッタリング、ドロッピング、額縁のような画面の中の鮮やかな色による仕切りなどを駆使し、ときに文字や詩を書きこむリヤドの絵はジクレーがよく似合う。

若林 奮(いさむ)の水彩画 [絵]

若林奮(わかばやし いさむ)は、1936年(昭和11)生まれの 彫刻家。2003年(平成15 )69歳で没している。
鉄、銅、鉛などの金属素材を用い、自然をモチーフとした彫刻を制作した。主に鉄を素材とし、自己と彫刻の関係など深い思索を作品化した作家と言われている。
都下町田市出身。都立立川高校、東京芸大美術学部彫刻科卒。
1980年、1986年のベネチア・ビエンナーレに出品。武蔵野美術大学、多摩美術大学教授を歴任した。
詩人の吉増剛造(よします ごうぞう 1939昭和14-阿佐ヶ谷生まれ)や同じく詩人の河野道代(かわの みちよ1952年-昭和27-福岡出身)と銅版を用いた共同制作を試みている。
吉増剛造は立川高校三年後輩という関係になるが、詩の朗読パフォーマンスの先駆者としても知られる。
読んでいないが、河野道代には若林との詩画集「花(静止しつつある夢の組織)」(ギャラリー池田美術刊 2000)がある。

若林は彫刻のためのドローイングを1万枚近く描き残した。彫刻は高度なデッサン力が求められるのか、ドローイングを沢山描く彫刻家が多いように思う。そのゆえか、彼は芸大在学中から水彩画も描いた。彼の水彩画は、半抽象水彩のようで、多くは日付と番号らしきタイトルのものが多い。彫刻と関わる何やら深い思惟が描かせた絵なのであろう。アマチュアの自分には手に余る難解さだ。
ただ、独特の水彩の色づかいなどは、理屈ぬきで美しいと思う。

タイトルが数字だけなので区別が出来ないことから、こちらで勝手にタイトルをつけるという「題名遊び」を思いついた。このブログ自体そうだが、あくまでお遊びなので若林さまお許しを。作家の絵というのは心血を注いだもので、悪ふざけはよしなさいなと言われそうだが。〈〉の中がそれ。



「1990.3.29」(1990 グワッシュ) 79×55cm  〈2段 のブルー ドア〉
「Untitled 1993.7.20」(1993 鉛筆 水彩)  25×20cm 〈4冊の赤い本〉
「銅版画」(1995 水彩) 14.5×10cm 〈3・5角形〉
「1974.4.17」(1974 水彩 ペン) 画面22.5×30 cm〈鳥の巣〉
「1999.01.29.025 」平成11 27.0 ×20.9 cm〈濃紺のローソク〉
「1999.01.29.023 」平成11 27.4 ×21.6 cm 〈ローソクの黄色い花〉
「2001.05.03.299 」平成13 29.6 ×21.0 cm〈白い艦船〉
「2001.04.21.048」平成13 36.2 ×25.6 cm〈蒼い穂〉
「2001.06.23.119 」 〈空飛ぶ楓のプロペラ〉



「2001.02.18.297 」〈茶色いL字型の虫〉
「2001.06.28.144」 〈楓二つ〉
「2001.06.21.108」 〈白い楓 のプロペラー茶系〉
「1999.02.22.041」 〈黄色いネックレス〉
「2002.01.19.030」 〈雪空に窓〉
「”52記"より no.34」(モノタイプ 1998 ) 〈ヤシの木〉銅版に水彩で彩色したもの。
「VALLEYS」横須賀美術館にある(野外)。
「2.5mの犬 」(1968 s43)

若林は自分と4歳しか違わない、まさしく同世代。しかし、美術への深い思索は、凡才の自分からはだいぶ遠い高みにいて、残念ながら近寄ることはかなわぬ。
ただ水彩画を良い色だなと見ているだけである。

江國 滋の水彩画ー弄ぶ、玩ぶ、翫ぶ、もてあそぶ [絵]

江國 滋(えくに しげる、1934 - 1997 62歳没)は、東京出身の演芸評論家、エッセイスト、俳人。俳号は滋酔郎。
新潮社に入社したが1966年32歳で退社、落語雑誌の編集などをしたあと文筆業に専念する。作家の江國香織の父。
食道癌の合併症で逝去。闘病中の句集「癌め」及び俳句日記「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」が没後に出版される。

この人は、絵にとどまらず多才であった。多芸というべきか。俳句、手品、将棋はプロはだし。これを余技と言いながら沢山の本を書いている。
ふと、「君子は多能を恥ず」と画家の中川一政が「絵にもかけない」というエッセイで書いていたのを思い出したが、飲み助で磊落ながら愛嬢思いの江國にはあてはまらない。この人が紳士であることは疑いない。

自分は退職してから、軽妙洒脱な文に惹かれてこの人の随筆をよく読んだ。
俳句関係が多かったと思う。読書記録を見ると、「俳句と遊ぶ法」( 朝日新聞社 s59 1984 )、「スイス吟行」(1993新潮社)、「慶弔俳句日録 」(新潮社)、「気まぐれ歳時記」( 朝日新聞社)、「 季のない季寄せ」( 富士見書房 1989)、「 旅券は俳句」( 新潮社 1990)、「微苦笑俳句コレクション 正続 」(実業之日本社) などなど。
それまで俳句はまったく知らなかったけれど、その面白さを江國随筆によってたっぷり教えて貰ったような気がする。
彼や変哲こと小沢昭一の語る東京やなぎ句会の話などは、まことに愉快である。

俳句の他にも「1994-95ラプソディー・イン・アメリカ」( 新潮社 1994)、「きょうという日は 」「江國滋の絵ごよみ 春夏秋冬」( 美術年鑑社 1997)「名画と遊ぶ法」(1993 朝日新聞社)、「スペイン絵日記」 (1986 新潮社)などここにあげたら挙げきれないほど、といったらおおげさか。
ただ病床日記「おい癌め〜」と句集は、図書館の棚で背表紙を見るだけで今もって読む勇気が出ないでいる。小心なのである。


今回は俳句のことでなく、絵の話。
上掲の本でも挿絵、表紙に自分の水彩画をたくさん使っている。

彼の画文集に「旅はパレットThe World in Water-Colour 」(新潮社1984)がある。今回インターネットで検索して図書館で借りたら、保存庫入りでおまけに汚損(水漏れ)付箋付きだった。余計なことながら、本を粗末にする輩はヤギに食われてしまえ、と毒づきたくなる。
この画集は滋酔郎50歳のときのもの。

絵は鉛筆淡彩の旅のスケッチである。絵が先にありそれに文をつけている。一枚の絵を見てこれだけ文が湧き出すところがすごい。
風景だけでなく人物が随所に入り、線に動きがあってライブ感があり彩色も素晴らしい。自分も現役のとき、出張先で同じようなことを試みたが、とてもこうは描けなかった。
カルチャーなど絵の教室に行かなくても、描ける人は描けるのだと思うと10年も通った自分が情けなくなる。
ときに、ぼかしなども入り、これが自己流かと呆れるほど上手い。

このなかに海外の絵のほか、九州旅行の水彩画があり、福岡に1年1ヶ月赴任したときのことを懐かしく思い出させた絵が数枚ある。自分が描いたのでもないのに、博多の中洲、屋台、志賀島(しかのしま)、柳川、秋月など、ありありとまぶたに浮かんだのは江國滋の絵がそれほど上手いということか。それとも25年も前のそこでの自分の印象が強かったのか。その両方であろうが、絵の力をあらためて感じてしみじみとさせる。

「旅はパレット」の中から。
題名は、サインとともに絵に添えられたものをそのまま。




「ニューヨーク 北野ホテルの窓から」
「ローザンヌ 石畳の坂」
「博多 ホテルの窓から那珂川ごしに」
「博多名物の屋台 市立歴史資料館前」
「福岡志賀島 海が見える交差点」
「秋月城址前」

上掲の「俳句と遊ぶ法」の冒頭で氏は、俳句というのは、ひねる、詠む、作る、浮かぶ、案ずるともいい、またもてあそぶなどともいう。「もてあそぶ」には、武部良明著「漢字の用法」によれば三つの漢字があるが、俳句は「翫ぶ」もので、遊んだあと棄てると「弄ぶ」になってしまうという。
弄 ー自分のもののように、勝手に動かすこと(例)人の感情を弄ぶ、運命に弄ばれる
玩ー好きなものとして楽しむ(例)笛を玩ぶ、花を玩ぶ、玩びもののおもちゃ
翫ー心の慰めとして、愛すること(例)美女を翫ぶ 、俳句を翫ぶ

俳句は翫ぶもので、遊びだからこそ、ルールを守りしかも真剣でなければいけない、本気で、真面目に厳格に遊べと氏の持論を展開していく。

そういえば、「愚弄する」というし、誰かが「玩物喪志」という言葉があると言っていたなと思い出したり、中村翫助、芝翫、翫雀は「かん」だがこの意味があるのか、ないのかなどと埒もないことに考えが及んだ。

氏にとって落語、マジック、将棋も同じ「翫」なのだろうか。彼の水彩画はどうなのだろうかと考えたら、ひるがえって自分の水彩画はどうなのかと考えさせられた。
真面目に真剣に本気で遊んではいるが。

桜の絵 [絵]

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花を水彩で描くのは難しい。水彩は花にかぎらず、何を描いても難しいが、中でも花は難しいような気がする。猫や子供の可愛らしさなども手ごわいけれど、美しい花を紙の上に生き生きと咲かすのは至難である。
画家はだしだった水彩の名手ヘルマン・ヘッセですら、その著「色彩の魔術」でこう言っている。
「モクレンを写生しようと志す不遜な企てに比べたら、一編のドン・キホーテや、一編のハムレットを書くことは一つの小事、一つの児戯ではなかったろうか?」
(絵をかくよろこび 絵をかく苦労 Malfreude,Malsorgen)

関連記事 ヘルマン・ヘッセの水彩画その2
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-02-09

カルチャー教室では、大雑把なと笑われること間違いないが、花はどうも女性の方が上手に描き男性は苦手のようにも見える。女性は優しいから花の気持が解るからだろうか、本当の理由は判らない。

先日待ちかねたソメイヨシノが咲いたので、近所の都立善福寺川緑地公園へ自転車に乗って、花見に出かけた。この公園は善福寺川の中流にあって、都立和田堀公園と接し全長4.2kmにわたって広く、緑が多くて閑静な桜の名所でもある。
善福寺川は善福寺池を源として、延長10.5km、中野で神田川に合流、やがて隅田川となり東京湾に流れ込む。
この時に撮った写真を見て桜の絵の練習をした。毎年描くが上手く描けたためしがない。
つい、オペラピンクを使うので桃や木瓜(ボケ)の花のようになり、霞か雲かなどの風情はかけらもない。

シャドウから塗れ、桜の枝はさいごにリガーで。
薄い桜色はやや黄色みがかったピンクだ。
枝にかかるさくらの花は塗り残せ。透明水彩では、塗り残しがうまくなれば絵もよくなる。
桜の花を通過して光が入ってくるので、実際より薄い色で塗れ。
さくらの花の部分にもごく薄いグレーを重ねて、少し強弱をつけよ。薄いグレーはウルトラマリン、バーントシェンナ、パーマネントローズの混色。
空が見えると、淡い桜の色がさらに引き立つので、枝の間から見える空に水色を塗り重ねよ。
ブロッサムは、撒き塩「Salt watercolor texture effects Watercolor Technique」(ソルトテクニック)もいいぞ。
ーなどと、ネット教本ではいろいろ親切に教えてくれるが、技巧がついて行かないのが無念である。

今年は初めてマスキングを使って見たが、やはりうまくいかなかった。桜にとらわれて、人物その他もおろそかになってめちゃくちゃになる。
紙をウォーターフォードの細目にしたのもいけなかったか、細目は精密画用と先生がおっしゃていた。紙のせいなどにして終わるのが、いつものことで情けない。

古来多くの人が桜の名画を残しているが日本画、油彩が多い。水彩の桜の傑作はあまり知らない。水彩の桜は大家にしても難しいのだ。ましてアマチュアには手にあまる。とはごまめの歯ぎしり。精進あるのみ。

須田 剋太の水彩画ー浮世の人なのかどうか [絵]

須田 剋太(すだ こくた 1906- 1990 84歳没)は洋画家。埼玉県鴻巣市生。熊谷中学卒。
芸大受験に4度失敗して、絵は独学である。当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、長谷川三郎(1906-1957)と出会い、1949年以降抽象画へと進む。男性的で奔放な力強い画風を確立した。国画会会員。

不学の自分などには分からぬ世界だが、道元禅を愛したという。須田剋太の芸術観の根底には東洋思想、とくに道元の「正法眼蔵随聞記」への心酔があったとされる。書にも深く傾倒し、書道、挿絵、風景、人物、前衛絵画など、広く活動した。日本人でなければ表現し得ない独特の世界を創り出した。

1990年 、兵庫県神戸市北区の社会保険中央病院にて84歳で逝去。

1971年(64歳のとき)から司馬遼太郎(1923-1996)の紀行文「街道をゆく」の挿絵を1990年まで20年間担当、取材旅行にも同行したことでその名は一般の人にも知られている。須田は、1983年 この挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞した。
司馬遼太郎の「街道をゆく」は「甲州街道、長州路ほか」から「濃尾三州記」まで43冊、いわゆる歴史紀行文の傑作とされ、いまでも多くの人に読まれている。

自分は大阪に2年間赴任したとき、毎週東京の本社会議に出席するために金帰月来したが、
その往復の新幹線の中でこれを読んだ。転勤族には赴任地やその界隈を知るのに便利な本で、その地の人との話題が出来るという実用性?が高く、取引先の方との話のネタにしてどんなにお世話になったか知れない。

豊臣秀吉の若かりし時の家来衆、賤ヶ岳の七本槍の一人、滋賀県出身の脇坂甚内安治は後に淡路守など大名に出世するが、伊予大洲城主として「街道をゆく」(南伊予・西土佐のみち 朝日文芸文庫14)にも登場する。
秀吉の小田原城攻めについてきた甚内安治の弟が、三浦半島城ヶ島で常光寺を開基した了善なる僧で、我が先祖であるということが寺の過去帳に記録がある。二人が兄弟かどうか真偽のほどは確認できていないが何やらこの甚内安治に親近感がある。わが父はこの常光寺の生まれなのである。
大阪勤務中に、休日、琵琶湖のほとり小谷城近くにあった脇坂姓の家が密集する村や、余呉湖から賤ヶ岳を1人で散策した懐かしい思い出とこの紀行文シリーズを愛読したこととが重なっている。
余談だが、安治は関ヶ原で小早川に続き、二番目に西軍から寝返り東軍についた。家康に重用され、その子孫は徳川三百年を、幕末まで播州龍野五万石藩主として生き延びる。忠臣蔵で浅野家の赤穂城受取り役の淡路の守として、また外様ながら大老として幕末の歴史に登場する。
司馬遼太郎は、別の短編小説「貂(てん)の皮」で安治一代記を書いているが、これも大阪勤務時代に読んだ。

さて、「街道をゆく」の挿絵は、1971年1月から1990年2月までが須田剋太、須田の没後は1990年9月から1991年7月までは鳥取倉吉出身の画家桑野博利(1913-2008)、1991年8月から1996年3月までが水彩画家安野光雅が担当した。
「オランダ紀行」では、須田が病気で同行できなかったため、本格的な代役を立てると、本人の病気に響くという配慮から司馬本人のスケッチが掲載されたというエピソードがある。

「街道をゆく」の挿絵はモノクロ印刷だが、須田の原画はグヮッシュで彩色もされている。挿絵として各地の雰囲気を伝え読者を楽しませただけでなく、独特の画風で色彩豊かに描かれ、絵画作品としても優れたものとして評価されている。
司馬遼太郎 は「出離といえるような」(昭和56年 須田国太「原画集 街道をゆく」朝日新聞社刊)のなかでこういう。
「須田剋太氏は、油彩画家である。
しかし、これらの絵は、いわゆるグヮッシュで描かれている。私はこの画家の油彩も好むが、それ以上にグヮッシュを愛してきた。この原画集を見て、このことに同感していただける鑑賞者が少なくないだろうということを信じている。」

たしかにあらためてみると、透明水彩ではないが、アマチュアの自分でもこんな描き方もあるんだと感心する。奔放に見えて意外なことに随分と技巧的なところもあるのに驚く。

好きな挿絵原画、油彩などを見てみたい。



「ピレネーの谷で」画家の自画像。サインの隣の数字は1983か1985とも読めるが、いずれにしても晩年の自画像。
「ハバロフスク公園内」
「ゴビ砂漠星空」画家の目に降るような星空は、こう見えたのであろう。
「檮原神楽」(1986 高知県)胴の白いたすきなどはどうやって描いたのだろうか。
「薩摩櫻島 」(1972 鹿児島県)画面に櫻島の灰が、しらすが降り積もっている。
「ポートピアホテルより 」(1982 神戸市)夜景や車のテールランプもこう描くテがあるのか。
「イーストエンド裏庭」( 1987 イギリス)洗濯物は色紙を切って貼り付けたかのよう。
「二月堂界隈 」(1984 奈良県)黄色い窓灯りがすごい。大阪時代ここのお水取りの儀式を徹夜で見せて貰ったことがある。
「宇和島全景」 (1978 愛媛県)
「興福寺五重塔 」(1984 奈良県)花火の白い線はどうやって描いたのか、知りたい。



「仏像 」(水彩)逆光の扱いが巧み。グヮッシュだろうが、透明感が素晴らしく、アマチュアにも参考になる。線も良い。好きな絵である。
「雪の東大寺 」油彩であろう。雪は描いていない。
「新緑の東大寺 」(1968)普通新緑は明るい緑を描くが、暗い緑だ。屋根瓦が明るい。
「あざみ 」(油彩)
「カレイ」
「舞妓二人」油彩かグヮッシュか判らぬが、着物の模様の細かいこと。
「枝垂れ桜 」(油彩 1960) 51×44.5cm。緑が基調の桜!
「静物」油彩であろう。
「抽象 」(1960 木炭・グアッシュ )27.2×36.8㎝。
「さんま」これも油彩であろう。普通長い秋刀魚は横において描くが、筆立てに立てたようなサンマが面白かったと見える。

須田画伯は、司馬遼太郎が上掲の「出離といえるような」の中で、「須田剋太氏は、浮世の人なのかどうか。」と言うほど浮世離れした奇人、変人であったようだが、絵はすぐれて人間味に溢れている。出離とは、仏門に入ることをいうが、煩悩を断ち、迷いの境地を離れることと辞書にある。
 道元禅師をあがめ、生涯「無一物」を標榜し、そして実践したと人と言われる が、純粋な子供のような心を持った「変人」だったのだろう。絵を見ているとそんな気がする。
ときに変人には、「まともな人」よりも、まっとうなひとがいられることを私達は知っている。
かつて、総理を変人と呼んだ変人大臣がいたけれど、お二人がそうかどうかは知らない。

ユトリロの水彩画ー醉彩画! [絵]

モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883- 1955 )は、パリのモンマルトル生まれ。生活環境に恵まれなかったにもかかわらず、アルコール依存症の治療の一環として始めた絵画が評価された近代フランス画家の巨匠。72歳で没。
母親であるシュザンヌ・ヴァラドンはモデルであり、また画家であった。
母が名を明かさなかった父もアルコール依存症であったとされるが、ユトリロのアルコール中毒の症状はかなり早くからあらわれて、すでに16、七歳頃から泥酔、乱醉、神経錯乱がはじまっていたという。
1902年19歳のユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住み着く。この頃から水彩画を描く練習を始めた。
1910年から15年ころまでのいわゆる「白の時代」の絵は評価が高い。1920年頃からの「色彩の時代」を経て、1928年レジョン・ドヌール勲章を受章する。

われわれでもユトリロは、野外スケッチが嫌いでときに絵葉書などを見て、風景画を描いたと聞かされている。絵はライブ感が重要だと教えられるとき、例外としてユトリロがでてくるのである。
ユトリロは、当時の多くの画家と同じようにピサロに心酔したと言われるだけあって、風景画は静謐で安定している。破綻がないのである。とても酔いどれの絵ー醉彩画ーとは思えぬ。

参考記事 カミューユ・ピサロの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2014-03-06-1

ユトリロの水彩画は少ない。グヮッシュや水彩をもとにつくられたリトグラフやポショワールがあるので、たくさん描いたのであろうが。

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「Moulin de la Galette ムーラン・ド ・ラ ・ギャレット 」(水彩)画集に水彩と明記された珍しい一枚である。ユトリロはムーラン・ド・ラ・ギャレットを何枚も何枚も描いた。
「Moulin de la Galette ムーラン・ド ・ラ ・ギャレット 」(油彩)水彩と比べたくて油彩を一枚。
「ミル 」水彩か。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット 」(1950 ポショワール版画)32 ×26 cm。
ポショワールとは、亜鉛や銅版を切り抜いた型を用いて刷毛やスプレーで彩色する西洋版画の一種。写真製版によって作家の原画から複製品を作る技術が無かった20世紀初頭に、このポショワール技法が多く用いられたという。
「サクレ·クール寺院」色鉛筆か。水彩も使っているように見えるが。
「風景 」これも色鉛筆か。
「モーリス·ユトリロの肖像 」(Suzanne Valadon 1921 油彩 ) 母ヴァラドンによる息子の肖像。38歳位か。
「ロビンソン・レストラン 」水彩か。点景の人物のお尻が大きいのが特徴という。後ろ姿が多いような気もする。
「ストリートシーン」 これも水彩のようだが。

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「サンベルナールの城 」(1950ポショワール 版画)
「コルト通り モンマルトル」ユトリロが死の二日前まで描き続けていたとされる未完の絶筆作品。次のリトグラフの説明にあるようにグヮッシュらしい。
「コルト通り モンマルトル」未完成のグワッシュを元にして制作されたリトグラフ(1956リトグラフ)
「ポン・ヌフ」(1955リトグラフ) 23×32cm。
「ポン・ヌフ 」(油彩)
「花束」(油彩)ユトリロの静物は少ない。赤が印象的。
代表作の油彩を3枚。
「La Petite Communiante,Eglise de Deuilドゥーユ村の教会」(1912油彩)52x69cm。  
「 Mother Catharines's Restaurant in Montmartre モンマルトルのキャサリン母さんのレストラン 」(1917油彩)
「ノートルダム寺院」(油彩)

作家の開高 健は映画、絵画等についても独特の批評眼を持ち合わせていたが、ユトリロについても書いている。自ら素人というが、もちろん並の素人ではなく素人にもわかるユトリロ論を展開している。自分など真正の素人には、これを読むだけで十分ユトリロを知った気になってしまう。ランダムだが引用してみる。

「・ユトリロの絵にはかたくなな拒否の表情がある。しかし、それにもかかわらずどこかあどけないといってもいいほどの透明なオプティミズムがあるのだ。

・ユトリロの傑作がつくられたのはきびしく眺めていけば72年の生涯のうちの二十歳後半期から三十歳台にかけてのわずか十数年のことで、ベルギーの金持ちの後家さんと結婚してから以降の後半生にはほとんど見るべき作品がのこされていない。

・彼の風景画のなかにはきわめて親密でナイーブな感性と同時に、ある執拗な否認の意識がある。人間がぜったい登場しないのだ。ときたま登場しても、なぜかその数は五人ときまっている。

・十数年の昂揚期を通じてユトリロについて眺められることは、一つには、その、執拗な人間嫌い、ミザントロープの志向である。」
「現代美術15 ユトリロ」開高 健 (昭和36 みすず書房)

開高 健には「ピカソはほんまに天才か」というエッセイ(藝術新潮35 昭和59)があるくらいで、彼は自分の眼だけを信用するのである。

ユトリロ論のなかでも、作品の価値そのものよりは、作家の人格や行状の評価に腐心したがる私達のわるい癖、だと言い、古きよき時代の街のアル中患者行状記と抱きあわせにして、彼の作品を語ろうとしてはならぬと戒める。彼の絵を「醉彩画」などというのはもってのほかということであろう。

自分などは、絵を観る眼に自信がないので、つい、画家の生い立ちや描いたときの状況、背景などを知りたがる。高齢になったせいかとくに、描かれたときの年齢が気になる。
じっと絵を見て、絵をして語らしめよというあるべき鑑賞姿勢から程遠い。もって大作家のご注意を噛みしめなければならない。

また、開高は、ホンモノ(原画)と複製の落差について、複製はウイスキーの入っていないハイボールのごときものだと言う。これは、原画と画集や画像との違いにもあてはまるだろう。的を射ているが、美術館や展覧会に出かけられぬ高齢者には、画集やヴァーチャル画像が頼りだから辛いところではある。

堀井英男の水彩画 [絵]

堀井英男は1934年(昭和9年)に茨城県の水郷、潮来(いたこ)で生まれ、後半生を八王子で過ごした画家・版画家。
東京藝術大学大学院中退後、油彩を描いていたが、ほぼ独学で銅版画を習得し、主に現代社会の人間などを幻想的に描いた色彩銅版画で高く評価された。

堀井は版画家として活躍したが、1980年代後半から絵画に回帰し、とくに1992年肺手術後水彩を描き数多くの水彩画を残した。水彩画は手軽に描けるので病人、こども、老人にはお誂えの画材だとあらためて思う。
高見順ら文学者との詩画集制作や美術学校での後進の指導にも熱心に携わったが、1994年(平成6年)才能を惜しまれながら60歳で逝去。

堀井の水彩画はあまり透明感は感じられず、油彩に近く、むしろ銅版画の方が水彩のように見える。雲母を使っているらしいが、どこにどう使っているのか判らない。どういう効果があるのだろうか。
コラージュ、パステルなども併用し単純な水彩画ではないのが特長か。絵は半具象というのであろうか。アマチュアには解りにくい絵だ。




「無題(108-88)」(1988 S63水彩 パステル 雲母 )36.9 ×26.9 cm。
「Kの肖像」(1989 H1 水彩 鉛筆 雲母 コラージュ)66.0 ×50.5cm 。コラージュは 英字新聞 。
「ある地点で 88-2 」(1988エッチング・アクアチント) 42.5×58cm。
「開かれた顔 90 」(1993 H5 水彩 鉛筆 ペン 雲母 コラージュ)60.7 ×45.5cm。亡くなる1年前の作品。
「開かれた顔90-2 」(1990 )個人蔵。
「憩 89-2 」(1989 エッチング・アクアチント・ソフトグランド・ステンシル) 25×18.2cm。
「無題(11-93)」(1993 H5 水彩 パステル コラージュ )50.0 ×65.5cm。
「無題(48-92)」(1992 H4 水彩 ペン 雲母 コラージュ)22.0× 30.4cm。2枚とも顔らしき絵と辛うじて見えるが、コラージュはどの部分か判然としない。

堀井英男は黒に惹かれた孤高の画家オディロン・ルドンの幻想的な詩情を愛したという。沈んだ色調の銅版画にはたしかにその影響があるようにも見えるが、水彩にはルドンの水彩の鮮やかさはまだ無い。
ルドンは50歳を過ぎてから、黒を基調とする絵から色彩豊かなパステル画などに変わって行ったが、堀井の銅版画から水彩への転進もこれに似ている。
もう少し長生きしたら、ルドンの鮮やかな絵に近づいたかもしれないなどと想像したりする。

参考記事 オディロン・ルドンの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-09-26

オディロン・ルドンの水彩画 その2
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-10-09


同じ茨城県出身の水彩画家に小堀進(1904年 - 1975年 71歳で没)がいる。中西利雄と同世代である。水彩連盟の設立メンバーで水彩画家として初めて日本芸術院会員となった。
郷里の霞ヶ浦・水郷をはじめとした国内外各地の風景を、鮮やかな色彩と単純化した大胆な構図でダイナミックに描き、戦後の水彩画界にも大きな影響を与えたが、堀井英男と接点はなかったのだろうか。二人は年代も親子ほどちがうが、およそ画風が異なる。大雑把を承知で言えば、後進の堀井の方が暗く歳上の小堀の方が明るいのは、二人の幼少、青春時代の背景がそうさせたのだろうか。


桜の絵 その2 [絵]

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善福寺川緑地公園に花見に行ったとき、池に咲く桜と翡翠を見た。
眼福や花とかわせみ善福寺
と駄句を詠み、カメラにおさめて帰ったので、それを見て性懲りもなく2枚目の桜の絵を描いた。
前と同じく大きさは、F4、紙はウォーターフォード(細目)でまたマスキング使用。やはりうまくいかなかった。かわせみのほうは、力まなかったからか、まあまあの出来。鳥は小さいので、マスキングが効果を発揮したのかも知れない。

以前桜の絵について、花の絵を水彩で描くのはむずかしいと書いたが、自分にも多少の混乱があったように思う。
ここでいう桜の花の絵は、どちらかといえば、花の咲いている樹木のことであって、ブロッサムや花弁まで描く花の絵のことではない。両方ともむずかしいことに変わりはないので、言わんとする主旨に変わりはないが、難しさの中身は微妙に違うだろう。
ヘルマン・ヘッセが悩んだ花はもくれん(マグノリア)であったし、多くの画家が壺などに挿した美しい花に幾度となく挑戦しているのは、花卉そのもので、花木とは描き方も難しさも少し違う。

関連記事 桜の絵
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2014-04-18

花木の方も桜に限らず、ハナミズキでもなんでも一目見てそれと分かるように描くのは結構難しいし、まわりの他の樹木とのバランスもなかなか難儀だ。あんず、もも、りんごの花を遠くから見て、風景の中に入れて描くことを考えればよくわかろうというもの。

これまで何枚も下手な花の絵を描いてきたけれど、花木も花卉の絵とも悩みがまだまだ続くこと疑いない。



新宿御苑の台湾閣 [絵]

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新宿御苑には、春夏の年に二度カルチャー教室の写生会で行く。春はたいてい桜の季節は過ぎて初夏になっていることが多い。
今年は5月2日、旧御涼亭、通称台湾閣を描いた。以前も描いたことがあるが、我々にとっては奇妙な清朝時代の建築様式なので、屋根の反りや白いつの、朱色の瓦などが手に負えなかった記憶がある。
この旧御涼亭は、昭和2年(1927)昭和天皇ご成婚のおりに、台湾在住邦人が寄付金を募りお祝いに献上したものという。玄関の丸窓に「於物魚躍」の文字がある。ー満ちて魚躍るーは天子を讃える意とか。

今年も緑の樹々に囲まれた台湾閣を描き切れず、あえなく敗退。背景は林なのに山みたいになってしまっている。
固有色にとらわれなくとも良いと教えられているが、どうしても圧倒的な緑を表現したい。
緑はブルー系の色に黄色を混ぜれば、自在に思うような緑が出来るとネットにあったので試して見たが、どうしてどうしてそう思う通りにことは運ばぬ。
一人で描いているところへ先生が見に来て下さったが、では、来週に、とおっしゃっただけであった。
家に帰って手を入れると、間違いなくダメになるのは経験上分かり切っているが、それを我慢出来ない。

麻生三郎の水彩画 [絵]

麻生 三郎(あそう さぶろう)は、1913年( T2)東京都生まれの洋画家である。武蔵野美術大学名誉教授。 2000 年(H12)87歳で死去。

戦中戦後を通して焼けただれ、焦げ付いたような暗褐色に彩られた家族を中心とした人物像や自己の内面を解体デフォルメし、闇の中から浮かび上がるように描き出す作風で知られる。武蔵美卒の彫刻家、麻生マユ(1951 S26-)は実娘。

麻生は、1930年に太平洋美術学校選科に入学。ここで松本竣介や寺田政明らと出会い、長谷川利行や靉光との池袋モンパルナスの交流が始まる。1933年に退学し、1936年に寺田政明らとエコール・ド・東京を結成。翌1937年の第一回エコール・ド・東京展に作品を発表。

震災 、太平洋戦争、朝鮮戦争を経て、安保闘争、核実験など社会問題への関心も高くそれらをモチーフにした作品も多い。しかし絵は半具象、抽象的で難解である。

水彩画も何枚かあるが、油彩と同じで暗がりから浮き上がってくるような独特の絵である。見る者は否応なしに、何かを考えさせられる。



「子供 」(1952 s27 水彩 墨 )33.6× 24.1cm。モデルが1951年生まれのマユであれば、2歳だが。基調色はブルー系。
「男の像 」(1963)水彩が使われているかどうかは不明。まるで落書きのよう。
「ヌード 」(1958 水彩 )27.0×24.0cm  題名不詳。
「人ー8 」(1991 H3 水彩 木炭 鉛筆 )65.0 ×50.0cm。女性らしき上半身像。78歳のときだからかなり高齢のときの水彩画だ。
「花」(制作年不詳 水彩 )49.8×64.0cm。カーネーションか。
「赤い空 」(1956)代表作のひとつ。
「人ー20 」(1992 H4 )( 水彩 鉛筆 )65.0× 49.8cm 。 全身像。79歳のときの水彩画。
「月島 」(1959 素描)麻生の絵は、一見デッサンなどお構いなしのように見えるが、素描力は高く評価されている。
「自画像」(1937 油彩)24歳のとき。赤が効果を出している。

麻生三郎の絵は幾つかの特色があるが、主なモチーフが人であることもその一つであろう。自分、家族、立つ人、座る人様々な人間が描かれている。風景や静物画などはごく少ない。
彼にとって生涯最も関心があったのは、人であったように見える。それも人間の精神、内面であるから、人物像の中にそれを表現して見るものに伝えようとしている。
見る者は別の個体であり、その精神を正しく読み取ってくれる保証があるわけではない。
絵は風景でも静物でも対象を表現するだけではなく、何かを表現しようとするものだが、人間を描き人間の心の内奥を描くとなるとさらに厄介だ。
肖像画は、モデルの性格、精神まで表現するなどというが、これとは似て非なるものだろう。人物を描き普遍的な人間の精神性を描くなどということが、はたして可能なのだろうか。

麻生の人物の絵を見ていて、ついアマチュアには手に負えぬテーマにさまよいこんでしまったようだ。

鶴岡政男の水彩画 [絵]

鶴岡 政男(つるおか まさお 1907 M40 - 1979 S54)は、戦中、戦後を通じ昭和時代に活躍した洋画家。群馬県高崎市出身。幼時父を知らず成長したといわれ、8歳で上京。太平洋洋画研究所で靉光らと絵を学ぶ。
「髭の連作」など軍部を風刺した作品を発表。1937年、応召され兵役に服して中国大陸に渡る。40年、兵役解除となり、1943年(昭和18)、靉光、麻生三郎、松本竣介らと新人画会を結成した。1945年の空襲で作品の大半を失った。
人間の根源を極限まで追求した独自の画風を展開したとされる。
「事ではなく物を描く」という主張は、画壇にセンセーショナルを巻き起こした。
事というのは、俳句で言う人事のようなものか。あるいは物語か。そういうものは描かない、事物を描くと言いながら、リアリティからほど遠い抽象的な絵を描くのは何故か。浅学の自分にはとても理解できぬ。

油彩の他彫塑、ガラス絵も。 水彩画は少ない。1960年以降パステルを多く描いた。鶴岡のパステルは油彩などと同じようにややシュールではあるが、丁寧な絵で、水彩や油彩と少しタッチが異なるように自分には見える。晩年になるほど丸みを帯びてくるようにも。

水彩を含めた鶴岡作品の一部を並べて見た。



「サンチョ・パンサ 」(制作年不詳水彩 色紙 )26.4 ×23.4cm。ほぼグレイ一色、モノトーンに見える。グレイは、ペインズグレイかインジゴと何かの混色か。
「円卓の人々」(水彩 制作年不詳)
「ドン・キホーテ 」(制作年不詳 水彩 色紙 )27.1 ×24.1cm。小さいからエスキースか。
「蝶と虫 」(1956 墨・水彩・フェルトペン)53×70cm。
「謂(いわ)れなき涙」(1966 パステル )目から涙が出るのはまとも。しかし目が三つあるのは、何だ。耳や鼻はない。
「夜の花」( パステル 1964)どれが花か。バックのグラデーションの精密な塗りが意外。
「人体 」(ブロンズ 1951)彫刻もひとつだけ。
「重い手」( 1949 油彩 )敗戦直後の虚脱を感じさせると注目された代表作。敗戦後4年を経てからの閉塞感といった方が正確であろう。翌1950年には朝鮮戦争が勃発している。

鶴岡は、戦中、戦後の苦境の中で3人の子と妻を抱え、売れない絵を描き続けた。妻はたまらず絵をやめてほしい、と迫ったという。当時松本竣介(1912-1948)らも同じであったろうが本人は絵が好きでよしとしても、家族は悲惨である。世に認められたり、名を後世に残したのは少数派で、家族ぐるみの苦労が実を結ばなかった絵描きは多かったに違いない。

鶴岡の次女の回想録で画家一家の暮らしの一端を知ることが出来るが、過ぎてしまえば、むしろ明るささえ感じられる。過ぎてしまえば、だからであろう。

「父は釣名人となり釣政と船頭から呼ばれた。毎日売りにいくので時には寺の奥方から《こう黒鯛ばかりではにおいが鼻につくわ…》といわれる…と母は話す。
それでも父は黒鯛を釣りにいき、そして釣り竿作りに精をだす。
竿の曲り具合はいかがと、糸巻いて漆を塗ってできあがる。
ぼら、穴子、河豚、皮剥…。時には何も釣れない日には沢山の蟹を捕ってきた。蒸し上った赤い色をした蟹を食べるのはこの上なく美味だ。

「画家 鶴岡政男の生涯 ボタン落とし」( 鶴岡美直子2001 美術出版社)
 本の題名は「我家の玄関は開きもしなければ閉じもしない。オーバーを着て着膨れした来客は 横になって通るからボタンが玄関にひっかかり「ボタン落しの難所」と呼ばれた」からとられたものという。

鶴岡は晩年に肺がんを病み、闘病中に腹膜炎を併発して、1979年72歳で亡くなった。奇行癖があり、無頼のようにも見えるが、線の太い芸術家の生涯だったと思う。「重い手」以外はあまりポピュラーではないが、絵はもっと見直されていいのではないかと、アマチュアでも思う。
特に生活のために描いたなどとも言われるパステル画などは、「俳」に似たユーモア、諧謔の中に独特の優しさの味があって好ましい。

ワイエスファミリーの水彩画(1/4)ー 父祖NCワイエスの絵 [絵]


NCワイエスは、高名なアメリカの国民的画家アンドリュー・ワイエスの父である。
A.ワイエスは心身ともに虚弱であったため、ほとんど学校教育を受けず、家庭教師から読み書きを習い、著名なイラストレーター(挿絵画家)であった父親ニューウェル・コンヴァース・ワイエス(Newell Convers Wyeth 1882-1945 NCワイエスと略)に絵を学んだ。

NCワイエスはアメリカのマサチューセツ州生まれ。ハワード・パイル(イラストレーター1853-1911)の元で美術を学び、雑誌のイラストレーター、挿絵画家として活躍した。1911年の「宝島」(スティーブンスン)を皮切りに、多数の冒険小説の挿絵本を手掛けた。
他にロビンフッド、モヒカン族の最後(クーパー)など。
60年以上前に自分たちが熱狂した山川惣治、小松崎 茂 らの「少年画報」や「冒険王」の絵を思い出させる絵である。

NCワイエスは、挿絵画家として活躍する傍ら、ペンシルバニア州チャッズ フォードで次男(末っ子)アンドリューのみならず長女ヘンリエッタ、次女カロラインと二人の婿(ヘンリエッタの夫ピーターハード、三女アンの夫ジョンマッコイ)を生徒として絵を教えた。
A.ワイエスは、アメリカの国民的画家となり、長女ヘンリエッテ、二女キャロライン、三女アンも著名な画家となる。長女ヘンリエッタの夫ピーター・ハード、三女アンの夫ジョン・マッコイも画家である。その子供達からも多くの画家が生まれている。

長女ヘンリエッタの場合でみれば、夫ピーター・ハードとの間に生まれた長女キャロル・ハード(NC3世代)も画家、さらにそのキャロル・ハードの長男ピーター(1959-)も画家である。ピーターは、NC4世代ということになるが、今55歳だからむろん働きざかりであろう。

アンドリュー・ワイエスの息子(次男)ジャミー・ワイエス(1946-ジェイミーとも)も高名な画家となって活躍する。NCの孫ということになる。
三代、4代ににわたる画家一族は、何を伝え、受け継ぎあるいは影響し合ったのかと考えるだけで興味深い。
彼らの絵は常に、環境か遺伝か、Is it environmental or genetic? と問われ続けられる。

NCワイエスを頂点とするワイエスファミリーは、アメリカの著名な名門画家一族として知られ、アーチストの血統(The artistic bloodline )が滔々と大河をなしている感がある。

その画家ファミリーの父祖ともいうべきNCワイエスの絵はどんなものだったか、まず最初に見なければなるまい。

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「The Silent Fisherman 」(1907)NCワイエスには、ネイティヴ、インディアンの絵が多い。
「The Artis't Studio, Chads Fords, Pensilvania」( 1910 Oil )アトリエか。NCも油彩だが風景画をよく描いた。ついアンドリュー・ワイエスの絵に共通点はないか、と見てしまう。
「宝島Treasure Island(Title 1)」( 1911)スティーブンスンの冒険小説。
「ロビンソンクルーソー Robinson Crusoe Illustration 」(1920 )挿絵は張りつめた緊張感がいのちだ。
「View of the Barn Behind John Andress Farm, Chadds Ford 」(油彩 1917-1921)barnは納屋もしくは畜舎。
「Early Snow 」(1922 oil)初期の雪。初雪か。
「アーサー王と円卓の騎士 The Boy's Arthur King 」(1922 ) シドニー・ラニア 原作。少年向けといっても、挿絵は本格的。
「写真 」(1920)32歳、この撮影時息子のA.ワイエスは3歳。

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次回はアンドリュー・ワイエスの水彩画。

ワイエスファミリーの水彩画(2/4)ー A natural watercolorist A・ワイエス [絵]

アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth 1917 - 2009 92歳で歿)は、20世紀のアメリカン・リアリズムの代表的画家であり、アメリカの国民的画家。Watercolor Artstの巨匠。
日本においてもたびたび展覧会で紹介され、油彩、水彩画家として人気の高さは圧倒的である。
アンドリュー・ワイエスは1917年、ニューヨーク市の南東、ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のチャッズ・フォードに生まれ、父NCワイエスから絵を習った。

A・ワイエスの絵は、自分など本格的なアマチュアにとって本格的水彩であり過ぎ、参考にしようがないレベルの高さなので云々言うのもはばかれる。
気になりながらも、取り上げるのに躊躇しているのはそのせいである。もっともこの戸惑いは、何もワイエスにかぎったものではなく、いつものことではあるが。
手すさびの水彩画に役に立ちはせぬかと、お遊びで先達の水彩画を見ているだけなので、気にする方が可笑しいかと思い直す。
あちこち的外れ、間違いもあって見る人が見れば噴飯ものであることもちろん自覚している。

A・ワイエスの画集は時折みるが、その度にてすさびといえ絵を描こうとする意欲が萎える。上手の絵に会うとやる気を失くすることがあるが、あれの強烈なやつである。
多分プロの水彩画家は、みんなワイエスを一度は徹底研究するのではないかと推察する。沈んだような深い色、繊細かつ軽やかな線、どうしたらこういう色や線が描けるのか、日夜試して見るに違いない。

A・ワイエスは水彩画家として知られているが、傑作の「クリスティーナの世界」など有名な絵はテンペラ画が多い。義兄の画家ピーター・ハード(長姉ヘンリエッタの夫)に教えて貰ったというエッグテンペラ(バインダーが卵)である。
テンペラも同じ水溶性だから水彩の一種とも言える。描いたことがないので確たる自信はないけれども、バインダー(媒体)がアラビア糊などである透明水彩 (Watercolor) 、不透明水彩 (Gouache )とは明らかに異なるようだ。不透明で塗り重ねが出来るというが、細かい線の表現が可能らしく緻密な絵が多い。
しかし一方で透明水彩のようにドライブラシやにじみ、ぼかしは出来なさそうである。

透明水彩では筆に最小限の水しか含ませず、紙の上に絵の具をかすらせるように置いていく技法をドライブラシという。
筆に含んだ水分と絵の具の量や筆圧などを調整すれば、表現にはかなりの幅が出せる。適切な表情を自在に出すには、経験による熟達がいる。A.ワイエスはこの技法に長けた作家といわれる。ドライブラシを駆使した透明水彩の傑作も多い。

A・ワイエスの絵のもうひとつの特徴は、ストイックともいえる静謐で神秘性を帯びた、独特の精神性の高さであろう。
A・ワイエスは自宅のある、生地チャッズ・フォードと、別荘のある東部メーン州クッシング二つの場所以外にはほとんど旅行もせず、彼の作品はほとんどすべて、この二つの場所の風景と、そこに暮らす人々とがモティーフになっている。名作の「クリスティーヌの世界」や妻に隠して描いたというヌードなどがよく知られている。
たぶん画家をナチュラル ウォーターカラーリストと呼ぶのがいちばんふさわしいだろう。
しかし、それだけでは何か物足りない感じもする。
父NCや息子ジャミーも名をなした画家だが、A.ワイエスの絵にはひときわ高い精神性があるように思うのである。
それにしても、三人の絵がどう響き合いどこが違うのか、興味は深まることには変わりはない。

A・ワイエスは見渡す限りの大草原の中で生きる「アメリカの田舎の孤独」を描いたが、対照的に「アメリカの華やかな大都会の孤独」を描いた画家E・ホッパー(1882-1967)としばしば並び語られる。

参考記事 エドワード・ホッパーの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-11-06

ワイエスは自らのメランコリックな気分を払拭するように、心の内部に物語の世界を育てては画面に立ち向かったという。長寿だったこともあり、多作である。
彼が「憑かれたごとく」絵を描き続けるのは、そうしなければ、迫ってくる得体の知れぬ孤独感に押しつぶされてしまうという恐怖感もあったとされる。絵からは無常観のようなものさえ漂う。

ワイエスの言からもそれをうかがうことができる。いわく・・。

「平凡なことがいい。だが、それを見つけるのは容易なことではない。平凡なものに信頼を置き、それを愛したら、その平凡なものが普遍性を持ってくる」
「私は秋と冬が好きだ。その季節になると、風景の骨格が感じられてくる。その孤独、冬の死んだようなひそやかさ」
「あるものとじっくりつき合っていると、しまいには自分がそのなかに生きているような気がしてくる」
「私は静かに瞑想しながら考える。人は皆孤独だと。人がいつも感じるのは哀しみだと」
「人はよく私の絵にはメランコリーが漂っているという。たしかに私には強い無常感があり、なにかをしっかり捕まえていたいという憧れがある」
「私はものごとに対してロマンティックな空想を抱いている。それを私は絵に描くのだが、リアリズムによってそこに到るのだ」

ワイエスの絵は、水彩といえ透明か不透明なのか、あるいはテンペラなのかアマチュアには判別が難しい。

画集で水彩Watercolor と明記されているものから、並べてみた(ほぼ制作年順)。
ワイエスの絵の特徴は幾つもあるが、その沈んだ色もその一つ。パレットの上で混色して暗い色を出している。画面の上で塗り重ねるのではなさそう。黒に近いが、黒ではない。緑でいえばサップグリーン。これを影として使う。影に様々な色が入っている。
オペラや赤系統の補色にインジゴ、セピア、ニュートラルチント、ペインズグレイなどと混ぜるのか。アマチュアには手に余る。



「ボブスレー The Bobsled」 (1937 Watercolor 以下w=水彩)ボブスレーは 運搬用の橇そり。
「林檎もぎ Picking Apples 」(1945 w)絵に赤がたまに入る。が黄色は殆どない。
「鉄道フェンス Rail Fence 」(1950 w)
「Approaching the Island 」(1951 w)
「NCワイエス果樹園 N.C Wyeth Orchard 」(1961 w )
「本を読む人、モンヘガンMan Reading ,Monhegan」( 1974 )たしかに右下の窓に本を読む人がいるが、主題ではなかろう。
「雪の中の枝 Branch In the Snow 」(1980 w)殆ど墨絵の世界。
「ワイリーの鎌 Wylie's Scythe 」(1986 w)
「節のある樫 Burled Oak 」(date unknown w)
「独身者の学習 The Bachelor Study 」(Date unknown w)洗濯の練習か。
「ホフマンの納屋 Hoffman's Barn 」(Date unknown w)水彩もモノトーンに味がある。
「A.ワイエスの肖像 Portrait of Andrew Wyeth 」(Jamie Wyeth, 1969 oil)アンドリュー52歳、描いた息子ジェイミーが23歳の時のもの。



「Watercolor(= w)」 、「テンペラ」とことわりがないのは画集にメディアが明記されていないもの。
「Field Hand (recto) 」( 1985 w )右ページ
「11月初めに November First 」( 1950 w)モノトーン。これも墨絵のよう。
「The Hatton House 」( 1967 w)
「ロブスター漁船 The Lobsterman 」水彩だろうが透明かどうか不明。
「Turkey Cove Ledge 」
「冬の農場光景 Winter Farm Scene 」(Date unknown w)早描きスケッチ。エスキースか。
「Lovers 」(1981 テンペラ)肌の上に映る窓の影。
「クリスティーナの世界 Christina's World 」(1948 テンペラ )代表作のひとつ。
「家の中の小鳥Bird in the house 」窓の光がフットライト。小鳥と下の木枠の赤が主役。
「遠雷 Distant Thunder 」テンペラのようだが。雷鳴音が描かれている。
「マガの娘Maga's Daughter」( 1966 )「マガの娘」とは、A.ワイエスの妻ベッツィのことである。テンペラか。ウブ毛まで描き込まれ細密画のよう。リアリティ完璧。
「自画像 Self-Portrait 」画材は不明。曖昧、正確混在した描き方。
「春の花 Spring Beauty 」(1943)テンペラではなさそうだが、不透明水彩か。木の根でアイキャッチ、枯葉のなかに花一輪とは、すごい。

日本の画家では熊谷守一(1880-1977 97歳)が、A・ワイエスと同じように静かな精神世界を描いた画家として引き合いに出される。
ともに高齢になっても絵を描いたところも共通している。だが二人は違いも大きい。ワイエスが多作なのに対して、熊谷守一は 極端に寡作であり。また、ワイエスが徹底したリアリズムを追求したが、熊谷は対象を省略、単純化し抽象画に近い画風であるのが特徴である。
何より晩年のワイエスは暗い方向に傾斜していくようにみえるが、熊谷守一の方は高齢化してから明るくなっているのはなぜだろう。

次回は、ジャミーワイエス(第3世代)の水彩画。


ワイエスファミリーの水彩画(3/4)ー第3世代 ジャミー・ワイエス [絵]

ジャミー・ワイエス(James Browning Wyeth 1946-) 。アンドリューワイエスの次男で末子、NCワイエスの孫。ワイエスファミリーのサード ジェネレーション。
1946年、ペンシルバニア州ウイルミングトンでアンドリュー&ベッツィ・ワイエス夫妻の次男として生まれた。Jamieジャミーは愛称。ジェイミーとも。アンドリューの長男(ジャミーの兄)はアートディーラーとなる。
13歳で学校をやめ、午前中は家庭教師がアカデミックな勉強を、午後は画家の伯母キャロリンについてドローイングの基礎を学ぶ。父A・ワイエスがNCワイエスから絵を学んだ環境と似ているのが面白い。
 1968年メイン州モンヘイガン島に家を建て、夏の間移り住んで島の風景をモチーフに制作する。この年フィリスと結婚。
1986年、NC、アンドリュー、ジェイミー3代の作品による「An American Vision: Three Generations of Wyeth Art」展が、ブランディワイン・リバー美術館の企画により、全米の美術館を巡回、さらに日本、ロシア、イタリア、英国でも開催された。

祖父、父から受け継いだDNAによる描写力か。ジェイミー・ワイエスは、父と同じように大自然を観察し、動物、鳥類、田園風景、そして人間をリアルに描いている。

よく父アンドリューの作品と較べられるが、父のストイックでともすれば暗い雰囲気に対して、ジェイミーのそれは、熱く明るい絵のように見える。
血や恵まれた環境を云々するのは野暮というもので、現代アメリカ美術界を代表する画家の一人であることは疑いなかろう。

ジャミー ワイエスの絵を水彩を中心に見る。


「J.F.ケネディJohn F. Kennedy 」(1967 Oil)ジャミーは肖像画で世に出た感じ。ほかに「アドルフ ヌーレエフRudolf Nureyev 」(1977 油彩)など。ヌーレエフは天才バレリーナ。またアンディウォーホールとはお互いの肖像画を描きあっている。

「命綱 Lifeline 」(1968 Watercolor 以下=w )バックの山の暗い色は父アンドリューの色。

「Slayton House 」(1968 w)これも父の絵の雰囲気。

「Cooling Off 」(1970 w)「涼む」というより「暖を取る」か。

「モンヘガンのハロウィンHalloween, Monhegan 」(1972 w )誰でもバケツに目が行く。枯れ草はセピアかバーントシェンナか。それに何を混色しているのか。

「階段 Steps 」(1972 w)画集のtechnique にはWatercolor とあるが、油彩のような迫力。ジャミーの絵は、絵の主役がはっきりしているものが多い。それでいて背景がそれを引き立てるべく丁寧に描き込まれる。階段は子供の遊びのためか、大人の遊びのためか。

「New Shoot 」(1973 w)父の絵と見間違う。

「Giant Dryads」( 1979 w)巨大なキノコ。dryadは木の精。

「走る豚 The Runway Pig」( 1979 w )ジャミーには豚の絵が多い。「Portrait of Pig 」(油彩1970)など。 豚の肖像とは。

「ジャミーワイエスの肖像 Portrait of Jamie Wyeth」( 1976 Andy Warhol )マリリンモンローや毛沢東などのポートレートで有名なA.ウオーホルによる。

「The Stray」 (挿絵 1979)
「The Stray」物語はジェイミーの母のベッツイー・ジェイムズ・ワイエスが書いている。ジェイミー・ワイエスがイラストを描いた。隔世遺伝。

「The Pickup 」(2008 Oil )近年の水彩画はほとんど無い。油彩ばかりなので1枚だけ。、

ジャミーの水彩画も透明か、不透明かあるいはテンペラかわかりにくいが、父のそれによく似ていると思う。しかし最近の絵は水彩画が少なく、父から離れようとしているのか油彩画が多いようだ。画風も少しく異なるようにみえる。
「And then into the Sunset」( 2007 oil )
「Monhegan's Schoolteacher」( 2008 oil) など。

関係ないが、自分より6歳下で現在63歳だから画家として働きざかりか。もちろん子供がいればもう孫もいて良い年齢である。孫や子、彼らについて、あるいは子供達が絵を描くかどうかなどの情報は残念ながらない。

次回は、A・ワイエスの姉、その夫や子供達の絵 を。The artistic bloodline (アーチストの血統)、華麗なる一族の絵を。

ワイエスファミリーの水彩画(4/4終)ー三姉妹画家の系譜 環境か遺伝か? [絵]

NCワイエスは、2人の男子(A.ワイエスがその1人)と3人の女子に恵まれた。三姉妹とも画家となり、そのうちのニ人が画家と結婚して子供がいる。その子供達の多くが画家に成長した。(ワイエス・ファミリーツリー参照http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2014-05-30

ここでは三姉妹、その夫、子供、さらにワイエスからは4世代となるその子達の絵を見たい。



まずNCワイエスの長女ヘンリエッタ・ワイエス(Henriette Wyeth 1907-1997) 。
夫は画家のピーター・ハード(Peter Hurd )。二人の間に生まれたカロルとミカエルの2人の子が画家となる。
ヘンリエッタは、幼時ポリオを病み人差し指と中指の間に絵筆を挟み絵を描いた。NCの望みに反し、夫とともに遠い ニューメキシコの谷に移り住む。
ヘンリエッタの水彩画は見つからなかった。油彩2点。
「レディの肖像Portrait of Lady 」(1947 oil )
「ポピーのある静物 Still life with Poppy」( 1947)

ヘンリエッタの夫 、ピーター・ハード(Peter Hurd 1904-1984) 。
著名なNCワイエスから絵を学び、後にその長女と結婚する。ハードはイタリアルネッサンスのメディウムであるエッグテンペラ(Egg Tempera)のアメリカにおけるパイオニアの一人で、義弟のアンドリュー・ワイエスにその技法を紹介したことでも知られる。
A.ワイエスの名作には、Watercolor よりもむしろテンペラ画が多い。
「タイニー近くのドライウオッシュA Dry Wash Near Tinnie 」( watercolor 1969 )乾いた洗濯物とは干上がった川のことか。
「ロケで On Location」(1950" watercolor)
掲げていないが、「The Fence Builders 」(1954)などエッグテンペラも多数描いている。



カロル・ハード(Carol Hurd 1935-)ヘンリエッタの長女。NC・ワイエス第3世代。 夫は画家ピーター・ロジャース 。家族はニューメキシコの牧場に住む。5歳から絵を始めている。
「熱帯Tropical」 (mixed media 2008 ) 馬の絵だが、熱帯と訳して良いのか。彼女の絵の主要なテーマが馬である。

ピーター・ロジャース(Peter W.Rogers 1933-) カロル・ハードの夫。
「道のイメージImages of The Way」(mixed media 2001 )
「潮紅の美人Blushing Beauty」(oil 2008 ) 女の顔をいく枚も描いている。そのうちの一枚。息子のクリスチャン・ロジャースも女の顔シリーズがある。画家の惹かれるモチーフは遺伝するのか、そうではなく、影響し合うのか。

ピーター・デ・ラ・フェンテ Peter de La Fuente (1959-) カロル ハードと最初の夫ラファエル・デ・ラ・フェンテ(Rafael de La Fuente)との長男 。
父ラファエルはスペインで知られた哲学者で作家。
一族では、祖父ピーター・ハードのエッグテンペラを継承している唯一の画家という。NC・ワイエス第4世代。
「赤い門 The Red Gate」( egg tempera 2013 )ごく最近2013年の作品。

クリスチャン・ロジャース(David Christian Rogers 1964-) カロルハ・ードとピーターロジャース(再婚した夫)の末子。NC第4世代。南ニューメキシコの牧場で育ち、6歳から絵を描き始める。ファミリーでは一番若い画家。それでも現在50歳だが。
「疑問 The Question」( アクリル 2012 )疑いの眼で見る女性の顔。ほかにも父と似て女性の顔の絵が多い。

ミカエル・ハード(Michael Hurd 1946-) ヘンリエッタとピーター・ハードの末子。
スタンフォード大卒 。音楽の才能もあったと見え、一時キングストントリオと共演している。 不動産業を経て母ヘンリエッタから絵を学ぶ。
「風景のなかの馬 Horse in Landscape」(制作年不詳 oil)

NCの次女キャロリン・ワイエス(Carolyn Wyeth 1909-1994)は結婚していない。
父NCを師として絵を学び、亡くなるまでペンシルベニア チャドフォードで絵を描いて暮らした。
ファミリーの中で最も優れた画家、今日のアメリカ最強の 女流アーチストと呼ばれた。
甥のA・ワイエスに絵の基礎を教えたことでも知られる。
「樹々から見上げて Up From the Woods」( collotype 1974 )コロタイプはアートタイプartotypeあるいは玻璃(はり)版ともいわれる写真製法の印刷版の一種。



NCの三女アン・ワイエス(Ann Wyeth McCoy 1915-2005) 音楽づけで育ち、ミュージシャン、作曲もした。画家ジョン・マッコイ(John W. McCoy 1910-1989)と結婚する。
三人の子を育てた後絵を始めた。二人の娘アンナとロビンは画家に、一人息子はフィルムメーカーになる。「私は誰からも学ばなかった。私の仕事は全くの個人のもの」という。父NCも夫も絵を教えなかったと見える。絵は環境でなくDNAだという好例か。
「ルイドソ付近、ニューメキシコNear Ruidoso, NM」(制作年不詳watercolor)水彩画らしいドライブラシだ。

ジョン・マッコイ(John W. McCoy 1910-1989) アンの夫。NCワイエスの生徒の1人。彼の内省的なメイン州のブランディーワインの谷や海岸の独特な解釈は、彼をニューイングランドのトップ画家の位置を確立した。1946年から1961年までペンシルバニア美術アカデミーで教鞭をとる
「ハード大農園 Hurd Hacienda」 (watercolor 1960 )

アンナ・ マッコイ(Anna Brelsford McCoy 1940-) アンとジョン・マッコイの長女。NCワイエス3世代。伯母のキャロラインだけでなくNYミルブルックのベネットカレッジで絵を学んだ。
水彩と油彩でユニークなスタイルを発展させ、彼女の風景画と肖像画はもとめる人が多かったという。
「象の歩み Elephant Walk」(制作年不詳 oil )

ロビン ・マッコイ(Robbin McCoy 1944- )NCワイエスの3女アンとマッコイの次女。
NCワイエス3世代。
看護のキャリアを追及しつつ、NCと伯母キャロラインから絵を学ぶ。絵を真剣に始めたのは1988年44歳から。「絵を描いていなかった長い間も私は心の中で絵を描いていた。我が家族は皆可能性を持っている」と彼女は言う。一族はみな絵のDNAを意識しているということか。
「天候の変化 Weather Change」(制作年不詳 watercolor)

ナサニエル ・ワイエスAndrew Nathaniel (A. N.) Wyeth (1948-) NCワイエスの長男(A.ワイエスの兄、Nathaniel Convers Wyeth )とその妻Caroline Pyle の子は5人いるが、そのうち 一人だけが画家となった。つまり、NCワイエス3世代。
母キャロライン・パイルは、NCワイエスの師イラストレーター、ハワード・パイルの姪である。
ナサニエルの絵は歴史的背景に強い関心があることを示すものが多い。
「ホイットフィールドの家 1640 The Whitfield House 1640」(制作年不詳 watercolor)

人間のDNAの99.99%は同じと聞くが、個性をつくる残り0.01%のなんと大きいことかと普段から考えさせられることが多い。
0.01%の中のほんの一部であるpainting のDNAはどう受け継がれ、世代を通じて才能が現出し、伝わっていくのか。はたまた消えるのか。

世襲や2世の話は、政治家や経営者はごめんだが、画家や作家、俳優などは興味深い面もある。

それにしてもこうしてみるとワイエス・ファミリーの場合は、血の流れ・血脈bloodline の壮大なことに圧倒される。森や河の流れに喩えても少しも大げさな感じがしない。
まさに稀有な華麗なる画家一族・一門である。

なお、父祖NCワイエス以外のワイエスファミリーの絵の画像は、

http://www.wyethhurd.com/homepics.html

で見ることが出来る。

尾瀬の水芭蕉 [絵]

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水彩教室もコスト削減になるからか、写真を見て風景画を描かせるカリキュラムが多くなったような気がする。しかも二週続きである。
これなら家で描いても同じだ、と生徒には不評だ。いつも何を描くか、写真で悩む。
教室が用意してくれる写真では、めったに絵に描きたいという意欲が掻き立てられない。

今回第一週は、家にあったA銀行の月めくりカレンダーの写真(5月)を拝借した。デジカメで撮影しiPadに落として持ち出す。iPadはイーゼルに置いて見ながら描くのにちょうど良い。

写真は♫夏が来れば思い出す(「夏の思い出」作詞:江間章子、作曲:中田喜直)で有名な尾瀬沼の水芭蕉 と至仏山(標高2,228.1m)である。
水芭蕉は夏、と頭に刷り込まれているが、実際に尾瀬沼でミズバショウが咲くのは5月末ごろで、これは尾瀬の季節でいえば春先にあたるそう。銀行のやることに間違いはなく、さすが手堅い。

ミズバショウ(水芭蕉、学名: Lysichiton camtschatcense Schott)は、サトイモ科ミズバショウ属の多年草で、北海道、新潟、長野など各地に群落があるというが、実際に尾瀬にも行ったことがないので、こんな群生はむろん見たことがない。

写真を見たとき、マスキングの練習にならないかと思ったので、水芭蕉と遠景の山(至仏山)の残雪に使って見た。
なかなか思うような絵にならないが、マスキングは乾かさねばならないので一呼吸おくことになり、せっかちに塗り重ねる傾向のある自分には良いかも知れないと思う。
また、マスキングを剥がした後の着彩はひどく難しいが、楽しいのでファーストウォシュに加えて「二度美味しい」という感じがする。

やはり風景画は、現地でスケッチするのが一番のようだ。写真を見て描くのであれば、リファレンス フォト(reference photo )は、少なくとも自分で撮影したものでなければと誰かが言っていた。

絵はポストカードのようになった。しかも雑な絵葉書風。
マスキングの要諦は「丁寧」だ、と知る。
絵は、大きさF6 、用紙はウォーターフォード。



イングリッシュ ブルーベル [絵]

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写真を見て絵を描くおけいこの二週目は、かなり前にいいなと思い保存していた青い花のネット写真を拝借した。
iPadの写真を見ながら描いている時に、クラスメートがここはどこ、何の花かと聞いてくるが、綺麗だなと思ってPCに残していただけなので、何の写真だったかいっこうに思い出せない。

描きたいと思うような写真はたいてい綺麗だが、実際描いて見ると難しいものが多い。
今回もまたマスキングの練習と思って始めたが、相変わらずうまくいかないので家に帰り暫く放っておくことにした。
その間にたしか写真はイギリスだったような気がしてきたので、「イギリスの花」とだけ入力し検索してみたらヒットした。いまどきの検索機能は予想以上に進んでいる。

花は、イングリッシュ・ブルーベル (Hyacinthoides non-scripta ) であった。
ツルボ亜科のヒアシントイデス属 (Hyacinthoides )に属する春咲きの球根性多年草とある。野生のヒヤシンスというから、おおよそ形態がわかろうと言うもの。花は茎の片側につき、先の反り返りが大きく香りが強いのが特徴とか。

日本で、春の到来を「桜」で騒ぐのと同じように、イギリスでは、「ブルーベル」の開花を待ちわび、咲くとフェスティバルを開催するという。
ブルーベルには、ほかにスコティッシュ・ブルーベル (Campanula rotundifolia) やスパニッシュ・ブルーベル (Hyacinthoides hispanica) というのもあり、栽培種としてハイブリッド種もあるという。日本でも人気の花とか。
スパニッシュ ブルーベルは、和名「球根ツリガネソウ」「ツリガネズイセン」などと呼ばれて親しまれてきたものと同じとのこと。ツリガネソウなら、長野の霧ヶ峰高原の七島八島湿原で見た記憶がある。いやあれはツリガネニンジンだったか。

写真が撮影された場所はどうやらロンドン郊外にある王立植物園キュー ガーデン(Royal Botanic Gardens 、Kew)のよう。
この植物園は、132haの広さ、世界に冠たるもののひとつとか。1759年に 宮殿併設の庭園として作られたが、その後世界中の大英帝国領植民地からプラント ハンティングしてありとあらゆる植物を集め分類・育成・研究する植物園となる。
実際に中国茶(紅茶)、ゴム、キニーネ、木綿、麻(ロープ)などがここで研究され、適地の植民地で生産され産業革命を後押し、英国は莫大な利益を上げたという。

さて、かんじんの絵の方は、描きたかった林の中の青いカーペットを敷いたようなイングリッシュ ブルーベルがうまく描けない。青い絨毯のような花は、何か描き方があるのだろうが、苦し紛れのスパッタリングで自滅した。
またいつの日か挑戦したいと思う。

絵に描いたリンゴは本物より良いと司馬遼太郎は言ったという。写真を見て描いても、写真とは違った写真より良い絵を描きたいものだが、道は遠い。
絵はF6、ウォーターフォード。



ばら習作 [絵]

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家人の友達が近所の住宅供給公社の団地に住んでいて、庭に蕗などを栽培し春になると蕗の薹のお福分けを届けてくれる。暫くすると蕗の茎を採りにいらっしゃいと電話がある。
嫌いな人もいるので喜んでくれる人に声をかけるんですとおっしゃるとか。
今年もやわらかな蕗のにがみを堪能した。
その時に今年はバラが花を四輪咲いたのでと、そのうちの一輪を剪って下さった。大輪の見事なものである。これきっと名のある由緒正しいばらねと荊婦。友達も苗を頂いて植えたとかで名前は知らないとのこと。
うすい黄色にほのかな赤がさしている。一輪だが見ごたえがある。
ネットで調べたら、これにかなり似た写真を見つけた。
「フランスのばら作家フランシス・メイアンが作出した20世紀を代表する名花といわれる。
第2次大戦中メイアン社のあるフランスのリヨンにもナチスドイツが迫ってきたとき、フランシス・メイアンは、一本のバラの苗木をアメリカの領事に託し、アメリカの著名な栽培業者であったコンラッド・パイル氏の手元に届けた。
 すばらしいこのバラは、米バラ園芸協会により1945年「Pease」と名付けられ、戦後の数々の国際舞台に平和の象徴として登場し、世界に広まった。 」と説明がある。
このバラを元にピース・ファミリーと呼ばれる各種のバラが作られたという。バラの愛好家は誰でも知っていることらしい。
このバラがピースである確証は残念だがないけれど、これに近い品種であろうと勝手にきめた。

うまく描く自信は全くないが、描いて見たいと思う美しさである。結果は予想したように本物にはほど遠いしろものになった。幾つかの試みをしたので「習作」ということにした。(自分の絵はすべて習作だが。)
ばらは多くの人が描くが、自分には花の丸みがどうしても表現できない。初歩的なところでつまづいている。
絵の用紙はアルシュ、F2ほどの大きさ。

多摩動物公園の虎 [絵]

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今年の五月下旬に異常な暑さが日本中を襲った。その終わりころの5月29日、家人の引率で姉と三人で日野市の多摩動物公園に遊びに出かけた。
家からは西武新宿線拝島行きに乗り、玉川上水駅でモノレールに乗り換える。1998年多摩都市線モノレールができるずっと前、玉川上水に5年ほど住んでいたことがある。立川までモノレール新線が出来るそうだという噂が出たころに引っ越してしまったので、乗ったことがない。そこで今回試乗?しようということになった。
立川あたりから若者が大勢乗り込んでくる。いい若者が動物園かと思ったら大学生であった。刑法などを読んでいる。何校か多摩センターあたりに都心から移転しているらしい。

家人がネットで調べてくれて、新宿まで出て京王線高幡不動乗り換え、多摩動物公園駅下車の方が速いし、料金も安いそうだ。帰りはそれにした。

多摩動物公園は1958(S33)年、無柵放養式で自然に近い状態の動物を見せることを標榜して開園、はや56年が経過した。一度行ったことがあるような気がするが、全く覚えていない。入り口の景色は、かすかに見たような気はするのだが。

入園してすぐ入った昆虫館の蝶が素晴らしかった。揚羽蝶をはじめ多種類の美しい蝶が大温室中に群舞していた。これが見られただけでも暑い中来て良かったと思う。

お昼を食べてから、五十周年になるというライオンバスに乗る。老人優遇で100円。ライオンは道路にへたり込んでいるだけだが、同乗の幼稚園児たちは目を丸くして見ていた。
熱中症に注意してお楽しみ下さいと、園内にアナウンスが繰り返し流れる。
体調いまひとつで、とてもあちこち歩けないだろうと思っていたが、シャトルバスの助けもあってキリン、トラ、チンパンジー、オランウータン、ユキヒョウ、レッサーパンダなども見た。見なかったのは、象、サイ、猿、カンガルーなどか。
呼び物のオランウータンのスカイウオークは、臨時のお休みであった。ふるさとがボルネオかスマトラか知らぬが「森の人」も日本の暑さで疲れたのであろう。

絵は撮って来た写真を見て家で描いた。紙はアルシュ、F2の大きさ。虎は動き回るので、ライオンと違い迫力がある。谷越しから見ていたら「捨身飼虎」という言葉が頭によぎった。
しかしながら、絵には迫力が無いのが残念。

裸婦 [絵]

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水彩を習いはじめて3年目くらいのときだったか、裸婦(習作)を描いてもどうしても裸婦にならない。いきおいどうでもよい顔や背景に注力して、無意識に本体の拙さをカバーしようとするので、ますます変になる。
絵というのは下手でもデフォルメしたみたいな面白さもあるが、裸婦はいけない。正視にしのびないという感じになる。
その頃作った駄句(川柳)2句。

・顔だけを残し裸婦の絵トリミング

このブログでもトリミングして顔だけを何枚か貼りつけている。

・これあたしモデルが笑う雑な裸婦

「笑う」はlaughだが 、むしろここは「嗤う」か。「雑な」は、rough で、粗いだけでなく「粗悪な」という意味もある。ゴルフ場では、フェアウェイでないところはラフとバンカー。これにも泣かされた。ラフの連想川柳。
モデルとても自分の絵をみて笑うしかないだろう。情けない。

あれからずいぶん年月が経ったが、ちっとも状況は変わっていない。
これも上手くならない最近描いたクロッキーを見て、性懲りも無く裸婦の練習をした。こんな練習方法は聞いたことが無いが。
全体をブログに掲載したのははじめて。曝さねば上手くならないと誰かが言ったが、どこかになお小さいながら躊躇させるものがある。

ネットでブログやFacebookで見ると、ほかの人はなんでこんなに上手いのかと思う。

絵はアルシュでF2大。一枚は「顔彩」をはじめて使ってみた。今の岩彩は、にかわが少なく水彩絵の具に近いらしい。もう一枚は背景をあじさい(のつもり)にした。

だんだん自分には無理なことに挑戦しているような気になりつつある。
ヌードが描ければ絵は上手くなるというのは、間違った説であってほしいものだ。

水彩画の技巧 超絶でなくても… [絵]

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台湾の故宮博物院の至宝展が開催されている(26.6-9 国立博物館)。翠玉白菜や肉形石の方が有名だが、17世紀清時代の精巧な「象牙多層球」も凄い。
一本の象牙から削り出された球のところどころに穴を開け,そこから工具を差し込んで彫り,入れ子状に球の内部に球を作る。その工程を何回も繰り返し,21層にもなる重層的な構造を作ったうえで,表面に精巧な透かし彫りを施し,なおかつ各々の球が滑らかに回るという,超絶の技を駆使して作られた逸品である。

10年ほど前の台北ツァーで故宮博物院に行き、これらの至宝を見た。そのとき、象牙球はどう作ったのか不思議に思ったものの、製法を追求もしなかった。
先日NHKスペシャルで故宮博物院の至宝について放映していたのを見て、なるほどと納得した。中国人のオリジナルでなく、ドイツの旋盤技術の応用だという。日本のこけしや木のお椀を削る旋盤を思い起こせば良い。中国人の独自性は龍などの透かし彫りなどを施したところだという。

ところで、どんな分野でも、世に超絶技巧を持った人はいるものだ。切磋琢磨、研鑽、努力はもちろんだが才能、資質もあるのだろう。
例えばすぐに思い出すのは、作曲家でもあったヴァイオリ二ストの ニコロ・パガニーニ。悪魔に魂を売り渡した代償として得た技などと言われた超絶技巧奏者である。
芸術家のみでなくスポーツからサーカス、大道芸人まで人間技とも思えぬ技術を持つ人は数えきれない。

水彩画の世界でも超絶技巧を持った画家は、A・デューラー、G・モロー、W・ターナーやA・ワイエスなど歴史的にも沢山いたし、現代作家でも驚愕の筆さばきをする画家が多い。しかもいまや、油彩にひけをとらず多様な技法があるうえに、多彩なマテリアルが進化しているので技術の進歩は驚くばかりである。
中国人の水彩画家などには、水墨画の伝統もあるのか見事な技術を駆使し、素晴らしい絵を描く人があまたいる。水彩の神様とも呼ばれるA氏など、アマチュアの自分から見るとまさしく神業に近い超絶技巧の保有者だ。

絵は技法ではなく心と感動だ、精神性だ、というのは、自明のことだが、技術の側面も厳然としてある。自分の感動を人に伝える表現技術だから、昔は画家を絵師、画工と言ったように、職人技の側面もあることは否定出来ない。

レベルは大差があれど、アマチュアでも、これはやって見るとよく分かる。水彩は手順を間違えると、取り返しがきかないなど、技術をないがしろに出来ぬ例はいくらでもある。
いつかグラウンドローズ(蔓薔薇)の小さな花を描こうとして失敗したことがある。白抜きを「塗り残し」で試みたが、数が多く根気が続かない。
沢山の小さな花に感動し表現してみたかったのだが、力尽き絵にならず自滅した。そのころマスキング技法など知らなかったのである。
ある程度の技術があってこそ、感性豊かな絵になる。始めから巧まずして良い絵が描けるのは幼児か、象やチンパンジーくらいであろう。

水彩は水と紙と絵の具で「自然」に逆らわず描くのが良いとされる。そのためにはある程度の技巧が必要と気が付くのに8、9年もかかった。ただひたすらデッサンに色をつけていた。そのうちうまくなるだろうという根拠のない考えで長い歳月が流れた。

絵は家人が友達に頂いた寄せ植え、フラワーアレンジメントをマスキングやラッピング、リフティング、ドライブラシなど最近練習している技術を、なんでもかんでも節操なく使って描いたもの。これでまだ使っていないのは、ソルトペインティング、スパッタリング、ポーアリングくらいか。下手な技術が目立つだけの絵となっているとちゃんと確認し、まだまだと自覚している。殊勝なシニア・老生である。F6 ウォーターフォード 。

「超」がつかない基礎的な技巧で良いので、これらを早く身につけた上で、それを最小限に使って紙と水の特性だけを生かした水彩画を描くことをこれからの目標としよう。

デュフィ展 [絵]

新宿高島屋内の東急ハンズにイーゼルの壊れた部品の修理を頼んだら、出来上がりが4時間後の午後3時だという。これを奇貨として観たいと思っていた渋谷東急文化村のデュフィ展に行き、帰りに受け取ることにする。

自分もだが、デュフィの明るい絵を好きな人は多い。以前このブログでも取り上げた。

参考 ラウル・デュフィの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-03-09

人気が高い証に、日本でもこれまで何度も展覧会が開催されている。今回はBunkamura25周年特別企画で「絵筆が奏でる 色彩のメロディー」というテーマである。

ラウル・デュフィは1877年仏ノルマンディー地方の港町ル・アーブル生まれ、パリ国立美術学校で学んだ。色彩の魔術師と呼ばれ、20世紀前半の近代絵画を代表する。色彩を重視しながらも軽やかなタッチの線描が独特の雰囲気を醸し出す画風で活躍した。1953年 75歳で没した 。

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今回の展示の狙いは、野獣派、フォーヴィスムと出会い、キュビズム絵画の先駆者ブラックと共に行ったレスタックでの制作、アポリネール「動物詩集」のための木版画制作、そしてポール・ポワレとの共同制作によるテキスタイル・デザインなど、造形的な展開を丁寧に検証することで、色彩と光の戯れの向こうにある画家の本質に迫るというもの。

ブラックらと行ったレスタックは、マルセイユ郊外プロヴァンスの港町である。
ジョルジュ・ブラック(1882ー1963)には、キュビズムへの転機となった有名な絵
「レスタックの家」(1908 油彩)があるが、それに似たデュフィ「レスタックの木々Trees at Estaque」(1908 油彩)が展示されていて、まず驚かされる。
ブラックとピカソの交流は有名だが、デュフィもその影響を受けていたのだ。しかしその後のデュフィは、二人とは違った道を歩んだことになる。

今回展示の木版画、テキスタイルなどは不勉強なので、これらのデュフィの作品が彼の絵にどう影響しているのか自分には解らなかったが、デュフィがマルチタレントであることはよく分かった。

お目当ての水彩画は10点ほど。ちょっと残念。ネット画集にあるものは、あまり無かったが、「アネモネとチューリップ」など花の絵や「マキシム」はやはり実物は見応えがある。
自分にはうまくその良さなどを表現出来ないので、この2枚について東京新聞のこの展覧会の紹介コラムから少し長いが借用させてもらう。

「アネモネとチューリップ」 (1942水彩 紙)
 ー気持ち良く画面を走る筆致も、大胆なコンポジション(構図)も、すべては、色彩を生かすための仕掛けと思える。デュフィの色彩が放つニュアンスは、どこまでも自由で洒脱(しゃだつ)。高度な現代の印刷技術でも再現できぬ。実物を鑑賞しない限り、見ることができない色だ。
 特に花の色彩は-。アネモネやチューリップには深紅が多いが、ここには単純な赤と呼べる色がない。それぞれの花びらの色の階調、明暗、濃淡、寒色-暖色の複雑な色調に名前をつけるのは難しい。光に透ける花びらからは、質感のみずみずしさやその香りまで漂ってきそうだ。
 芸術作品は、自然光で鑑賞したいと思う。しかし、美術館に展示された本作品を前にしても、デュフィの力だろうか、鑑賞者の目だけが感受できる特別なフランスの光の色を味わうことができる。心が満たされる作品だ。 吉谷 桂子(ガーデンデザイナー)

「マキシム」(1950 水彩・グアッシュ、紙 個人蔵)
 ーデュフィの絵にはそよ風が吹いている。音楽が流れている。作品の前に立った途端、頭の中で流れ始めるのは穏やかに調和した弦楽四重奏。リズミカルな筆の動きは主旋律を奏でるバイオリンか。豊かな色彩が軽やかな音色を奏でている。
 「マキシム」とはセレブが集まったという伝説のレストラン。デザイナーのポール・ポワレと知り合ったことがきっかけで、デュフィはモードや装飾デザインの世界でも活躍した。いまなら《オシャレなマルチクリエーター》と称されるにちがいない。
 社交界の女性たちは最新ファッションを身にまとい、生きる喜びをうたっている。躍動するような筆遣いと優しい色彩で描かれたこの作品。真夜中と思われる華やかな遊び場の情景にも、爽やかなそよ風と清らかな音楽が感じられる。デュフィの絵はどれも、私を心地よい世界へ誘ってくれるのである。こぐれひでこ(イラストレーター)

ほかに「果物鉢」(1948頃 水彩 紙)。背景やテーブルを先に描いて後から線を入れた
たのだろうか。制作過程を想像すると、線描が決め手になりそうで面白いが「色彩の魔術師」が泣くというもの。むろん色はデュフィ独特の赤、青、黄である。
「アイリスとひなげしの花束」(1953 水彩 紙)
デュフィの花の絵は、まず対象をそのまま絵の具で描き、あとからラインを加え輪郭をはっきりさせたようだ。バックは白そのままが多い。花の色彩を重視、強調している。オスカー・ココシュカの花の水彩と似ている。

参考 オスカー・ココシュカの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2014-01-15

フレスコが一枚あり「花束」(1951)惹かれた。宇都宮美術館所蔵とある。油彩「バッハへのオマージュ」の右に画中画として描いている絵だ。
フレスコ画はシンプルな材料(石灰、砂、顔料、水)でありながら、豊かな歴史性と高度な技術を要する古典技法で聖堂の壁画などに使われた。
フレスコ画の技法(Fresco's Technique)は、生乾きの漆喰を壁に薄く塗り、それが乾燥しないうちに水で溶いた顔料で描く壁画技法であるが、デュフィにかかるとまるで大きな水彩画である。

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油彩では、有名な「バッハ、ドビュッシーへのオマージュ」、「コンサート」などがやはり素晴らしい。この2枚も東京新聞評から引用。

「ヴァイオリンのある静物 バッハのオマージュ」(1952 油彩)
ーなんと生命力に満ちあふれた躍動的な作品なんだろう。しかしながらこの作品はデュフィの晩年のものであり、亡くなる前年に描かれたオマージュなのだ。私はこの作品にインスピレーションを与えられ、胸の高鳴りとともに無性にバイオリンが弾きたくなるのだ。 千住 真理子(バイオリニスト)
 
「コンサート」(1958 油彩 鎌倉大谷美術館)
ーそして全体の、この「赤」は何だ? とはいえ音楽と色はおおいに関わる。「音色」という言葉もある。音楽を聴いて特定の色を感じる人もいる由。でもこの赤は、コンサートの熱気なのかも。家族の多くが音楽家だったデュフィならではの作品だ。池辺 晋一郎(作曲家)

余計ながら展示されていなかったが、似た絵に「赤いコンサートThe Red Concert」( 1946 油彩)がある。
  
デュフィは61歳の時にパリ電気供給会社の依頼でパリ万国博覧会電気館に巨大な壁画(縦10m横60m)「電気の精」を描き高く評価された。
マロジェという化学者によって作られたメディウムという新素材を油彩に混ぜるという新機軸、離れ技で油彩絵の具を透明感のある質感に変えた。これで水彩画のような軽いタッチの巨大壁画となったという。
今回展示の「電気の精」(1952-3 グワッシュ、リトグラフ 紙)は、その下絵、元絵だろうか。
電気の物理現象とも云うべき雷や積乱雲が描かれ、ファラディ、モールス、エディソン、それにレントゲンなどなど、110名の科学者群像が面白い。じっくり見て楽しみ巨大壁画に思いを馳せた。
なお、展示品には無かったが、デュフィには「電気 Electricity 」(1937 水彩)もある。若い時から関心のあったテーマだったと見える。


それにしてもアマチュアが見るとデュフィの絵は、油彩でもフレスコでも同じように水彩画に似て軽やかに透明感あふれて見えるとあらためて思う。

1953年亡くなった時アトリエにあったという「麦打ち」(油彩パリ国立美術館 ポンピドゥー・センター蔵)は実質的に遺作であろうか、すぐ隣に「農家の庭」(1943 水彩)が、 飾られていた。キャプションを読みそこねたが10年前のこの水彩が元絵なのだろうか。それにしても晩年までデュフィの線の軽いタッチは衰えていないのに驚く。

ふと彼は利き腕の右は、滑らか過ぎて面白味がないという理由で左手を訓練して利き腕にわざと変えた、ということを思い出した。

多発性関節炎発症(リューマチ)に悩まされながら、生涯で水彩画だけでも数千点以上描いたと云われるデュフィだが、1953年心臓発作の為に75歳で亡くなる。

さて、短時間の鑑賞だったが、自分にとって中身はすこぶる濃い時間であった。
帰りに東急ハンズに寄り依頼した加工部品を受け取ったが、自分の作成指示が間違っていたようで、出来上がったものは使用に差し支えはなさそうだが、やや中途半端であった。耄碌寸前。嗚呼。

孫水彩・まごみづゑ [絵]

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俳句をたしなむのは老人が多いから、いわゆる「まご(孫)俳句」なるものがある。
妻を詠む「めろう(妻籠ーこの字で良いのか確信はないがー)俳句」と並びバカにされる。いや愛妻を詠んだ句には佳什が多いから、二つを並べるのはお門違いか、非常識か。例えば森澄雄の
除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり
なれゆゑにこの世よかりし盆の花
をあげれば、妻恋句に良い句があるというのは誰もが認めるだろう。

話が飛ぶが、かつて日野草城が新婚初夜連作を詠み、それを巡って賛否両論、有名な「ミヤコホテル論争」が起きた。反発したのは、中村草田男。余計ながら、自分はどちらかと言えば草田男派。

さて、孫可愛さに詠む「まご俳句」の方は、名句を知らないから悪口を甘んじるしかないようだが、自分の孫ができた時、いち早く孫俳句を作りブログにも載せた。孫バカである。

関連記事 初孫やさても見事な初緑
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-01-27

絵の場合は、画家がわが子を描いた傑作は、妻を描いたものも同じだが数知れぬほどある。例えばピカソの子供の絵などはデフォルメされてもカワイイ。
画家が家庭を持ったとき、絵を描くエネルギーが最大の時期に重なるのだろう。

しかしながら孫の絵と題した傑作は、不勉強かも知れないが、たぶん無いのでは。少なくとも、自分は知らない。孫が生まれる時期は、画家も俳人もアドレナリンが枯渇し、エントロピーが小さくなってしまっているのか。

孫俳句と同じように水彩画にも、わが造語なれど「孫水彩・まごみづゑ」があって、笑われても仕方が無いというものだろう。
その理由は、本人はカワイイを表現したいとか云っているが、他人は少しはカワイイと思っても、「特別に」カワイイとは思わないからである。そこにギャップがあるよね、とまわりは冷ややかである。これもわが造語だが、愛猫を描く「猫水彩・ねこ絵」と同じか。これも自分はよく描く。カワイイをなんとか画用紙に表現すべく悪戦苦闘して7、8年にもなる。当たり前だが藤田嗣治のようにはいかない。

絵はF4ウォーターフォード 細目。孫の太郎は1歳6ヶ月。かんじんの顔がうまく描けない。
冷笑されようが、ばかにされようがまだまだ描こうと思っている。ネタ写真は、iPad のSkypeからだから、最新のものがいくらでもある。

手づくりイーゼル [絵]

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散歩の途中に古道具屋がありカメラの三脚を見つけた。ネットでこれを使いイーゼルを作ったという記事を見たことを思い出して買い求めた。
野外スケッチ用は持っているので必要はない。部屋で水彩を描く時は、ジ(地)ベタリアンのように床に座って描くのだが、持病の腰痛が辛いのでゆったりと椅子に座って描くための道具である。
新宿東急ハンズに行き、小さな四角い木の板に穴を開けて貰い、自分で棚受けダボを打ち込んで雲台に取り付けた。
その四角い木の板に両面テープでデコパネを貼り付け出来上がり。高さ、角度など自由に変えられるので具合もいい。
アマゾンなどで自由雲台というのも売っていてもっと快適に使える物も出来るようだが、プロでもないので、これで十分である。
買った中古の三脚はややグレードの高いものだったらしく、3500円程だったが新品で1500円くらいの物で十分のよう。
少し器用な人なら東急ハンズに行く必要もない。安上がりで手作りも楽しく使い勝手も上々、もちろん野外スケッチでは威力を発揮するだろう。何しろ水平にもなるので、上級者ならポアリング(pouring)やドリッピングペイントも出来るかも知れない。
「手づくり」イーゼルとは大げさな、あまり手のかからない代用品作りだが、おすすめである。

葛飾 応為の水彩画風浮世絵 [絵]

葛飾 応為(應爲 かつしか おうい。生没年未詳、1801年頃の生まれか?)は、19世紀江戸時代後期の浮世絵師。葛飾北斎の三女である。名は栄(えい)。北斎(1760-1840)のGhost Painterでもあったのではないかという説がある。

「本朝 浮世絵名家詳伝」(明治32 関根黙庵著)によれば、応為の慨略歴は次のようになる。

・應爲は北斎の三女にして 通称を阿栄と呼びたるものなり。
栄女初め橋本町の油渡世、庄兵衛の男吉之助へ嫁せし が 障る事ありて離別となりぬ。
・後、再縁をすすむる者ありといへども かたくこばみてしたがわず。
専ら父が業を助け 美人を描くにいたりては 父にも優りたりとの高評ありき。
・晩年にいたり仏門に帰依して、爾経に怠らず。 常に茯苓(注)を服して、女仙とならんことを望めりとぞ。
栄女は没年詳ならずといへども 安政二、三年の頃、加州侯寡婦の老衰をあわれみ 扶持せられしが、ついに加州金沢において 病にかかり没せしようにききね。
(注)ぶくりょう =担子菌類サルノコシカケ科のきのこの菌核のこと

北斎は89歳で亡くなる直前まで、力強い絵を描いたと伝えられていることに、疑問を持つ人は多い。死が迫っているのに、あれだけ迫力ある絵がかけるのだろうか?というほどの傑作を描いた。そこで代筆説が生じる。
理由は北斎が晩年中風に悩まされていたことなどがあるが、第一はこの応為の存在である。
しかし、上掲関根黙庵の評伝には、それらしき記述は無い。

彼女が北斎のghost brushであったとする説で書かれた小説が「北斎と応為 」 (「The Ghost Brush 」2010 キャサリン・ゴヴィエ Katherine Govier/著 邦訳は モーゲンスタン陽子 彩流社 2014.6)である。
応為の絵は確かに優れたもので高度な技術を持っていたので、ゴーストペインターと疑われるのは、ごく自然だが、当時の徒弟制度に支えられた浮世絵工房システムが背景にあることは疑いがない。木版画であれ肉筆であれ、北斎が手を入れなくとも絵は完成し、落款と印章を押捺すれば北斎の絵になる。

応為作といわれる絵を見てみよう。

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「吉原の図」、別名「廓中格子先図」(制作年不詳 太田記念美術館 )廓の中の明かり、外の提灯の灯り。逆光は、よく水彩画でも好んで描かれる。光と影の処理は西洋画そのもの。
応為の代表作の一つであろう。

「夜桜美人画」「春夜美人図」(しゅんや びじんず)絹本 着色。メナード美術館所蔵。
これも暗がりと光の扱い方が日本画では珍しい。特に満天の星はどうやって描いたのか興味深い。点は白のほか何色か着色されているようだ。水彩のマスキング液を使ったスパッタリングのよう。

「三曲合奏図」(さんきょくがっそう ず)絹本 着色。米国、ボストン美術館所蔵。英語題名 「Pictorial evidence for sankyoku gassou」。琴、三味線、胡弓の弦楽トリオ。音楽が聞こえてくるような軽やかな動きのある絵である。構図もさることながら、三人の手と着物柄の配置もリズミカルだ。自分は応為の絵ではこれが一番好きである。

「北斎阿栄居宅図」弟子の露木為一が描いたもの。北斎がアゴと呼んだ応為が座って煙管を持っている。右の布団をかぶって作画中の北斎より目立つ。

「唐獅子図」(1844年) 葛飾北斎 83歳ごろ、応為は43歳頃か。伝親娘のコラボレーション。
鮮やかで力強い浮世絵。真ん中の獅子が葛飾北斎の作、周りの花を描いたのが娘の応為とされる。絵には画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)筆とあるだけだが、どうして応為が関わっているとするのか自分にはわからない。

「 関羽割臂図」(かんう かっぴ ず 英語題名 「Operating on Guan Yu's Arm」絹本 着色色。米国、クリーブランド美術館所蔵。旧麻生美術工芸館寄託)。応為の署名がある。江戸時代の女性の絵とは思えぬ激しい絵である。手術中の関羽は碁を打っている。

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「端午の節句」
描かれているのは、二階の部屋のように見えるが、視点が非常に低いのが特徴である。

「節季の商家」(英題名 「A Merchant making up the account 」)
手前のそろばんをはじいている人物の手前にある当座と書かれた帳面には、「文政七(1824年)」と書かれている。制作時期は文政7年から9年頃(1824-1826)と推定されている根拠である。応為24、5歳くらい、父北斎は64、5歳くらいか。
「端午の節句」と「節季の商家」の2枚とも落款、印章がないが北斎作とされた。が、手の指の描き方が、應爲(お栄)の落款がある ボストン美術館所蔵の「三曲合奏図」の指の描き方に酷似しているところからお栄が関係していた可能性は、高いとされる。
この2枚はオランダ国立民族学博物館所蔵(シーボルト・コレクション)。 紙はJ.C.Honing社製のオランダ紙。北斎作品とされるが、北斎とお栄の共同制作とも推定されている。いわゆる広義の北斎作品。

「月下玉川砧図」(げっか きぬたうち びじんず 紙本 着色 東京国立博物館所蔵)。北斎をして、美人画は俺より応為の方が上、と言わしめただけのことはある。

応為のこれらの絵には幾つかの特記すべき点があると、専門家に指摘されている。
オランダ商館長たちが 北斎に依頼し描かれて、故国に持ち帰ったものが多く、ベロ藍(ベルリン青、人工色素)、洋紙(オランダ製)が使用されている作品があることや遠近法のみならず陰影法が使用されていることなどである。浮世絵には珍しく陰影、光源まで意識されて描かれていることや視点の低い作品がかなり多いことなどである。
おそらく注文主と制作集団との間に、絵についてのやりとりもあったであろうと想像され、アマチュアにとっても興味は尽きない。

上掲の「北斎と応為」では応為とシーボルトとの劇的な出合いが書かれているが、絵が流出し、結果的に北斎が世界に知られ西洋絵画に多大な影響を与えた。その端緒となった応為作といわれるこれらの絵を見ると、鎖国、幕末の騒乱、開国などの歴史の中の芸術品UKIYOEの運命についてしみじみとした感慨がわいてくる。

アマチュアの自分には応為の絵の多くが、水彩画の雰囲気や技法に近いように見える。キャサリン ・ゴヴィエも「北斎と応為」のあとがきで、「オランダ ライデンの国立民族学博物館に行き私もその(フォンシーボルトらが集めた)水彩画と巻物を見たー、水彩画の中には、オランダ鉛筆での構図の下書きが云々」などとごく自然に「水彩」と記述している。ヨーロッパの人には、肉筆の浮世絵はウォーターカラーそのもに見えるのであろうか。

浮世絵ながら、応為独特の画風は後の小林清親などに引き継がれて行ったのではないかとも思う。小林は「最後の浮世絵師」とか「明治の広重」と呼ばれたが、「光線画」といわれる西洋画の影響を受けた水彩画風の絵を描いたことで知られる。まるで応為の絵に触発されているようだと言ったら、専門家に笑われるだろうか。

オルセー美術館展 [絵]

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自主的な老人定期健診を赤羽橋の病院で受けた日、結果もまずまずだったこともあって、帰りに国立新美術館に寄り道してオルセー美術館展を観た。

国立新美術館はいつも原宿から乃木坂駅で降りるが、大江戸線の六本木からやや狭い通りを抜けて行くと意外に近いことが分かった。
美術館に着くと展覧会のポスターが目に入るが、マネの「笛を吹く少年」の足が切られている。ポスター制作者はトリミングのプロだろうから、何かの意図があるのかも知れないが、白い靴とその小さな陰も味があるのに勿体無いことをするなどと思う。

今回の企画展は「印象派の誕生ー描くことの自由」と題し、展示された84点はさすがに印象派の殿堂といわれるオルセー美術館(1986年開館)のことだけはあったが、見終わった後何かもうひとつ物足りなさもあった。
確かに展示されている絵は、ルノアール、セザンヌ、マネ、モネをはじめとした傑作が多かったとは思う。
このブログでも触れたことがある ホイッスラーの「母の肖像(灰色と黒のアレンジメント第一番)」、ブーダンの「トルーヴィルの海岸」、ドガの「バレエの舞台稽古」、モリゾの「ゆりかご」などを観ることが出来て、幸せであった。またモローの「イアソン」もよく似た水彩画を思い起こさせてくれて印象に残った。

それでも物足りなさが残ったのは何故か分からない。モネのちょん切られた「草の上の昼食」があって、マネのそれがなかったからだけではないと思うのだが。
無意識のうちにピサロ、ブーダン、モロー、モリゾらの水彩画も見たかったのかもしれない。84点は全て油彩画で叶わぬ望みである。

ただ、いつも感じることだが、現地の美術館に出向かずに本物の絵をこうして見られるのは、本当に有難いことだ。現に、昔35年以上前にルーブル美術館に行き、また来たいものだと痛切に思ったが、ついに実現しなかった。再訪したパリはヴェルサイユ観光などといったていたらくであった。
老年になって、海外に行く元気も体力もなくなってなおさらそう思う。1時間あまり84点を観ただけでぐったり疲れて、そのことをしっかり思い知らされて確認して帰った。

北斎展 [絵]

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家人が日暮里のセミオーダーメイドの洋品店へ行くというので、ついて行った。
観たいと思っていた上野の森美術館の「ボストン美術館 浮世絵名品展 北斎」に寄りたいがためである。
洋品店は谷中銀座にあり、はじめて歩いたが「谷根千」はまさに観光地そのもので驚いた。
公園はデング熱が怖いので、上野駅構内で「更科そば」を食べてから展覧会に行くと、予想より入場者が多い。皆さん熱心に観るので、いっこうに前に進まない。
さすがに140点はどれも見応えがあるが、体力が足りず駆け足になったのは少し残念。二人とも疲れカフェで一休みして帰る。

代表作富嶽三十六景(1831前後)の「神奈川沖浪裏」( The Great Wave off Kanagawa グレートウェーブ)、 「凱風快晴」(Fuji,Mountain in Clear Weather 赤富士)はむろん素晴らしかったが、「本所立川」(Honjo Tatekawa ,the timberyard at Tatekawa)を良いなとじっくり観た。左手の木材を落とす人と受ける人の動きと緊張感がすばらしい。浮世絵は静かなのが特徴と思っていたが、北斎は音や動きも描き込んでいる。大工の鋸を引く音が聴こえるような気がする。

「武州玉川」(Tama River in the Musasi Provincer)も川波の線描がユニーク。横の霞の直線、富士や舟と人などの曲線のバランスの妙は、素人目にも多くの工夫がこらされていると思う。

諸國滝廻り(1833前後)では「木曽路ノ奥阿弥陀ケ瀧」(The Waterfall of Amida behind the Kiso Road )の滝落下が印象的。崖の上で滝見の昼食とは。
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
なる句を思い浮かべた。

花鳥版画も見事なものばかり。「朝顔に蛙」(Morning Glories in Flours and Buds )
のどこに蛙がいるのか、と係員に訊ねている青年がいた。してやったりと北斎は思ったに違いない。画集には「Volubilism and Pippin 」というのもあったが、同じものか。

ーと、挙げればきりもない。ベロ藍か何か知らぬが、北斎ブルーの鮮やかさと多彩な表現(とくに今回は北斎に点描が多いのに気づいたが)、にあらためて驚愕する。ヨーロッパ、とくに印象派の画家に衝撃的な影響を与えたというのは、むべなるかなと思った。

娘 応為の「三曲合奏図」(1844ー48)を観られたのも幸せというもの。キャサリン・ゴヴィエ「応為と北斎」をつい最近読んだばかりである。

関連記事 葛飾応為の水彩画風浮世絵
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2014-09-09

「吉原遊廓の景 」(1811頃)は、大判五枚続き、北斎の最大作品という。画集では英題名「New Year's Days of the Tea House Ogi-ya 」と訳すが、荻屋(?)が楼の名前なのだろうか。大勢の女のうち、二人だけ正面を向いているが、応為の三曲合奏図の胡弓を弾く女性の顔に良く似ている。気のせいか。
何人か描かれている男衆の表情はなかなか味がある。北斎は男の描写が面白い。さすが漫画の北斎だ。

生涯に3万点を描いたという北斎だが、ボストンの名品140点に圧倒されてしまった。と同時に一体どのくらい海外に流出したのかと、しみじみとため息が出る。

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