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オディロン・ルドンの水彩画 [絵]

オディロン・ルドン(Odilon Redon)は、自分より丁度100年前、1840年フランスボルドーの生まれ、 1916年感冒をこじらせ76歳で亡くなる。
印象派の画家たちと同時代であり、象徴派とも言われるが、生涯幻想的な絵を描き一派とは、かけ離れた特異な作風で知られる19ー20世紀フランスの画家。日本でいえば、江戸時代末期に生まれ、明治時代に活躍したことになる。(没年1916年は大正5年になる)

孤高の画家と言われるルドンを育てた、特殊な環境や成長の軌跡などについて既には多くの人が指摘している。
兄を偏愛していた彼の母親は生まれてすぐに、ルドンをボルドー近郊のペイルルバードへ里子に出す。実質上捨子となり、彼は幼少期をそこで独りぼっちで過ごしたこと、若い頃、妹や弟の死を目にしていること、20歳の頃植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の不思議な世界に魅せられるようになったこと、1886年長男ジャンが生まれるが、僅か半年で亡くなったことなどである。
カミーユ・ファルトとの結婚は1880年で40歳のとき、晩婚である。この年初めて画家はパステルの作品を描いたと言われる。1889年次男アリが生まれ幸福と安寧が訪れる。
そして1890年頃、50歳を過ぎてから、それまでの黒を基調とする多くの作品と打って変わって、作品に豊かな色彩を用いるようになる。画家の転機が結婚と家族を得たことであろうことは疑いないが、この10年間に画家にとって何が直接の具体的な触媒になったのかは興味深い。油彩と異なるパステルの特性もあるように思う。水彩画も程度の差はあっても似た役割を果たしたのではないか。

ルドンの水彩は、パステルと比べると枚数は少ない。特に制作年の判るのは、晩年にあたる1905-14年度頃の数点しかない。
ルドンは油彩、水彩、パステルのいずれも色彩表現に優れているが、やはり、なかでもパステルが一段と鮮やかである。花瓶に挿した花を、非常に鮮烈な色彩で描いた一連のパステル画には圧倒される。

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「Figure in Profile人物像」( 1905 水彩)
「Nude,Begonia and Heads 裸婦、ベゴニアと頭」( 1912水彩)
「Dante's Vision ダンテのビジョン」(1914 水彩)
水彩で 制作年が判るのは、あまりなく、代表作のひとつ「蝶と花」も1910-14年頃の作品とされる。 板に水彩で描かれ た22.5×15cm の小さな絵だ。パリのプティ・パレ美術館所蔵。
以下はほとんど制作年不詳である。制作年が判れば、画家の軌跡を辿るのには好都合なのだが、残念。
「Battle of the Centaursケンタウルスの戦い」 (date unknown Pen and Black Ink and Pencil on paper). ケンタウルスはギリシア神話に登場する半人半馬の怪物。watercolor とは書いてないが、勝手に水彩と見たがはたしてどうか。
「Bust of a Man Asleep amid Flours 花の中で眠る男の胸像」(date unknown水彩)
「Leda and the Swan レダと白鳥」(date unknown水彩)レダはギリシア神話に登場する女王。
「Profile プロフィール」(date unknown水彩)
「Strange Orchid 奇妙な蘭」(date unknown水彩)
「The Dream夢」(date unknown水彩)

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「Butterflies 蝶」(date unknown水彩)
「Butterflies 蝶」(1913 油彩)同じような蝶の油彩があるからその頃のものか。
「Naked Woman on a Car車に乗った裸婦」 (date unknown水彩)
「The Masked Anemone仮面のアネモネ」 (date unknown水彩)
「The Blessing 祝福」(date unknown水彩)

以下は水彩ではないが、ルドンの素晴らしい絵の一端を。まずは沢山あるパステル画から2枚。
「Portrait of Ari Redon アリ ・ルドンの肖像」(1898 パステル)次男アリ9歳。
表情の乏しい少年と背景の色彩の奇妙な取り合わせが素晴らしいと思う。
「Large Bouquet in a Japanese Vase 日本の壺の大きな花束」(1916 pastel drawing 185.42 ×138. 43cm)最晩年(没年)に描かれた大きなパステル画。多くの花のパステル画は構図が似ているが、色彩が豊か。安定しているがどこか儚さが漂う共通点があると言われる。

「Smiling Spider笑う蜘蛛 」(1881木炭 49.5×39cm )オルセー美術館蔵。よく見ると蜘蛛の口に歯らしきものがある。きみのわるさの中にユーモアもあるのが救い。
「Laughing Spider」 (1881 Lithograph )と題した同じモチーフの絵もある。41歳の時の作品。見るものはニヤリと笑われ、何を笑われたかとたじろぐ。
「The Cyclopsキュクロプス 」(1914 Oil on Canvas 64×51cm )ルドンの代表作。 亡くなる2年前、いわば晩年の傑作。神話に登場する醜悪な一つ目の巨人族キュクロプス、彼が美しいガラテイアに恋をした様を描く。
近年、ギュスターヴモローの「ガラテイア」 (1880 油彩 85.5×67cm )オルセー美術館との関連が指摘されているというが、ルドンの巨人の愛らしく可愛げ、かつ悲しみに満ちた目は秀逸。一度見たら忘れられない。
「Portrait of Paul Gauguinポール・ゴーギャンの肖像」( 1903 Oil)は、ルドンが評価し、交友もあって敬念も抱いていた後期印象派の巨匠ポール・ゴーギャンが1903年に死去したという訃報を受けて制作された。「3年後に描かれた方は、「Black Profile 黒いプロフィール」(1906 Oil )と黒い肖像と題されているように、2枚ともゴーギャンが黒く中心に描かれ、むしろ背景の方が明るい。画家は何を言いたかったのだろうか。不思議な肖像画だ。

ほかに、画家の転機を探るのに重要とされる「Closed Eyes 眼を閉じて」(1890 油彩44×36cm オルセー美術館蔵)がある。孤独感、不安感、死のイメージなどから解放されたように眼を瞑り、穏やかな表情を見せる女性のやや首をかしげた穏やかさは、確かに長男の死後授かった次男アリが画家にもたらした安穏を見るものに思わせる絵だ。ルドンの絵の精神性の高さを示している絵でもある。

ルドンは、結婚したころパステルを手にし(多分水彩画も含めて良いのだろうが)、鮮やかな色彩の世界へ飛び込んだ。画家の大転換のように見えるが、こうしてその後の作品を見ていると、テーマや求めるものはずっと変らないようにも見える。
繰り返し描いた現実にはいそうも無い、あでやかな「蝶」。蝶は死の象徴とも言われる。膨大な数のこれも華やかな色彩の花のパステル画も、どこか悲しみをたたえているようにも見える。花に自分を捨てた母への思慕を込めていると言う人もいる。
花や蝶の絵で赤、青、黄色のパステルや水彩の色が鮮烈であればあるほど、ルドンの悲しみや精神の深さが強調されるのは不思議としか言いようがない。
黒やモノクロームで奇怪で醜悪なモチーフを追求した若い時の絵よりも、一層死のイメージや悲しみを花や蝶の絵に感じるのは自分だけではないだろうと思う。

誠に深い魅力を持った画家の一人であるとしみじみ感じ入る。

メアリー・カサットとドガの水彩画 [絵]

メアリー・スティーヴンソン・カサット(Mary Stevenson Cassatt, 1844年- 1926年)は、アメリカの画家・版画家。ベルト・モリゾより3歳下の生まれ。モリゾは51歳で亡くなったが、カサットは82歳の長寿を全うした。
イタリア、スペインなどの西欧絵画を勉強、マネをはじめとする印象派に学んだ。フランスで生活することが多く、そこで最初に友人になったエドガー・ドガから強い影響を受けた。中でもドガのパステルに感化されて家族の生活や母と子の像などを油彩の他パステル画でたくさん描いた。力強いタッチが独特である。

また、日本の浮世絵に感動し、自ら版画の制作にまで乗りだしドライポイント アクアチント (いずれも版画技法)による水彩画風の版画も制作したことでも知られる。

パリで活動したアメリカ人の女性の画家であり、印象派の展覧会にも出品している。
ベルト・モリゾと並ぶ初期の女流作家だが、後にアメリカの絵画コレクターたちに対するアドバイザーとして、印象派絵画を世界に広めた功績者という一面がある。

カサットには水彩画が少ない。油彩のための習作もほとんどがパステルだったのであろうか。
ドガとカサットと並べるとすれば、多分ドガが先であろう。カサットを先にしたのは、特段の意味はない。はじめ自分は彼女を水彩画家と誤解していて、カサットだけを単独で取り上げようと思っていた。
水彩を始めた頃、気になった水彩画が何枚かあり、PCファイルに保存していた中にカサットの絵が2枚あった。「イタリア女性の肖像」と「少女-緑の背景」である。
しかし、今回あらためて画集を見ると、この他には水彩画はほとんどなくパステル画が圧倒的に多い。
そのパステルはドガの影響を受けたのだという。ドガとカサットは師弟ではないが、マネとモリゾのようにその交友を語られることがしばしばある。

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「Profile an Italian Womanイタリア女性の肖像」 (1873 水彩)
「Self Portrait 自画像」(1880 Pastel Watercolor on ivory wove paper )ウオーブ紙は織ったような紙か。
「Mother and Child 母と子」(1889 水彩)
「Head of Francoise Looking Downうつむくフランソワ 」(1908 水彩)
「Girl's Head -Green Background 少女像-緑の背景」(Date Unknown 水彩)
「Head of a Young Woman 若い女性」(Date Unknown 水彩)
水彩画が少ないので、油彩、版画、パステルの傑作を並べた。
「The Child's Bath 子供の湯浴み」(1893 油彩)代表作のひとつ。
「Woman Bathing髪を洗う女性 」(1890-91 Drypoint and aquatint on paper)版画を一枚だけ。どこか浮世絵風かつ淡彩風。
「Sketch of 'Ellen Mary Cassatt in a Big Blue Hat'青い大きな帽子のエレン・メアリーカサットのスケッチ」(1905 油彩)油彩のスケッチ、クロッキー?とは珍しい。早い線のタッチがアマチュアにも参考になる。
「Elsie in a Blue Chair青いチェアのエルス 」(1880 パステル)「青い肘掛け椅子の少女」(1878 油彩、カサット34歳の作品)が代表作だが、2年後に描かれたこのパステル画も独特のブルーが何とも好ましい。

一方のエドガー・ドガ(Edgar Degas 1834年 - 1917年83歳没)は、フランスの印象派の画家、彫刻家。踊り子の画家として高名だから説明を要しまい。

ドガとカサットの二人の共通点はパステル画が多いことだけでなく幾つかある。ひとつは、二人とも他の印象派と異なって外光主義でなく屋内派ということである。
ドガは眼が弱かったからとも言われるし、カサットは母子像などが主たるモチーフだったからということもあろう。
もうひとつは、二人とも長寿だったことである。カサットの晩年の絵はあまりないようだが、ドガは高齢になっても絵を描いた。油彩は力仕事だが、パステルは高齢画家に適した画材だったのかもしれない。
ちなみに、オルセー美術館学芸員のアンリ・ロワレット 著「ドガ 踊り子の画家 」(「知の再発見156 」創元社 2012)によれば、「60年近いドガの画家生活を見わしたとき、強い印象を受けるのは、彼と同じくらい長生きした同時代の画家モネやルノアールとは異なり、彼が決まった様式、既に完成した様式にまったく頼らず、得意客に受け入れられた成功作を少しずつ増やしていくこともしなかった点である」
とあるからドガの晩年の絵にはことさら興味が湧くところ。また、花や香水、犬猫などペットなど、はては、子供も好きではなかったと知ると、家族や愛犬に囲まれたカサットとは対照的でさぞ辛く長い晩年であったろうと想像する。

さて、ゆっくりとドガの画集を見るとやはり素描力と色彩には驚くべきものがあるし、自然光でなく照明など人工の光、ときに逆光などの扱いには独特のものがある。
我が画集には、さすが巨匠、800枚近い絵があるが、油彩とパステルばかりで水彩画はごく少ない。これもカサットと共通している。

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「View of Naples ナポリの眺め」(1860 水彩)
「Exit from Weighing 計量所の出口」(1866 水彩)競馬場や騎手は、踊り子、湯浴み裸婦、洗濯する女性などと並びドガが生涯執着したテーマの一つ。
「Carlo Pellegrini 」(1876-77 Watercolor with oil and pastel )不学にしてカルロ・ペレグリニが何者か分からぬ。油彩とパステルによる水彩とは、如何なるものか!
「Two Ballet Dancers二人の踊り子 」(1879 パステルとグワッシュ)踊り子には、不透明水彩とパステルが合うのだろうか。
「Ballet Sceneバレエ シーン」( 1880 水彩とパステル)コンテクレヨンと鉛筆のうえにwatercolorで着彩している。背景が水彩、衣装部分がパステルか。日本趣味の扇形。
「Study for Classical Painting 古典絵画の習作」(Date unknown 水彩)
ドガとカサットの交友関係は複雑なものであったと言われる。二人の個性が芸術を巡ってぶつかり合ったのであろう。
「Portrait Mary Cassatt メアリー・カサットの肖像 」(1880-84 油彩)モデルをつとめたカサットは、品がないとこの絵を嫌ったという。カサットの描く女性像を見れば、何となく分かるような気もする。
「The Star , or Dancer on the Stage スター、または舞台の踊り子」(1876 パステル)ドガの代表作のひとつ。
「Landscape 風景 」(1892年頃パステル)晩年期の小品(51×50.5cm)。色々な解釈のある風景画。
「 自画像 」(1855 油彩)画家21歳、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)で絵を学び始めた若い頃のもの。

水彩画という切り口でドガとカサットを見ようとしたが、水彩画が少なく残念。
むろん、どんなマテリアルであれ二人の絵は素晴らしく見ていて愉しいし、アマチュアにも勉強にはなるのだが。
パステルを勉強している人には、たまらなく魅力的な二人であろう。自分ももう少し若ければ、パステルに挑戦してみたいと思うような良い絵が多い。

オディロン・ルドンの水彩画 その2 [絵]

少し前、ルドン(Odilon Redon1840-1916)のことを書いたが、あと何か気になって仕方が無い。何がと言われても説明できないのだが。

http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-09-26
「オディロン・ルドンの水彩画」

ルドンの絵を見ていて誰も同じ思いを持つのだろうが、自分もそうで誠に不思議な謎めいた画家だと思う。
なぜルドンは、色彩から入るのが一般的なのに黒から始めたのだろうか。そして、どんな動機で黒をやめて、華麗なパステルを含めた色の世界へ入ったのだろうかと。
ルドンでなくとも、ピカソの青の時代、バラ色の時代などのように、画家は飽くなき美の追求の過程でときに画が大きく変わる。
しかし、ルドンのような黒の世界から色彩の世界への転換は、珍しいのではないか。墨絵の黒で色彩の世界を捉えようとするのは、色彩を追求した結果として黒に至るのが通常であろう。ルドンは逆だ。

「オディロン・ルドン」 <自作を語る画文集> 夢のなかで  藤田尊潮訳編 八坂書房 ( 2008)を読んで見た。ルドンの言葉の中に、いくらかのヒントがある。

「黒は本質的な色だ。(中略)後に老年になって、栄養の摂取がしづらくなると、黒は人を疲弊させるものになる。
黒は、パレットやプリズムの美しい色以上に精神の活動家なのだ」ー私自身に 「黒の本質」

「私自身に」は1922年、ルドンの死(1916年)後刊行された自伝的手記・エッセイである。

「私が少しづつ黒色を遠ざけているのは本当だ。ここだけの話だが、黒は私をひどく疲れさせる。ーこの頃は、パステル画を描いている。それから赤色石版画も。その柔らかな素材は私をくつろがせ、喜ばせてくれるのだ」
1895年 (ルドン 55歳のとき)ーエミール・ベルナールへの手紙「黒との離別」

活動的な若い時こそ黒というのは、なかなか理解し難い。彼の言葉はヒントにはなるが、何故若い時に黒に惹かれたのかは分からぬ。
しかし、黒は人を疲れさせるというのは、さもありなんと思う。黒から色彩への流れは分かるような気がする。理由の一つは高齢化であろう。では、何故パステルなのか。ルドンの油彩は七宝と言われほど独特の輝きを持っていたと言われる。それでもなおパステルに惹かれたのは何故か。油彩より手軽というだけではないであろう。

「素材は秘密を明らかにする。素材には天才がついている。素材を通してこそ、神託は語られるであろう。画家自分の夢を表現するとき、逆に明晰で目覚めた精神によって、夢を大地に繋ぎ、結びつける隠れた輪郭[素材]の働きを忘れてはならない。鉛筆、木炭、パステル、油絵の具、版画の黒インク、大理石、ブロンズ、土あるいは木材、こうした材料…
ー私自身に 「画材からの影響」

絵は素材が重要という指摘だが、ルドンのあげた素材の中に水彩が入っていない。これは、どうしてだろうか。実際にルドンの水彩画は少ないが、全く無いわけではないので、わけがありそうだが、何の記述も無いようだ。
パステルは柔らかな素材で自分をくつろがせ、喜ばすとしか言っていない。多分指で粉末を延ばす感触などが、水で絵の具を溶く水彩と異なる点であろうが、本格的にパステルを扱ったことのない自分にはこれ以上分からぬ。水彩も高齢者向きの手軽な素材であることはパステルと同じだ。

いずれにしてもルドンは、油彩の七宝に劣らぬ「色彩」をパステルでも手に入れた。これは大量に描かれた花の絵などを見れば、誰の眼にも明らかである。

何故パステルだったのか。水彩画ファンとしては少し残念な気持ちだ。多くの鮮やかな水彩画を残してくれれば良かったのにと。

ルドンが水彩画の巨匠でもあった象徴主義のギュスターブ・モロー(1826-98)の影響を強く受けたことは、よく知られている。二人の絵は、神秘的、幻想的なところなど何処か似ているところがある。

http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-04-25
「ギュスターブ・モローの水彩画」

「(モローの)生き生きと輝かしい水彩画ー私はそれらを水彩の歴史画と呼びたいーは、この画家を十分に、力強く、見せてくれ、その若干固くぎこちない画法に新しい魅力を与えている。<ファエトン>は高く評価すべき作品である」 私自身にー「モローとドラクロワ」

「ファエトン」は、1878年(ルドンが38歳のとき)に開催されたパリ万博に出展されたモローの水彩画である。太陽神アポロンの息子ファエトンの戦車の神話を題材にしている。ルドンも1910年頃から晩年にかけて、同じモチーフで何枚も描いているから水彩画を意識していなかったはずはない。
このことと、ルドンが水彩画にのめり込まなかったことと、関係があるかどうかは知らないが、水彩絵の具よりパステルの方がルドンの色彩表現に適っていたということだろう。

多くの画家がパステルや水彩絵の具を油彩のためのエスキース(下絵)を描く素材として扱ったが、ルドンは、どうやら違うようだ。パステルも油絵の具と同じように「画家が自分の夢を表現する」ための素材として扱ったのである。パステル画も油彩画と同じ本制作品、タブローだ。多分その意味では、水彩もパステルとそう大きな違いは無かったのではと思うがどうか。

ところで、黒から色彩への転換の本題とは別だが、同じ手記で色彩の中の黒(と白)の役割についてルドンはこう言っている。
「もっとも貴重な手段のひとつは黒と白を入れることである。黒と白はいわば非彩色だが、他の色彩を区別しつつ、眼が、色彩の極端な多様性や極端な華麗さに疲れてしまったとき、眼を休ませ、活性化することに役立つ」ー私自身に「色彩」

アマチュアの自分にもおおいに参考になる言葉である。謎の多いルドンだが、黒と白の使い方について分かりやすいことも言っていて、少しホッとする。

七宝焼のような絵は望むべくもないが、せめてわが水彩画にも黒と白を上手に入れて観る人の眼を休ませてみたいものだと思う。

前回あげなかった気になる絵とモローの絵を一枚並べて見た。ますますルドンという画家が不思議な魅力を増してきたように思う。

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「Eye -Balloon 眼ー気球」(1878 Charcoal )若い時の黒といっても、この時ルドン38歳。「笑う蜘蛛」、「泣く蜘蛛」などは41歳の作品である。もはや青年ではない。

「Closed Eyes 眼を閉じて」(1890 油彩)前回も書いたが、黒から色彩への移行、転換の重要な作品とされる。

「Phaeton ファエトン」(1878 水彩 )ギュスターブ モロー 。天道をはずれ墜落する日輪の馬車とファエトン、獅子と龍などいずれもモロー独自の世界が展開し観る者を圧倒する。
99×65cm 、ルーブル美術館蔵。

「The Chariot of Apollo アポロンの馬車」(1905 油彩とパステル )シャリオットは一人乗り二輪馬車。91×65cm オルセー美術館蔵。


「The Man 人間」(1915 -16パステル)142×106cmの大きな絵。最晩年の傑作。後姿の男は手に弓と矢を持つので別名「狩人」とも呼ばれるという。画家は何を描きたかったのであろうか。ルドンは最後まで謎を残した芸術家ではあった。




ロセッティとバーン ・ジョーンズの水彩画 [絵]

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti, 1828年-1882年、54歳没)は、19世紀のイギリスの画家・詩人。1848年、J.E.ミレイらとラファエル前派を結成した。
ラファエル前派(ラファエルぜんぱ、Pre-Raphaelite Brotherhood)は、19世紀後半の西洋美術において、印象派とならぶ一大運動であった象徴主義美術の先駆と考えられている。

ロセッティは、他のラファエル前派の画家たち同様、聖書、伝説、文学などに題材を求めた作品を多く描いたが、技法的には仲間の他の画家たちのような徹底した細密描写は得意でなかったとされ、人物像の解剖学的把握にもやや難があると評される。全体として装飾的・耽美的な画面構成の作品が多い。
ラファエル前派結社は、短命で数年で解散するが、解散後も多くの若い画家をひきつけた。それらのなかで最も有名なのがエドワード・バーン・ジョーンズである。かれは、ラファエル前派の特徴をすべて自分のものとし、いわばもっともラファエル前派的な作風を展開した画家といえる。

バーン・ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 1833年 - 1898年、65歳没)は、ロセッティより5歳歳下になる。ロセッティは早くからバーン・ジョーンズの才能に注目し、その成長に期待して援助を惜しまなかった。二人は師弟関係になる。
二人の絵はアマチュアが見ても何処か似ているように見えるが、特に描かれた女性は雰囲気もそっくりなものもある。ラファエル前派ではないが、「マーメイド」や「シャロットの女」で有名なジョン・ウィリアム・ウオーターハウス(1849-1917)の描く女性も似ているのは偶然ではなく、何らかのかたちで影響を受けているのであろう。

ロセッティ、バーン・ジョーンズの二人とも、神話や物語を題材にして幻想的で優雅な女性美を追求したところが共通しており、風景画や静物画は殆ど残されていない。

多くの女性像を描いただけに、 画家を取り巻く実際の女性関係も華やかなことまで共通している。
ロセッティの生涯はエリザベス・シダルとジェーン・バーデンという2人の女性との関係が有名である。
エリザベス・シダルは長い婚約期間の後、ロセッティの妻となった女性で、ロセッティの代表作の一つである「ベアタ・ベアトリクス」など多くの作品のモデルとなっている。またミレーの代表作「オフィーリア」のモデルもシダルである。後に自殺しているー。
一方のジェーン・バーデンは、19世紀イギリスの装飾芸術家・デザイナーとして著名なウィリアム・モリス(1834年-1896年)の妻となった女性であり、「プロセルピナ」をはじめとするロセッティの多くの絵でモデルを務めている。モリスはバーン・ジョーンズと親友である。
ジェーンはロセッティが終生追い求めた理想の女性であったとされ、男を破滅に追いやる「ファム・ファタル」(femme fatal=運命の女)の一例とされている。

バーン・ジョーンズの方は、糟糠の妻ジョージアーナ、恋人のギリシャ医師の妻マリア・ザンバコ、晩年の画家のお気に入りの美女、フランシス・ホーナー、ジュリア・ジャクソンと華麗である。
ジョーンズは嘯く。
「私が好む女性に二種類ある。とても善良な金髪の女性と、極めて意地悪な女性ーオート麦の髪色をしたセイレーン、まったくの悪女だ」「バーン・ジョーンズ 生涯と作品」(川端康雄、加藤明子著 東京美術社 2012)

彼のファム・ファタールは、さしずめ不倫の恋のあげく自殺未遂騒動を演じたマリア・ザンバコであろう。
二人とも彼女らをモデルに、多くの女性像を精巧で美しい芸術作品に作り上げた。

二人には、グワッシュを含め水彩画が多くあるのも共通している。エスキース(下絵)でなく本格的な水彩画のタブローも沢山ある。

二人は相異点もある。
ロセッティは、人物像のデッサン力が云々されるが、ヌードが極端に少ないのは特徴ではないか。ほとんどの女性が顔、頭部、胸像、着衣の全身像である。彼の描く女性の首の太さ、肩の逞しさは際立っている。
一方のバーン・ジョーンズは裸婦も多い。自分から見ると、ロセッティとおなじで体に比して頭が小さいと思う。八頭身どころではない。見ていると劇画の北斗の拳を彷彿とさせる。しかし、バーン・ジョーンズの場合は、あまり不自然さは感じないから、デッサンは正確なのであろう。
これらを念頭に二人の画を並べて見るとそれぞれ興味深い。

まずロセッティから。

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「Portrait of Elizabeth Siddal シダルの肖像」(1852水彩)画家24歳の作品。
「Portrait of Elizabeth Siddal シダルの肖像」(1850- 1865 水彩)
「Dante's Vision of Rachel and Leah 」(1855 水彩)
「A Christmas Carol クリスマス キャロル」(1857 水彩)
次の3枚は、ロセッティの数少ないヌードを集めた。アマチュアが見ても、バーンズの方が上手に見える。
「Venus Verticordia 」(1867 水彩)
「Ligeia Siren リゲイア・サイレン」(1873 チョーク)
「The Rainbow 虹」(1876 chalk )
次の2枚は、同じ絵で画材が異なる。大きさもほぼ同寸。透明と不透明水彩の受ける印象は殆ど変わりが無いと分かる。
「The Loving Cup 愛のコップ」(1867 水彩とボディカラー)
「The Loving Cup 愛のコップ」(1867 グワッシュ)

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「Monna Rosa モンナ・ロサ」(1867 水彩 )
「Lady Lilith レディ リリス」(1868 水彩 )エリザベス・シダルと題する画集もある。油彩画と見まごう艶。
「Golden Tresses 金髪」(1865 水彩)
「The Harp Player ,a study of Annie Miller」 ( 1872 水彩、グヮッシュ)これはエスキース(下絵)か。魅力的な良い絵だ。
「pandora パンドラ」(1879 水彩)
「Beatrice ベアトリーチェ」(1879 )ダンテの永遠の恋人。モデルはシダル。記載がないが油彩であろう。
「Proserpineプロセルピナ 」(1877 油彩)プロセルピナはギリシャ神話の悲劇の女神。冥府の女王。モデルは、モリスの妻、ジェーン・バーデン。ロセッティの代表作の一つ。
「Rossetti Lamenting the Death of his Wombat 」(1869 pen and ink )ウオンバットは、哺乳動物。カンガルー目ウオンバット科。ロセッティが飼っていたのであろうが、死んでしまい泣いている図である。おかしい。バーン・ジョーンズの戯画に似ている。
「自画像 」(1855 ペン )ロセッティ27歳。

バーン・ジョーンズは、モリス商会のステンドグラスも作成した。オールド ウオーターカラー協会の会員として水彩画を多く描いているが、油彩の傑作も多い。以下水彩画を中心に。

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「Sidonia von Bork シドニア・フォン・ボルク」(1860 水彩)バーン・ジョーンズ27歳の作品。マインホルト「魔女シドニア」より。
「Cinderella シンデレラ 」(1863 水彩)片方の足が裸足。まだ幸運を知らぬ。
「Cupid and Psyche クピドとプシュケ」(1865-67 水彩)「プシュケを見つけたキューピッド」ギリシャ神話に登場するクピドとプシュケ。画家がマリア・ザンバコと出会う契機となった作品として知られる。絵の依頼者の娘がザンバコだった。
同じ題材の次の3枚の絵は、構図は同一だが素材がそれぞれ異なるので並べた。微妙に感じが違うといえども大差はない。プシュケが開けたという、左下の冥府の眠りの入った小箱の煙がみな違うのが気になる。大きさもほぼ同じ。
ミックスメディアは油彩が入っているのだろうか。
「Cupid Delivering Psyche 」(1867 mixed media 52×61cm)
「Cupid Delivering Psyche 」(1867 水彩、パステル 77×92cm)パステルは、プシュケの上半身の白か。
「Cupid Delivering Psyche 」( 1867 グワッシュ 76×91cm)感じは油彩。
「Choristers and Musicians 聖歌隊員と音楽家」(1868-71 水彩)水彩とは思えない色つや。緻密だ。
「Portrait of Maria Zambaco マリア・ザンバコの肖像」(1870)素材はボディーカラー。水彩画のようにも見える。
「Night 夜」(1870 水彩)バーン・ジョーンズには浮遊する女性の絵が何枚かあり、モローを想起させる。次の「宵の明星」も同じ。

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「Hesperus, The Evening Star 宵の明星」(1870 グヮッシュ)
「Sleeping Beauty 眠れる美女」(1871 水彩、ボディカラー、金)バーン・ジョーンズは、油彩で眠り姫の絵を多く描いた。これは珍しく水彩。
「Temperantia 」(1872 水彩)縦152cm(幅58cm)の大きな絵である。金色基調の好きな絵。テンペランティアが何か不学にして分からぬ。キリスト教の節制、時間と関係あるらしいのだが。

「The Doom Fulfilled 運命遂行」(1882 グワッシュ)代表作ペルセウスシリーズのひとつ。一般には「成敗」と訳す。「海蛇を殺すペルセウス」という別題がある。
「The Depths of the Sea 海底」(1887 水彩)右上の小魚の群れがリアル。「深海」、「海の深み」とも訳す。水夫を引き込むセイレーンの微笑が不気味。
「An Angel Playing a Flageolet フラジオレットを吹く天使」(date unknown 水彩、グワッシュ)フラジオレットは縦笛。
「Cat and Kitten 猫と仔猫」(date unknown 水彩 )kittenは仔猫。猫の親子か、バーン・ジョーンズには珍しい変な絵。
「King Cophetua and the Beggar Maid コフェチュア王と乞食娘 」(1884 油彩)テニスン「乞食の少女」より。画家の代表作の油彩画の一枚。「英国人が描いた最上の絵画のひとつ」と称えられる。
「Cartoon of William Morris Reading Poetry to Edward Burne-Jones 」(date unknown ペン)バーン・ジョーンズに詩を読むウィリアム・モリスの戯画。Cartoonは漫画。
「William Morris at his room ,caricature 部屋のウィリアム・モリス、漫画」(date unknown ペン )
「バーン・ジョーンズ像」(制作年不明 )息子フィリップ ・バーン ・ジョーンズ(画家)の描いたエドワード ・バーン・ジョーンズの肖像画。

ロセッティもバーン・ジョーンズも神話や詩、物語から絵画の美、とりわけ女性美を追求した。
人は文学を読み、文章からそれぞれに主人公や種々の場面を想像する。画家はそれを巧みに表現して人の前に呈示して想像を助けてくれる。時に読んだときの想像と違うこともあり得るが。
自分のように、ギリシャの神話や中世の物語を知らずに鑑賞しても、楽しみは半減するのだろう。画家が憧れた美女のモデルの裏話なども、鑑賞の手助けにはあまりならない。

セザンヌは「絵画は文学と切り離さなければ、その純粋性を保つことはできないのだ」と言った。確かにセザンヌの描いたリンゴや風景を見る方が、気が楽である。
ロセッティもバーン・ジョーンズも、そのセザンヌ論とは対照ともいえる美術を追求したことになる。
確かに二人の描く美女たちは美しい。見慣れると劇画風の異様さもその美しさの方が勝ってくる。
セザンヌの嫌った文学臭の強い絵も、それはそれでまた魅力的ではある。美術論はさておいて、どちらも良いと思う。アマチュアの絵の鑑賞としてはそれで良いとしよう。




ポール・シニャックの水彩画 [絵]

ポール・ヴィクトール・ジュール・シニャック(Paul Victor Jules Signac, 1863年 - 1935年、72歳で没す)は、19世紀~20世紀のフランスの画家。ジョルジュ・スーラと並ぶ、新印象派の代表的画家。

ジョルジュ・スーラといつも一緒にされるのは、シニャックも同じく点描画の油彩画を描いたからだが、二人の点描画は微妙に異なる。乱暴を承知で大雑把に言えば、スーラの方が点が小さく、シニャックは少し大きく時に短い線もある。あまり点にこだわっていない。一方スーラは理論的に選択した色の点を几帳面に配置している感じがある。そのことが絵の印象をかなり変えている。

ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat 1859年- 1891年)も新印象派に分類される19世紀のフランスの画家。代表作は「グランド ジャット島の日曜日の午後」。油彩だが、この絵は点描画と見えぬほど、点が小さく画面はなめらかだ。
スーラは、印象派の画家たちの用いた「筆触分割」を点描画まで発展させた。彼は完成作を仕上げるまでに多数の素描や下絵(油彩で!)を制作して、入念に構想を練ったというが、我が画集に水彩画は下絵を含め、1枚も見つけることはできなかった。
点描画は手間ひまがかかるのか、31歳の若さで没したことが一番大きな理由だろうが作品の数は多くはない。
スーラより4歳年下で生まれて、72歳まで生きたシニャックが、水彩画を含めて多作家だったのと対照的である。

スーラの点描法は、キャンヴァス上に並置された異なった色の2つの点が、視る人の網膜上で混合し別の色を生み出すという、「視覚混合」の理論を応用したものといわれる。
つまり、点描画は、絵の具を混ぜることによって色を作り出すのではなく、異なった色の点を交互におくことで、その組み合わせから色の調和を得ようとする技法である。点描によって画面は明るく彩度の高いものとなる。
透明水彩絵の具でこれをやると、一層の透明感が得られることになるだろうと容易に想像出来るがどうか。
シニャックはマチスやゴッホに影響を与えた画家だが、この点描による透明感によるところが大きいものと思われる。

シニャックが水彩画を始めたのは、1885年(22歳のとき)ノートルダムを描いた絵があるので、かなり早くから手がけていたと思われる。
シニャックの水彩は、基本的には線画水彩であろう。晩年になるほど鉛筆の線が太くなるようだ。
しかし特徴は、その線のタッチが早いことと、やはりその色使いだろう。赤、青、黄を1枚の絵の中に大胆に配置する。寒色と暖色、前進色と後退色、補色などだ。素人の自分がやったら奇天烈な絵になること間違いないが、鉛筆の線ともども全体に心地よいハーモニーがあるのはさすがだと思う。

もう一つの特徴は、シニャックに人物画、静物画が少ないことである。人物画では有名な「フェリックス・フェネオンの肖像」 (1890年油彩)、「ダイニングルーム」(1887油彩)、「日曜日」(制昨年不詳 油彩)、「パラソルの婦人」(1893 油彩)など数枚しか画集に無い。ヌードなどむろん無い。
殆ど風景画、それも好きなヨットを入れた海景画などが多い。
シニャックは、スーラの死後も自分の絵を変えていく。イギリスでターナーの絵に感銘を受けその影響が点描画(油彩)にも出たと言われる。新しい色彩の展開はスーラを超えたと評する人さえいる。
魅力的な点描油彩画も多いが、ここでは本題に沿って、沢山ある水彩の中から何枚かを。水彩画で点描はどう描かれるのか、というのが関心事である。

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「Norte Dame ノートルダム」(1885 水彩 )点描の手法はまだ使われていないように見える。流れるような線、独特の色合いが特徴だ。この頃の油彩もまだ点描は現れていない。
「Passy パシー」(1898 水彩 )パシーはパリの観光名所になっている。水面などは、点描風だ。
「The Blue Poplars 青いポプラ」(1903 水彩)木の緑が点描風。ゴッホの水彩画を彷彿させる。
「The Harbors at St.Tropez サントロペ港」(1905 水彩 )シニャックは1892年サントロペに旅行しているが、その頃から盛んに水彩画を描いている。黄を基調にして明るい。全体に点描画風。
「The Pile of Sand ,Bercy 砂の堆積」(1905 水彩 )これは、点なし線のみ。
「Vierville (Calvados)」( 1913 )
「Geneva 」(1919)
「Paris パリ」(1923 水彩)
「La Rochelle 」(1925 水彩)
「Paris-River Scene パリ ・川の景色」 (Date unknown )

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「Rouen Cathedral 」(Date unknown )
「Sailing boats at Les Sables-d'Olonne 」(Date unknown 水彩)
「Floral Still Life 花の静物」(1920-24 水彩)数少ない静物画。
「Carnival at Nice ニースのカーニバル」(水彩 Date unknown )華やかなカーニバルの喧騒が聞こえる。赤の使い方が絶妙。
水彩画と油彩(こちらは点描画)をやや似た題材の絵を選んで並べて見た。
シニャックが点描で表現しようとしているものが、水彩で表現しようとしているものと同じような気がして面白い。やはり、そのひとつが透明感なのであろう。自分には水彩の方が勝っているように見える。画家は1935年に亡くなっているから、2枚とも、もう晩年の絵だ。
「The 'Emerald Coast',St.Malo 」(1931 水彩)
「The Port of Barfleur」( 1931 油彩)
「水差しと水瓜のある静物 」(1918水彩 鉛筆34.4 × 39.0cm)シニャックには珍しい静物画。まるでゴッホのタッチ。黒の線が太い。点描画風だ。

水彩画はなかったが、ジョルジュ・スーラの絵を2枚。
「A Sunday Afternoon on the Island of La Grand Jatte グランド ジャット島の日曜日の午後」(1884-86 油彩)スーラの代表作。207×308cmの大作、点描はさぞ疲れたろうと推測する。大勢の人がいる割に絵は静かだ。
グランドジャット島は、たまたまシニャックの生地。シニャックとスーラは1884年第一回アンデパンダン展で出合い共鳴したという。
「ポール・シニャックの肖像」(コンテ1890)ジョルジュ・スーラによるもの。シニャック27歳。

こうして見るとシニャックにも水彩画では、点描風のものはあっても明確な点描画は無さそうだ。わかることは点描によって油彩画でより透明感を出そうとしたこと、水彩画は本来その透明感を持っており、シニャックはそれに高年になって、さらに強く惹かれて水彩画にも注力したということである。
彼にとっては、高い彩度と明るい色彩の透明感を追求していく時、点描画と水彩画は極めて近いものだったと言えよう。


余談ながら、日本では昭和期の洋画家岡鹿之助(1898年-1978年、文化勲章1972年受章、79歳で没)の点描画が有名だが、鹿之助はそのころまだ無名に近かったスーラの作品は知らなかったという。パリに留学し、藤田嗣治に師事したのは1925年で、スーラの没年は1891年である。スーラの後を継いだシニャックは1908年にはアンデパンダン展(無審査出品制の美術展覧会)の会長も務めて知名度は高かったと思われるが、彼の点描画も鹿之助の耳に達しなかったと見える。
たしかに鹿之助の点描は、スーラの視覚混合理論を応用した点描画とは似て非なるもので、同系色の点を並置することによって堅固なマチエールを達成しようとするものであるというのが通説である。
鹿之助はこの技法を用いて、静謐で幻想的な風景画や花の絵を多く残した。彼には版画リトグラフはあるが、水彩画は無いようだ。

もうひとつ、蛇足。理論派で寡黙なスーラ、明るい性格で発言するシニャックと言われるが、新印象派には社会派のイメージが強くある。特にシニャックは、裕福なブルジョワの家に生まれながら、上掲の肖像画のモデルにもなった友人の批評家フェリックス・フェネオンと共に政治的にはアナーキズム、無政府主義者であったと言われる一面がある。画家では、穏健派といえ、「社会芸術」などを主張し、治安当局に目をつけられるというのは稀有であろう。
その代表的な作品に労働者などを描いた「調和の時代」(1894-95)、「The Demolisher 解体する人」(1898 油彩)などがあり、一考に値するテーマだが、わが興味の主題、本題は「水彩画」なので蛇足ということにあいなる。

アメデオ・モディリアーニの水彩画 [絵]

アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani、1884年 - 1920年)は、イタリアの画家、彫刻家であるが、主にパリで制作活動を行った。芸術家の集うモンパルナスで活躍し、エコール・ド・パリ(パリ派)の画家の一人に数えられる。

モジリアニはもともと彫刻家を目指したが、絵画に転進する。
1909年モンパルナスに移り、ルーマニア出身の彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと交流する。この時期彼は彫刻に没頭し、1915年頃まではアフリカ、オセアニア、アジア、中世ヨーロッパなどの民族美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていた。
しかし、資金不足と健康の悪化による体力不足などの理由により、彫刻活動を断念せざるを得なかった。
しかし、その間に残した一連のスケッチから、後の絵画作品の特徴であるフォルムの単純化の過程を知ることができるという。後述のカリアティッドなどが一つの例であろう。
1914年、パリでも著名な画商ポール・ギヨームと知り合い、ギヨームや友人のマックス・ジャコブの勧めもあって1915年頃から絵画に専念し画業を始めた。
モディリアーニの絵画の代表作の大部分は、その頃から亡くなる前年1919年のわずか数年間に集中して制作されている。
モディリアーニの絵画のほとんどは油彩の肖像と裸婦であり、風景は4、5点しかなく、静物にいたっては全く残されていない。
モジリアニは、明らかにゴッホ、ピカソなどの影響を受けているが、顔と首が異様に長いプロポーションで目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現をとっているが、これは彼の彫刻家としての影響があると指摘される。

モジリアニが、彫刻のために描いたといわれる「カリアティッド」は、モジリアニの絵画を理解するために重要なものとして良く知られている。
カリアティッドは、ギリシア建築の張りを支える女人柱のことだが、絵画に転進した1913年頃モジリアニは盛んにこれを描いている。

モジリアニの水彩画は、このカリアティッド数枚とあとほんの1、2枚しか無い。モジリアニも採色した下絵は描かず、いきなり肖像画や裸婦など人物画を描いたと見える。ゴッホと同じく、多分残された時間は少なかったためであろうか。
カリアティッドの水彩は、彫刻のためだったと言われるが、油彩でも数枚描いている。
これらのカリアティッドと大理石やブロンズ彫刻との距離よりも、後年描かれたモジリアニ独特の裸婦の油彩までの距離の方がむしろ近いように見える。

これらを並べてみると次の通り。

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「Caryatid カリアティッド 」(1913-14 水彩 パステル )
簡潔で力強い線だが、モディリアーニのカリアティッドは、 丸みを帯びた身体が官能的。
「Pink Caryatid with a Blue Border 青い輪郭のピンクカリアティッド」(1913 水彩)
「Caryatid カリアティッド」(1913 グヮッシュとインク)
「Caryatid カリアティッド」(1913 水彩)
「Caryatid カリアティッド」(1914水彩)
「Caryatid カリアティッド 」(Date unknown 油彩 )1913年とする画集もある。
裸婦を一枚だけ。
「Nude (Nu)眼を閉じた裸婦」(1917 油彩)
彫刻を2点。
「Head of a Woman 婦人の頭」(Date unknown ,stone Sculpture )
「Head of a Woman with Fringe お下げ前髪の婦人」(Date unknown ,bronze Sculpture )

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カリアティッドのほかでは、数少ないモジリアニの水彩画2枚。
「Head of a Woman wearing Hat 帽子の婦人」(1907 水彩 ) ロートレック調。この頃、帽子をかぶった油彩の婦人像が何枚かあるからその下絵か。
「Renee ルネ 」(Date unknown 水彩 )赤を基調とした淡い水彩画。娼婦だろうか。女性の目は瞳が無い。彼の描く油彩の肖像画や人物画の特徴だ。
モジリアニがもっと水彩画を描いたら、きっと良いものを描いただろうと思わせるような作品だ。

水彩画が少ないので風景画と人物画を1枚ずつ。
「Landscape ,Southern France 南仏風景」(1919 油彩 )亡くなる前年3枚の風景画を描いたのは、どういうことなのだろうか。他には1899年、1918年に各1枚。計5枚しか無いのに。
「Young Girl Seated座る若い少女 」(1918 油彩 )少女像は好きな絵が多いが、そのうちの一枚。
「自画像」15歳ごろ
「モジリアニとジャンヌ・エビュテルヌ(写真)」

モジリアニは、病と彫刻家としての挫折、売れない絵画など悩みを抱えてmaudit [ モディ ] = 呪われた画家とあだ名がつけられるほど荒れた生活をおくる。
1917年33歳の時、アカデミー・コラロッシで画学生だったジャンヌ・エビュテルヌと知り合い同棲を始め、画業も個展を開催するなど進展するかにみえた。が、続く貧困と不摂生による結核の悪化で、長女ジャンヌを遺して35歳の若さで亡くなる。結核性髄膜炎だったとされる。
エビュテルヌもモディリアーニの死の2日後、後を追って自宅から飛び降り自殺した。この時、二人目の子がお腹にいたという。彼女の絶望と悲しみと画家への愛の深さを思うと、胸が苦しくなる。
ジェラール・フィリップ、アヌーク・エメ主演の「モンパルナスの灯」の映画は、画商が画家の「ある時」を待つという映画だそうだが、二人の愛の悲劇を扱っている。ある時とは、絵の値段が急騰する画家の死。この映画を自分は見ていない。見たいとも思わないのは何故か分からぬ。

らちもない話題だが、ネットでモジリアニを検索すると、モジリアニホソアカクワガタというのが出てきてびっくり。学名Cyclommathus modiglianii モジリアニホソアカクワガタはスマトラ産とか。昆虫マニアなら知っているのだろうが、画家アメデオ・モジリアニとは関係ないだろう。


ターナー展 [絵]

朝起きて体調が良さそうなので、雨模様だったが一人で上野まで出かけた。付き添い無しの外出は久しぶり。家人は日暮里に布生地を買いに出掛けた。最近ハンディミシーンを購入したのだ。

西新宿から上野御徒町まで10分というので、大江戸線にしたのが間違い。御徒町から一駅歩く羽目になる。元気なら何でもないがJRの公園口に辿りつく頃には、足が痛くなってしまった。絵の鑑賞が少しきつい。

今回のターナー展は大回顧展と銘打ち116点が展示され、うち36点が油彩とか、あとは水彩とスケッチなどだから自分には都合の良い企画である。皆さんは油彩画の前で立ち止まる人が多いが、自分は水彩をゆっくり見る。

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油彩は数が少ないものの大きいので、展覧会向きでやはり迫力がある。
惹かれたのは「Peace-Burial at Sea 平和-水葬 」(1842 油彩 87×86.5cm )。
黄色が好きで緑が嫌いだったというターナーだが、これは珍しく黒が主役。
黒がきつ過ぎるという評にターナーはもっと良い黒があればもっと黒くしたいと言った、とキャプションにあったのが面白い。画家の自信と矜持であろう。
またキャプションに、手前の海に飛ぶ 一羽のマガモMallard(wild duck)は、画家のJoseph Mallord William TurnerのミドルネームMallordにかけて水葬された友人の画家ウイルキンソンへのオマージュとして描かれたとあって、へぇと感心した。
渡り鳥だから海にも真鴨はいるようだ。駄洒落も楽しい。

ふと気になって、自分の好きな「Blue Rigi ;Lake of Lucerne -Sunrise 青いリギ山;ルツェルン湖の日の出 」(1842 watercolor )を家に帰り画集で見ると、やはり左下にマガモらしき鳥が数羽飛んでいる。この絵も同じ1842年だ。これはターナーのサインかも知れぬ。湖ならマガモはいる。右上高く飛ぶ鳥もマガモだろう。

余談はさておき、この絵の題名「Peace」は何と訳せば良いのかと思っていたが、「平和」となっている。Burialー埋葬から想像して「安らぎ」かなと思っていた。しかし、隣にあった「War - the Exile and the Rock Limpet 戦争-流刑者とあお貝(カサ貝)」(1842年79.5×79.5cm 油彩)とセットであると知ってびっくり。戦争と平和、赤と黒か。
わからないでもないが、ターナーの友人で水葬された画家ウイルキンソンと交流のあったヘイドンがナポレオンの絵をよく描いていた、と言われてももうひとつピンとこない。

油彩で印象的だったもう一枚は、「The Devil's Bridge 悪魔の橋、サン・ゴッタルト峠(1802 油彩)。ターナーは1775年生まれだから27歳の時の作品ということになるが、この頃、水彩も油彩も描いたようだ。
ターナーは、イタリアとスイスの間にあるV字状に切れ込んだアンデルマット付近の岩場の 難所、悪魔の橋を、恐ろしげな構図と色彩で何枚か描いている。画家は、縦長の紙を垂直な断崖を強調すべく意図的に使っているという。
我が画集には水彩と明記された「悪魔の橋」(制作年不詳)もあるが、油彩風だ。こちらは、ここを行軍する兵隊が描かれている。66歳の時の1841年に描かれたものもある。水彩か油彩か画材が書いてないが、水彩画のようにも見える。

水彩で面白かったのは、スイスのリギ山を描いた コレクター向けの小さな下絵 。水彩とクレヨン、鉛筆 が使われていたように思う。いわば、購入見込み客へのセールス用のエスキース。上掲の「青いリギ山」なども、同じようにエスキースを描いたのだろうか。
今度こういう水彩を描くつもりだが買うつもりはないかね、と言っているターナーを想像すると、面白うてやがて売れっ子巨匠といえど苦労しているな、と妙な気がする。
本作のために描く下絵、エスキースのほかに、こういうのもあったのだと初めて知った。

さて、ターナーの絵のことではないが、展覧会の企画、学芸員はさすがプロだけあって、題名の邦訳やキャプションは素晴らしいと感じ入った。
Prepared paper は下塗りした紙と訳していたが、そうかと納得。絵の技法ばかりでなく地誌、歴史など豊富な知識はもちろん豊富なのだろうが、やはりセンスがある。
キャプションも、「絵のように美しい風景」をpicturesque ピクチャレスクなーなどと上品。
なかで「ウオッシュ」を「淡彩」と訳していたのでふと考えさせられたことがあった。ターナーが晩年に盛んに描いた抽象画のようなあっさりした水彩画は、前から気になっていたのだが、ファーストウオッシュ (一回目の塗り)の「淡彩」だったのかも知れないと。
水彩はこれをやったあと、暗いところや固有色を塗り重ねたりして完成させるが、このファーストウオッシュの段階が最も綺麗だとも言える。研究熱心なターナーがそれを知らないはずはない。
晩年になってあのようなあっさりした絵を何枚も描いたのはそれが理由ではないか。高齢になって体力、気力が落ちたからでは決してないとは思っていたのだが。

ところで先日、図書館で最近号の藝術新潮をめくっていたら、ターナーの「危な絵」焼却やらの話が掲載されていて少しうんざりしていた。
以前ターナーの晩年のことを、ガーティン、ボニントンとのことと三題噺で書いたことがあった。この時、ターナーにはヌードが殆どないけれど、若い頃チャレンジしたことはあることなどを書いた。

ターナーの水彩画(3/3)巨匠晩年のチャレンジ
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-05-18

水彩風景画家、海景画家ターナーのイメージを壊したくないという、気持ちが何処かにある。
藝術新潮はターナーも人、こんな側面もあった、と言いたいのだろうが、ターナーの絵を理解するためと称してこんなことを強調するのは、あまり良い好みではないように思う。

そんなこんなで、大回顧展もあまり気が進まなかったが、行って見るとやはり水彩画はおおいに参考になった。
200年前も今もそう大きく変わっていないなと、ターナーの偉大さをしみじみと思いながら秋雨の上野をあとにして、お昼には家に帰った。
殆ど同時に、日暮里の繊維街から帰宅した家人が作ってくれた温かいうどんを、二人で頂く。
午後は疲れて昼寝となったが、久しぶりに楽しい小半日であった。





エドワード・ホッパーの水彩画 [絵]

エドワード・ホッパー(Edward Hopper, 1882年 -1967年 85歳没)は、20世紀アメリカの具象絵画を代表する画家である。ニューヨーク州ナイアック(Nyack)に生まれた。商業美術の学校に入学し、ニューヨーク美術学校(New York School of Art)で絵画を学ぶ。

ニューイングランドなどの都会の街路、オフィス、劇場、ガソリンスタンド、灯台、田舎家など都市やどこのもある郊外の風景を描く。単純化した構図と色彩、大胆な明度対比、強調された光と影で描くホッパーの独特の画風は現代のアメリカでも人気がある。

イラストレーターなどを経て、画家として世に出るのは遅い方だ。1920年(38歳)に開いた初の個展では、まったく買い手が現れなかったという。
40歳のときに水彩画に転じ、1924年に水彩画の個展を開いたところ、すべて売り切れた。アメリカは我々が考えている以上に水彩画の愛好家が多い。それ以来ホッパーは約10年間、水彩画家として活躍する。

50歳を過ぎて再び油絵を描くようになるが、生前は油彩画家として評価されることはなかった。彼の独特の画風が評価されるのはむしろ没後のことである。
街に人影は少なく、いても静か。お互い目を合わせない。見ている先に何も描いてない。陽射しは強く陰は濃い。
どこか曖昧な雰囲気もあり静謐を超えて孤独、不安な感じさえして来る。しかし、じっと見つめていたいような感じもある不思議な絵である。人の心理を読み尽くしたような彩度、明度、補色の扱いが複雑とされる。単純な直線を多用しているのが、逆にそれらの効果を高めているようにもみえる。

若い時の水彩画は、アメリカ水彩画の伝統を踏襲、特にホーマーの手法に近いが、よく見ると後の油彩画の特徴、特異性の兆し、片鱗は既に出ているような気がする。
風景画に全く人影がない。日差しと陰は強いが静かである。

以下、水彩画を制作年順に並べて見た。1820年から30年くらいまでのものが多いが、油彩画を描いた40年代以降のものも少しある。





「Deck of a Beam Trawler ,Gloucesterトロール漁船の甲板、グロスター」(1923 水彩 )
グロスターは、アメリカ 北東部ニューイングランドのマサチューセッツ州の小都市。Trawler はトロール漁船のこと。
「Houses of Squam Light , Gloucester スクアムライトの家、グロスター」(1923水彩)
左の傾いた一軒家は何だろう。
「Gloucester Mansion グロスターマンション」(1924水彩)
「Houses at the Fort ,Gloucester 台場の家、グロスター」(1924 水彩 )fortは砦、台場。
「Adobes and Shed ,New Mexico 天日瓦と小屋、ニューメキシコ」(1925 水彩)
「Reclining Nudeもたれる裸婦」(1924-27水彩 )水彩のヌードは珍しい。
「Adobe Houses 天日瓦の家」(1925 水彩)
「Cars and Rocks 車と岩」(1927水彩 )車に運転する人がいないので、停車中と分かるが走っているようにも見える。岩との対比がシュール。
「Light at Two Lights トゥーライトの灯台」(1927水彩 )このモチーフは油彩を含め沢山描いたらしい。
「Prospect Street ,Gloucester 街路の眺め グロスター」(1928 水彩 ) 右は同じ絵か、別の絵か判然としないがこちらの方が明るい。



「Adam's House アダムの家」(1928 水彩)
「Freight Car at Truro トルローの貨車」(1931 水彩)
「First Branch of the White River , Vermont ホワイトリバーの最初の分岐 バーモント」(1938水彩)first branch は、一番目の支流とでも訳せば良いのか。
「The Mansard Roof 寄棟屋根」(1842水彩 )水彩画の代表作のひとつ。外側の4方向に向けて2段階に勾配がきつくなる外側四面寄棟二段勾配屋根をマンサードという。バルコニーに風が吹いている。
「Jo in Wyoming ワイオミングのジョー 」(1946 水彩)42歳の時、二つ年下の女性ジョー・ノヴィソンと結婚。彼女も画家だが、ホッパーの絵のモデルはほとんどジョーという。
「自画像 」(1925-30油彩 )43歳頃。結婚直後。
「El Palacio 」(1946 水彩 ) 64歳の作品。

「House by the Railroad 線路脇の家」(1925 油彩 )ホッパーの最初期の連作の一つで、その後の彼のスタイルを決定づけた作品である。
「Nighthawks 夜更かし達」(1942油彩 )油彩画の代表作のひとつ。他に無人の「Rooms by the Sea 海のそばの部屋 」(1951 油彩)などがある。
「ナイトホークスのDrawing 」 この絵に限らずホッパーの本作の前のドローイング、スケッチは詳細を極め、緻密な事前準備をしていたことで有名。

右端の3枚は、珍しい制作過程、いずれも水彩。アマチュアの自分にはホッパーのメイキングを見るようで参考になる。

ホッパーは、20世紀のアメリカの豊かさの中の、空虚感や孤独感を描いた画家であるが、高年になってから描いた油彩の方が、その傾向が顕著だ。それを描くために多くの仕掛けを絵の中にして、あと見る人がそれぞれ考えてくれと言わんばかり。不安、孤独を抱えていない鑑賞者はいないので画家の思うツボにはまり、それでファンが多い。

若い時の水彩画には殆ど人が描かれていず、静かな風景画が多いのに何が彼を変えたのかは興味が湧くところだ。

中西利雄の水彩画 [絵]

中西利雄は、1900年(明治33)東京生まれ。水彩画もよく描き近代洋画の父と言われる浅井忠は、1907年に亡くなったので、次の世代ということになる。
東京美術学校洋画科卒。1928年にフランスへ渡る。翌年、大学同期の小磯良平とともにヨーロッパをめぐり、サロン・ドートンヌに多数作品を出品し、入選した。
1931年に帰国、1935年に帝展で「婦人帽子店」が、水彩画で初めての特選。翌年、新制作協会を小磯良平、猪熊弦一郎らとともに結成した。
透明水彩とグワッシュの併用により独自の水彩を描く。特に水彩による独特の人物画を試み成功する。浅井忠の水彩と異なり色彩面による輪郭、ときに黒い線を使った輪郭線など新しい水彩技法を確立した。水彩でも油彩と同じように描けると水彩研究グループ蒼原会を主宰 するなど一貫して水彩画の追求と向上に努めた。水彩を水絵と称した。
日本の水彩画の開拓者と評価される。

戦前の昭和画壇に新しい風を吹き込んだが、1948年(昭和33年)肝臓がんのために中野の自宅で逝去。48歳

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渡欧の頃の作品3点。いずれも風景画。
「トリエール・シュール・セーヌ」(1930 昭和5)水彩54.5×69.5cm
 中西が滞在していた頃、パリから汽車で一時間ほどのところにあるセーヌ下流の小さな町トリエール・シュール・セーヌを描いたもの。中西本人が、「デュフィの影響も感じられる」と述べていると伝えられているが、画家は明るい透明感あふれるデュフィに惹かれたことをうかがわせる。滞仏中にサロン・ドートンヌに出品され、帰国後日本水彩画会展に特別陳列されたという。
「ノートルダム寺院 」(1930 昭和5)
「森のカフェ 」(1931)これもデュフィ風。

「婦人帽子店」(1935 昭和10)東京国立近代美術館所蔵。代表作。105×125cmと大きい。

「夏の海岸」(1936年、東京国立近代美術館) グワッシュで絵に落ち着いた深みを出している。
「人物 」(1936)
「和装 」(1937 15号)
「緑衣」( 1939 昭和14 ) 63.0×49.5cm。緑色の地に黒模様の和服が強烈。光は左からだが、その左側が暗い。「人物」も同じ。「和装」と 「H嬢」は逆。
「楽興の時 」(1940 昭和15)この絵や人物画はいわば大戦前夜の頃に描かれたものだが、明るい。 戦雲立ち込めるなかで、中西利雄の東京・中野のアトリエでは、「蒼原会レコードコンサート」がしばしば開催されたという。画家は音楽好きだったのである。
「H嬢」(1943 10号)黄緑色のテーブルと、その上のレモンイエローのノートのコントラストが良い。バックのブルーがそれを引き立てる。

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「少女像(B )」(1942 S17 )75x56cm。戦時下ながらこれも明るい絵。顔や手の影は参考になる。
制作年不明だが、風景画3点。
「沢井村」1945年7月まで疎開していた神奈川県津久井郡の風景。
「風景」 水彩 36×51cm
「六月の真昼 」新小岩操車場かと言われている。

ところで、中西利雄の三つ下の小堀進は、若い頃蒼原会で勉強したこともある。不透明水彩であるが、中西利雄を最も良く引き継いだ画家と言えるのではないかと思う。風景画家だから、あるいは異論があるやも知れぬが。
理由は特にないが、共通しているのは明快な色調と近代的な感覚と言ったところだろうか。

小堀進(1904年 - 1975年 71歳で没落)は、茨城県出身の水彩画家である。水彩連盟の設立メンバー。水彩画家として初めて日本芸術院会員となる。
郷里の霞ヶ浦・水郷をはじめとした国内外各地の風景を、鮮やかな色彩と単純化した大胆な構図でダイナミックに描き、戦後の水彩画界にも大きな影響を与えた。

小堀進のグヮッシュを3点。
「虹 」(1947 S27)
「夕照」(1959. S34 )
「初秋 」(1969. S44)

我が国の水彩画の歴史について、初期の浅井忠、くらいは名前を知っているがほとんど知識がない。戦後ではいわさきちひろ、長沢節、安野光雅などをこのブログでも触れたことがある。
しかし、戦前はどんな水彩画家がいたのかも知らない。梅原龍三郎や鈴木信太郎も水彩を描いたと聞くが、どんな絵を描いたのか。
欧米の水彩画も興味があるが、日本の画家の水彩も気になる。プロでも試行錯誤もあったであろう。中西利雄や小堀進などの絵を見るとそんなことを思う。油彩へのコンプレックス、水彩の清澄感への尽きない憧憬などがない交ぜになっているところが面白い。

関連記事「長沢節の水彩画」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-11-17

10年目の浮気 [絵]

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なにごとによらず、浮気はしないほうだと思う。ひとつのことをやると、やり方などを変えるのがおっくうなたちだ。習い事では良いことか悪いことやらわからない。
しかし、今回はじめて、ほかの水彩画家のレッスンに参加した。9年も一人の先生に教えて貰ってきたが、はじめて浮気をして見たのである。10年目の浮気だ。

カルチャーで水彩を習い始めて間もなく、どうも上手くならないので教室を変えたらどうかと考えた。しかし、まぁ、絵は自分しだいだし、変えて画友と別れるのもいやだなとそのまま続けた。描き続ければ、そのうちなんとかなっていくかもしれないという根拠のない、願望である。その頃
筆折らん花半開の甃のうえ
という駄句をつくったからかなり参っていた。
駄句を解説するのも銓無いが、最も美しいという半開の桜が石の上に咲いているのを、絵に描こうとするがとても手に負えなくて、もう描くのをやめようかと思っているさまを詠んだつもりー残念ながら句意を分かってくれる人はいないだろうがーである。甃のうえは、石の上にも三年を込めた。圧倒的に独りよがりの句。

それからずっと水彩は奥が深い、などと言いつつ、描いても描いても上手くならないとズルズルと時間が過ぎた。

8年目にまた
水彩を習いて8年枯れ蓮(やれはちす)
という駄句をつくった。やや、やぶれかぶれの気持で開き直っている。

この頃書いたブログ記事は、「わが至福の時間」と題し、上手くはならないが絵を描いている教室での2時間半は至福の時間であるという趣旨であった。

http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-03-27
上手くなることより画友との交流、健康のためという方が優先している。

そして、ついに今年(平成25年)10月から10年目に入ったのである。10年目というのはすごい。10年ひと昔、decade 、失われた10年などという言葉が頭をよぎる。学制でいえば小(6)、中(3)、を終えて高校生だ。

絵をHPにアップして、それをPDF化し画文集「かくもながき愉しみ」として電子本を作って眺めている。その絵の説明はほとんどぼやきばかりである。やったぁ、というのはまずない。

http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-02-15

さすがに、1年ほど前から「何だか変だぞわが水彩」と思い始めてネットでほかの教室の先生の描き方や、YouTubeなどで海外の水彩画家のデモなどを見た。

http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-12-12

そして自分がいままで描いてきたのは、色付き素描であることにやっと気づいた。
むろんいろんな水彩画があるから、それがダメということはないがほかの描き方も試みる価値はありそうと考えた。8年もやって来たことを変えるのは、自分の絵を潰すことにもなるおそれはあるが、やって見ようと思ったのである。
教室や先生を変えても、結局たいして変わらないだろうから自分の描き方を変えてみたらどうか。またまた根拠の無い(もしかすると良くなるかも知れないという)願望だ。

描き方を変えて1年ほどたって、はじめてマスキングの講座に参加したのである。
先生は男性の水彩画家、若い。30名ほどのスポット講座で時間は3時間。プロジェクターも使いデモもやりながらの分かりやすい説明で、持っていた全ての疑問が解けた。
マスキングは使わない方が良い。技術は大事だがもっと大事なものがあるという教えもよく分かりその通りと納得した。
マスキングは水彩をやっている皆さんが苦労していると見え、数回行われる同じ講座はあっと言う間に満席になったとか。
マスキングに象徴されるがほかの水彩技術も同じこと、マスターすれば表現の幅が広がる。
マスキングは紙の塗り残しを効率的にするためのものである、と先生もおっしゃる。それ以上でもそれ以下でもないと自分も思う。

裏技、小技として嫌い、 使うなという先生もおられるようだが、狭量というものであろう。

ぼかし、にじみ、スパッタリング、リフティング、ウェットインウエット、ソルトなどと同列である。使いこなせれば、線画に色をつけるだけより楽しさが増えることは間違いない。
若い先生は水彩ももっと自由にとおっしゃる。油彩なんかもっと多彩な技術を駆使しますよね、とも。
ターナーやクレーもありとあらゆることを試していると何かで読んだことがある。
アマチュアも何でもやって楽しめば良いのだ。

終わってから、先生の絵は建物、窓などまっすぐな線がありますが、溝付き定規は使いますか?とお聞きしたら、鉛筆では定規を使うこともありますが筆では使いませんとの答え。アントニオ ロペスなどは使っていますね。水彩も何でもありですよ、と教えてくださる。ただ何を使ったかわからないように使うのが良いですねとも。マスキングも同じことのようだ。

画家に定規を使うかなどという質問は、ある意味たいへん失礼なものだが、にこやかに答えて下さったのは相当人間ができていると見た。
浮気も時により役立つ。また機会があればネットで探して参加してみようと思う。悩んで壁にぶつかった時に、適切な講座があればきっと役立つような気がする。

スポット講座の弱点は画友が出来にくいことであろう。よってマンネリながら週一講座の良さも捨てがたい。それも再認識した10年目の浮気だった。


古賀春江の水彩画 [絵]

画家と知っているひとでも、古賀春江をいっとき女性だと思っていた人は多いのではないか。自分も長いことそう思っていた。美人画の上村松園(1875-1945)が上村松篁画伯(1902-2001)の母親と知らず男性画家だと思っていたのと同じである。不学、無知が恥しい。
古賀 春江は1895年福岡久留米市の善福寺に長男として生まれた。 本名は亀雄(よしお)。後に僧籍に入り古賀良昌(りょうしょう)と改名する。「春江」は雅号か、絵のサインもはHARUE KOGA。 通称であろう。大正期に活躍した洋画家で、日本の初期のシュルリアリズムの代表的な洋画家と評される。

1912年中学を退学、上京。太平洋洋画研究所、日本水彩画研究所などに属する。石井柏亭氏に師事、絵を学んだ。画家としての活躍は1917年二科展入選後から。
1916年21歳で結婚するが、1920年その妻が死産する。そのショックもあったのか1927年頃から神経衰弱に苦しむ。強迫観念などにも悩み、次第に心身ともに衰弱して1933年 38歳の若さで亡くなっている。

古賀春江の代表作は「海」(1929)。水着の女性が天を指差しているモンタージュの油彩画。大正モダンの前衛的な絵画として知られる。
彼の作品はポール・セザンヌ、キュビスム、シュルレアリスム、クレーなど西洋の多くの美術動向や画家の影響を受け、短期間のうちにその作風がめまぐるしく変わっているのが特徴とされる。解題詩を含めて詩も書いた。

水彩画も何枚か描いているが、クレーの影響を受けた絵に多いようだ。
古賀春江は水彩画についてこう言っている。

「水彩は長編小説ではなくて詩歌だ。
そのつもりで見てほしい。
水彩は、その稟性により、
自由にして柔らかに而して
淋しいセンチメンタルな情調の象徴詩だ。
そのつもりで見てほしい」「水絵の象徴性に就いて」

「水彩の稟性」というのは何か知らないが、水彩が詩歌なら油彩が長編小説なのだろうか。

その水彩画を何枚か掲げてみよう。

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「竹林(竹藪)」(1920 水彩)

「牛を焚く」(1927 水彩)解題詩の1節。「…牛はぼうぼうと燃える焚木の上に乗せられて、楽しさうに何か喰べてゐた。山の上であった…」

「窓外風景」(1927 水彩)
同じく解題詩の1節「…光線を手で撃って見て 精神の位置がわかるだらうか 窓を閉めて
よごれた顔に掌を被せる…」
難しくて自分にはとても理解できない。

「無題 」(1930頃 水彩)昭和5年頃と言えばまだ戦争の足音は聞こえなかったか。ワイングラスが目をひく。

「好江夫人像 」(水彩 ) 結婚生活は1916ー1920年の4年間。この絵は西洋の画家などの影響を受けていないように自分には見える。古賀春江独自の絵のような気がして好ましい。

「花 」(水彩)パウル・クレーあるいはアウグスト・マッケ風。

「海 」(1929 油彩 )代表作とされる。多くの人はこの絵を目にしている。コラージュ。
以下はこの絵の解題詩の全文。
「透明なる鋭い水色。藍。紫。見透される現実。陸地は海の中にある。
辷る物体。海水。潜水艦。帆前船。
北緯五十度。
海水衣の女。物の凡てを海の魚族に縛(つな)ぐもの
萌える新しい匂ひの海藻。

独逸最新式潜水艦の鋼鉄製室の中で
艦長は鳩のやうな鳥を愛したかも知れない
聴音器に突きあたる直線的な音。

モーターは廻る。廻る。
起重機の風の中の顔。
魚等は彼らの進路を図る――彼等は空虚の距離を充填するだらう――

双眼鏡を取り給へ。地球はぐるつと廻つて全景を見透される」

こちらはいくらか絵に沿っているが、難解なことに変わりない。

「自画像 」(1916) 結婚した頃のもの。上掲の好江夫人の眼にどこか似ているような。

「花 」(1925 水彩)これは誰の影響を受けた絵だろうか。良い水彩画だと思う。

「そこに在る 」(1933 水彩 )最晩年の絵 。古賀春江は、亡くなる2年前コレクターでもあった川端康成と交流があったという。その川端の所蔵品の一枚。

自死したノーベル賞作家は、古賀春江の絵のどこに惹かれたのであろうか。

古賀春江は油彩のために水彩の下絵も描いたようだが、クレーに傾倒しただけに透明感ある水彩画に惹かれ水彩タブローも多い画家である。
何時ものように、彼が若くして病没しなければーという「たら」、「れば」の嘆きだがーきっと独自の良い水彩画を描いただろうと思う。上掲の「竹林」、「花」、「好江夫人像」などを見ているとそんな気がする。

浅井忠の水彩画ー 夢さめみれば(1/2) [絵]

日本の水彩画の偉大な先駆者の一人が浅井忠である、とするのは誰もが認めるところだろう。
浅井忠は西洋近代絵画を学び黒田清輝とともに日本近代洋画の父と称されるが、油彩だけでなく近代の水彩画も日本に紹介し、その普及に重要な役割を果たした。
浅井 忠は安政3年(1856年)千葉 佐倉市 生まれ。明治40年(1907年)51歳で没した。
1876年(明治9年)に工部美術学校に入学、西洋画を学び、特に工部大学校(後の東大工学部)お雇い外国人教師アントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。

1900 年43歳のときフランスに留学した。 大家としては遅い渡欧である。
浅井忠は1902年に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも貢献した。
安井曽太郎、梅原龍三郎、津田青楓、向井寛三郎らを輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。

また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
漱石は絵画の見巧者である。深見画伯が浅井忠となると彼の絵を漱石はこう見たことになる。
「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」
「三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど一気呵成に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿のようである」

浅井忠は黒田清輝と比較されるが、黒田より10歳上ながら訪欧も黒田より15年も後のことであった。浅井は維新における「朝賊」佐倉藩士の子息、かたや薩摩出身 で従三位、子爵、勲二等、東京美術学校教授、帝国美術院院長(第2代)、貴族院議員などを歴任した黒田清輝 (1866-1924)と生き方、画業も大きく異なる。黒田が東京を中心に活動したのと 対照的に、浅井忠は京都に住み画壇や官職から遠いところで活躍したことはそれを良く示している。
太田治子著「夢さめみれば 日本近代洋画の父・浅井忠」(2012朝日新聞出版)は、日清、日露戦争の時代にフェノロサや岡倉天心らによる洋画排斥の波に抗しながら、浅井忠や黒田清輝が西洋画を日本に定着させた経緯を記述している。
2011年4月から7月まで東京新聞夕刊コラムに掲載されたもので、時々読んだ覚えがあるが、良く覚えていない。今回通読して、浅井の号が「黙語」だったことなどを初めて知った。黙語とはだんまり、浅井忠の人柄を表わしているかもしれない。

正岡子規に「 画」と題する随筆があってそこに黙語先生ー浅井忠が登場する。子規がはじめて水彩を描いた時のくだり。
(秋海棠の)「葉の色などには最も窮したが、始めて絵の具を使ったのが嬉しいので、その絵を黙語先生や不折君に見せると非常にほめられた。この大きな葉の色が面白い、なんていうので、窮した処までほめられるような訳で僕は嬉しくてたまらん。ー中略ー僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう」
中村不折は「君」で黙語は「先生」なのが面白い。

主題の「夢さめみればー大日本」と近代洋画との関係が良く理解出来なかったが、著者の浅井忠びいきや水彩画に対する考えなどには、共感するものがあって好感が持てる本である。

ところで、黒田清輝 の水彩画は 「日清役二龍山砲台突撃図」(1894)一枚しか見つけられなかった。ほとんどないと言って良い、あるいは残されていない。パステルも「夫人像」(1904)などごく少なく、あとは油彩画である。水彩画も沢山描いた浅井忠とこの点でも対照的である。中央画壇にいて重厚な油彩画を描き続けねばならなかった黒田、自由に水彩はもちろん日本画、デザイン、彫像まで手がけた浅井忠、ここでも二人は好対照だ。

浅井忠は晩年、日本の近代デザインの開拓者になったことはあまり知られていない。皿や茶碗・壷などに絵付けした工芸作品も多く、今で言うデザイナー的な活動もしていて、日本にアール・ヌーヴォーを伝えたひとりでもあった。
彼の工芸デザインには、いくつかの特徴が見られるが、そのひとつに大津絵の影響がある。
大津絵は、滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画。鬼、座頭などさまざまな画題を扱っており、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていたという。
かつて大阪で働いていたとき、初めて大津絵を知り興味を持ったことがある。
自在な鬼の絵など独特のものであるが、浅井忠は、これに惹かれ木版画や工芸デザインに活かしたのだ。

上掲の著者の太田治子氏は、次のように書きこれらをあまり評価していない。
「しかし浅井の帰国してからの和洋折衷の作品は、漆器も陶器もどこか中途半端でもどかしく感じる。一方京都で描いた水彩画は、どれも浅井の大好きな花の水仙のようにすっきりと感じられるのだった。浅井は、水彩画による洋画の普及を考えていた日本という国のためでなく日本人のために普及したかった」
水彩画についての記述には異論はないが、工芸デザインについては自分はそうは思わない。あの時代に工芸デザインにチャレンジした精神、実際にこれだけのものを創ったことは凄いと素直に感心するし、残された作品もそれぞれ味がある。

浅井はこの他にも日本画、テラコッタ(素焼きの彫像)、絵皿、印刷デザインなどにも取り組んでいる。美術雑誌に戯画を寄せたりしているが、何と実際に漫画も描いた。多才、マルチタレントの一面を覗かせて面白い。

浅井忠の漫画作品の代表作は、明治38年(1905年)の「当世風俗五十番歌合」である。明治30年代の風俗を50枚の木版色刷り漫画で活写している。いわゆるコマ漫画ではないが、浅井の並外れたデッサン力がこれを描かせたのであろう。
夏目漱石に見出され朝日新聞に入社、風刺漫画を描いて大正から戦前にかけて一時代を画した岡本一平(1886-1948)が、日本初の漫画団体「東京漫画界」を設立したのは1915年、それより10年も前のことになる。これはある意味スゴイことではないかと思う。

浅井忠の水彩画にファンが多いのは何故か。絵を見ていてとても落ち着くという人が多い。
心に波風を立てるというのも良い絵なのだろうが、心が和むというのもまた良い絵なのであろう。水彩には多い。
一方アマチュアには、渡欧時代だけでなく東京、京都時代を通じて水彩画を描く時に、参考になる絵が沢山ある。そんな水彩を少し集めて見た。

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「京都 若王子風景」
「樹木」
「雲 」(1903-07水彩)
「山村風景 」(1887 )
「本と花 」(1889 水彩)
「フォンテンブローの森 」(1901 M34)

「灤家屯天長節祝宴」1894(明治27)
「グレーの森」1901(明治34)
「グレーの塔 」(1901 )
「橋のある風景 」明治20年ごろ 水彩
「木立」
「農家 」1894ころ 水彩

ほかに工芸デザイン など、余技とは言えぬ出来の作品を。
「魚(花瓶図案)」(1902-07)
「印刷デザイン」
「絵皿」
「当世風俗五十番歌合 」(漫画1905)
「農婦 」(1902-07 テラコッタ)

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浅井忠の水彩画ー 先駆者たち(2/2終) [絵]

世界の水彩画の歴史は、テンペラ類からみればおよそ600年、最初期の代表アルブレヒト・デューラー(1471ー1528)から数えても500年近くになる。

ひるがえって日本の水彩画の歴史は、安政六年(1859)チャールズ・ワーグマン(1831~1890)がロンドンニュースの記者として来日、英国水彩画を教えたのが始まりとすれば、およそ160年ほどである。長いようで、また短いといえば短い。
短期間に定着した背景には、同じように水で溶く日本画、水墨画があったからとか、特に風景画において日本の気候風土が水彩画に良く馴染んだとか、多くの人から指摘されているが、その通りであろう。

来年2014年は、浅井忠の生誕(1856)158年になる。没(1907)後でいえば107年。彼が日本の水彩画の草創期の重要なひとりであることは間違いない。

浅井が若くして工部美術学校で師事し、明治以降の洋画に大きな影響を与えたイタリアの画家アントニオ・フォンタネージの絵というのはどんな絵だったのだろうか。

「沼の落日」(1876-78年頃 油彩 39.5x61.0cm)や「十月、牧場の夕べ」 (1860 油彩 93.0×132.0cm)を見ると、以後は天然に学べと言って日本を去ったというだけあって、自然を写実的に描いておりながら、何か心に残る油彩画である。

浅井忠の水彩画は、「沢入駅」( 1884 M17)、「洋上の夕日 」(1902 M35)で見るように、若い時のものは線で縁取りし淡い水彩を施したものが多いが、留学中あるいは留学後のものは線描画ではない。油彩と同じような色彩画である。

太田治子著「夢さめみれば 日本近代洋画の父・浅井忠 」(朝日新聞出版社2012)の中に印象的な一節がある。
「明治41年、浅井の死の翌年に渡仏した20歳の梅原は、ルクサンブール美術館で数多い印象派の名作と出会う。しかし浅井ほどの淡くありながらしっかりした風味ある画家は他に見出しえなかったという。パリの梅原がひとしおなつかしく思ったのは、浅井の水彩画だった」

浅井忠が優れた教育者であったことはよく知られている。京都の聖護院洋画研究所には、多くの若い画生が浅井を慕って集まる。
浅井門下の画家の水彩画はどんなものだったのか。そして彼らはどのような水彩画の流れを創り出したのか。

浅井の教え子のうち安井曽太郎、梅原龍三郎は、後に安井・梅原時代を言われるまでに油彩画家として大成し洋画界の重鎮となる。
梅原 龍三郎は、1888年京都府京都市下京区生まれ。安井曽太郎とともに浅井忠の聖護院洋画研究所で学ぶ。画風は華やかな色と豪快なタッチが特徴とされ、自由奔放と評される。第二次世界大戦前から昭和の末期まで長年にわたって日本洋画界の重鎮として君臨し、1986年98歳の長寿を全うした。
かつて「私の梅原龍三郎」(高峰秀子1987潮出版社)を読んだことがある。画家が高峰秀子を可愛がり、何枚かの女優像を残していることを知った。
安井 曾太郎は、梅原と同じ年1888年に京都市中京区で生まれた。 梅原とは幼児の頃からのライバルで大正~昭和期を代表する洋画家。セザンヌに傾倒しながら、東西の絵のはざまで長いスランプに陥るが、それを脱し、「安井様式」と呼ばれる独特の肖像画を確立する。
1955年 73歳で没。

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二人に少数ながら水彩画がある。
梅原龍三郎 の「北京長安街」( 1941 s16 )は、エスキースと思われるが、代表作「北京秋天」(1942 s17)などを想起させる。
安井曾太郎 「松原氏像 」(水彩 クレヨン)。油彩の肖像画の名作「金蓉」(1934)、
「T先生の像(玉蟲先生像)」(1934)などいつ見てもため息が出るが、あの絵ができるまでには何枚もの習作、下絵(エスキース)が描かれるだろうと思う。これもそういった一枚か。しかし水彩画とみても完成度は高い。
「上高地」( 1936 s11 水彩)これも山を仰ぎ見るところが何とも言えず良い。
これらの水彩画を見ても浅井忠の直接の影響は見られないが、浅井忠の爽やかな水彩画が二人の油彩に大きな影響を与えたことは明らかである。
二人に限らず日本人が独自の日本的洋画を目指すと、明るく透明感のある水彩画的な洋画となるような気がする。脇道に逸れるが、黒田清輝の代表作湖畔などは好例であろう。

二人のほかにも、後に活躍した聖護院洋画研究所の門下生は多い。

まずは、明治から昭和にかけて版画家、美術評論家としても活躍した石井柏亭(1882-1958)の水彩画を2枚。「舟に居る人」(1913年 大正2水彩 36.5×26)、「裏磐梯の秋」(1952 昭和27 水彩 37×52.5)いずれも爽やかで明るい。ほかに「舞姫」(1953昭和28 水彩 49×32)などがあるがこちらは少し線描画風。

加藤源之助(1880-1946)は、同じく明治から昭和時代前期の洋画家。浅井忠の水彩画を最も良く継承したひとりと言われる。
「秋の山(大和・初瀬村)」(1908 M41)をみるとたしかに、線にこだわらず太い筆で色彩鮮やかに描いており、浅井の水彩画の流れをくむ絵だと思う。

浅井の風景画の流れといえば、水彩画家長谷川良雄(1884-1942 )がいる。「茶店」(水彩 1910)などをみると、出藍とまで行かなくとも師ゆずりだな、と思う。

加藤源之助の誘いにより、浅井に入門したという日本画家の芝 千秋(せんしゅう)(1878M10-1956S31)、小川千甕(せんよう )(1882-1971 )などがいて、良い水彩画をものしており、日本画の方の幅も広がったのではと思わせる。浅井も日本画を描いた。日本画家が、洋画排斥運動に苦労した浅井のもとに、洋画を学びに来たというのも面白い。

浅井門下には、水彩画家ではないがほかに染織家、図案家向井寛三郎(1889年-1958年)、画家、書家、随筆家で歌人でもあり良寛研究家としても知られた津田 青楓(1880年 - 1978年)などがいて多彩だ。

黒田清輝も、1893年に帰朝すると、美術教育者として活躍した。1894年久米桂一郎と共に洋画研究所天心道場を開設する。1896年には明治美術会から独立する形で白馬会を発足させ後進の教育に努力した。
浅井忠のように傑出した弟子が生まれていないが、のちの絵画界に与えた影響は大きかったと思う。
いずれにしても浅井、黒田ともに後進の教育につとめ、後々の美術界に大きな影響を与えた。二人が日本近代洋画の父と呼ばれるのは適切な評価であろう。
特に浅井忠の水彩画は水彩画家のみならず、油彩画家にとっても明治、大正、昭和を通じて影響を与えてきたと思う。
浅井は学生の教科書の水彩画を多く描いた。自分も知らずにそれを見て育ったに違いない。
最近でも、あらためて浅井忠の水彩を見てその素晴らしさに驚いたという人がいる。
彼の水彩画は、現代の水彩画にも通じるところがあるのだろう。それが何かは分からないのだが、分かればアマチュアの自分の水彩画の参考になるという気がする。

引き続いて自分の参考になりそうな、先駆者たちの絵を。アトランダムに。

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長谷川良雄「茶店」(水彩 1910)白の塗り残し、影のつけ方が上手い。
芝 千秋 題名、制作年が探せなかったが、木の枝が向こうに伸びているさまが良い。

浅井忠「グレーの橋 」(1902 水彩 28.4×43.5cm)代表作の一枚。
浅井忠 「 風景」漁村の海、山のぼかしがいい。
「 編みもの」(明治34油彩)浅井忠の油彩も一枚だけ。良い絵が多く、黒田清輝の油少しきつい彩とよく比較される。黒田の描く女性の眼は少しきついが好きである。こちらはあくまでも穏やか。風景画は浅井に、人物画は黒田に軍配か。

梅原龍三郎 「雲中天壇」(昭和14年 油彩)紫禁城など中国での画に傑作が多い。
梅原龍三郎 高峰秀子「私の梅原龍三郎」から。

津田青楓 漱石「道草」の装幀 。ほかに鈴木三重吉の本なども。

安井曽太郎「金蓉」(1934油彩96.5×74.5) モデルは上海総領事令嬢小田切峰子。金のように美しい蓉-山(峰)とは洒落た題名。
安井曽太郎 「熱海附近」( 1929 油彩 昭和4 53.0×65.2cm)あくまで明るい。水彩画風。

黒田清輝「湖畔」(1897 油彩 69×84.7cm)切手にもなり重要文化財でもある黒田清輝の代表作。モデルは芸者で、当時23歳の金子種子、のちに清輝の妻となる。湖は箱根芦ノ湖。
実物はしらず映像でみる絵は水彩画のよう。

大下藤次郎の水彩画 水彩画之栞とみづゑ [絵]

浅井 忠が京都で聖護院洋画研究所を開設したのは、明治36年、1903年であるが、東京では大下藤次郎がその2年前の1901年、本邦初といわれる水彩画の技法書「水彩画之栞」を刊行し、ベストセラーとなった。
これがきっかけとなり、明治後期に水彩画ブームが起きる。1907年、明治37年に勃発した日露戦争が終結した年、つまり1905年に大下藤次郎がおこした春鳥会(現・美術出版社)が創刊した美術雑誌「みづゑ」がその象徴的なものであろう。
この雑誌は後に総合美術誌となり、誌名、内容は変わり休、廃刊、復刊などもあったが大正、昭和、平成を生き2007年まで発刊された。専門誌としては、実に100年余の長命雑誌だ。ちなみに芸術新潮は1950年昭和25年創刊であり、まだ60年余の歴史しかない。

1905年明治38年 「みづゑ」第一号発行の辞(大下藤次郎)
「想ふに水彩畫の今日の勢を成せしは、かの隆替常なき、一の流行といふやうな淺薄なるものではなくて、確に社會の進歩に伴へる、即ち時代の要求であると思ひます。何故なれば、水彩畫は今や、單に娯樂としてのみでなく、實用上習得せねばならぬといふ要素を供へて居るからでありませう。されば私は今後の發達に向ふても、出來得る丈け力を盡して見たいと思ひます」

この時期、明治の後期になぜ水彩画がもてはやされたのか。一考の余地がありそうだ。実用上習得せねばーというところが気になる。絵も産業産業に役立たねばとした当時の空気、カメラがなお普及しておらず、従軍画家の戦争画や観光絵葉書などに水彩画が使われたこととも関係があるかも知れない。

大下 藤次郎(1870 - 1911)は、東京生まれ、浅井 忠(1856-1907 )より14歳年下であるが、活動の時期は重なっている。大下は41歳の若さで病没しているから、京都と東京と離れていたこともあって接触はなかったのだろうか。
大下は洋画家原田直次郎(1863-1899)が開いた本郷の画塾「鐘美舘」で伊藤快彦(よしひこ)、三宅克己(こっき)らとともに絵を学ぶ。
1892年アルフレッド パーソンズらの日本での水彩画展を見て、水彩に取り組みオーストラリアに旅行する。山岳をモチーフに多くの水彩画を描くとともに、上記技法書、美術誌を発行してその普及に努めた。日本の水彩画の草創期に重要な役割を果たした一人と言えよう。
また、山岳スケッチ旅行の紀行文を書くなど文筆家でもあった。
青空文庫に「白峰の麓」( 大下藤次郎 1910明治43「みづゑ」5月号)がある。読むとなかなか面白い。冒頭のみ引用してみる。
「小島烏水氏は甲斐の白峰を世に紹介した率先者である。私は雑誌「山岳」によって烏水氏の白峰に関する記述を見、その山の空と相咬む波状の輪廓、朝日をうけては紅に、夕日に映えてはオレンジに、かつ暮刻々その色を変えてゆく純潔なる高峰の雪を想うて、いつかはその峰に近づいて、その威厳ある形、その麗美なる色彩を、わが画幀に捉うべく、絶えず機会をうかがっていた。」
小島 烏水(1873年-1948年)は、横浜正金銀行定年退職。登山家、随筆家、 文芸批評家、浮世絵や西洋版画の収集家・研究家。

なお、大下藤次郎が師事した原田直次郎は、洋画の先駆者 、高橋由一の門下生でドイツに留学して絵を学んだ明治初期の洋画家(油彩)。代表作は「靴屋の親父 」「騎龍観音」など。
ドイツで親交があった森鴎外作「うたかたの記 」の主人公、画学生巨勢のモデルとしても知られる 。33歳の若さで病没している。
例により脇道に入るが、「森鴎外と原田直次郎ーミュンヘンに芽生えた友情の行方」( 新関公子 東京芸術大学出版会 2008)は、二人の交流と文学と美術相互に影響し合った事情などが書かれており、興味深い本である。一気に読了した。
早速青空文庫で「うたかたの記」を読んだが、ほかに「舞姫」、「文づかひ」にも原田らしき人物が登場するという。そのうち読んでみよう。

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まずは、大下の水彩画を。
「小石川 」(1896)明かるい絵。教科書に載りそうな。
「夏」(1899 水彩 50.0×71.5cm) 島根県立石見美術館所蔵
「秋の雲」( 1904 明治37水彩)島根県立石見美術館蔵 。空が広い。
「赤城山展望」(1905 明治38)(注)「みづゑ」第六 (1905 明治38)に掲載された絵。同号に「スケッチの説明」があり、当時の水彩画の技法が分かって面白いので末尾に転載させてもらった。
「穂高山の麓」 (1907明治40) 代表作のひとつ。緻密で絵葉書のように整っている。
「六月の穂高岳」(1907明治40 31.0×48.0㎝)。上に同じ。
「穂高山の残雪」(1907 明治40年?) 
「多摩川畔」(1907M40)静謐。明らかに赤城山展望の版画風と異なる。
「猪苗代 」(1907 M40)点描画風。

初期の「みづゑ」には、石井柏亭(浅井忠の門下生)、三宅克己、丸山 晩霞、三条千代子ら当時の画家たちが寄稿している。ウィンスローホーマーやターナーなど海外の水彩画が紹介されたりしていて、読むと当時の高揚した空気、水彩画ブームを感じることが出来る。

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ここでは、このうち三宅克己と丸山 晩霞の二人の絵を見てみよう。
三宅 克己(1874年 - 1954年 徳島市生まれ、80歳で没。)は、明治から昭和初期に活動し
た洋画家。 原田直次郎に師事する。大下より4歳下。
1897年渡米、1898年渡英し絵を学んで帰朝する。海外水彩武者修行のパイオニア。
「ニューヘヴンの雪」 (1898年明治31)東京藝術大学大学美術館所蔵。
「雨後のノートルダム」(1902年明治35 36.5×28.5cm)第7回白馬会展出品。
「白壁の家(ベルギー、ブリュージュ)」(1921 大正10 水彩67.3×105.0cm)代表作。

丸山 晩霞(1867年- 1942年)長野県出身、75歳歿。1907年大下藤次郎らと日本水彩画会研究所を設立。大下より3歳上。島崎藤村「水彩画家」の主人公にされ、小説モデル問題となる。実際には藤村自身が題材であったらしい。1900年渡米、1911年渡欧。日本山岳会会員。山岳、高山植物の絵を多く描いた。
「 春の川辺 」(1900 明治33年頃26.0 × 34.3 cm)絹に水彩。水彩の日本画化の試み。
「初夏の志賀高原」(1908 明治41)
「高原の秋草」(1902-1910年ころ)

大下の師、原田直次郎に水彩画はなさそう。油彩画を3枚。
「風景」(1886 油彩 74x104.5 )陽光がおだやか。いい絵だ。
「靴屋の親爺」(1886年頃 油彩 )重要文化財。
「騎龍観音」(1890年明治23 油彩 272.0×181.0㎝)重要文化財。洋画排斥の風潮に対抗した大作として知られる。

最後にふたたび大下藤次郎 の絵。
「赤城駒ケ嶽の紅葉」(「みづゑ」第六 1905 明治38年から)上掲赤城山展望と同じ時のものと思われるが、こちらは点描風でいろいろな描き方を試みたと見える。絵葉書風水彩から抜け出そうとしているかに見える。

思うに三宅克己の洋行は、明治後期の水彩画ブームを考えるとき重要な出来事だったのではないか。
三宅が成功すると吉田博、満谷国四郎、石川寅治、丸山晩霞、河合新蔵、中川八郎など多くの水彩画家たちが相次いでアメリカなどを経由して、ヨーロッパを廻るコースの研究写生旅行を敢行する。豪州に行った大下藤次郎もその一人である。
彼らは持ち帰った水彩画を、各地で展覧した。その水彩画とヨーロッパ風景が人々の人気を呼ぶ。水彩画が一般大衆に受け容れられる契機をつくったと言えよう。

浅井忠の門下生たちの活動が後々水彩画の定着、普及に寄与したように、大下藤次郎の「みづゑ」に集まり、水彩修行に海外に赴いた水彩画家たちの活躍は、日本の水彩画の発展におおいに貢献した。

油彩画と水彩画はともに明治初期の洋画排斥の嵐に巻き込まれたが、それぞれ跳ねのけて着実に発展する。水彩画は油彩より影が薄いことは否めないが、大正ロマン主義、そして昭和戦前へとそれなりに進化を続けたのである。

(注)「赤城山展望」スケッチの説明(「みづゑ」第六 1905 明治38年から。T.O生とあるが、大下藤次郎)
 圖は前橋の郊外よリ赤城山を見た處のスケッチである。時は十月十七日の午後二時頃で、大陽はよく照してゐた。中景は常磐木の森、前は一面の稻田で三脚を据へたのは街道の傍である。
 此スケツチは赤城行の紀念にといふ考であつたが、雲が面白かつたから地平線を低くして見た。初めにざつと輪廓をとり、さて向つて右の方山の上にある白い雲が、淡く赤黄色に見え、全體に稍暖かな調子があつたから、ウェルミリオンとヱローオークルを混せて薄く金紙を塗つた。次に雲の陰を描いた「パレットの上でいろいろの繪具が混つたが、大體はライトレツドにコバルトである。夫から白く輝いた處だけを殘して空を着色した。上部はコバルトを重とし、山に近くは美しい色が見えたから。プルシアンブルーを使ひ、下の方には少しのレモンヱローを加へた。山はライトレツドにホワイトを混ぜたものを一面に塗て、生乾きのうちに同じくホワイトにコバルトインヂゴー等を適宜に交ぜて陰の暗い處を作つた。此時山全體は不透明であつた。麓から下は全部カドミユーム、オレンヂの稍濃いのを塗て置て、中景の森はインヂゴーにヱローオークルを交へて日光を受けし部分の色を出し、それで陰の部迄も描いて、後に暗い陰の空氣の色のよく見える處ヘオルトラマリーンを其儘つけた。稻は前に塗たカドミュームオレンヂの上へ遠くはレモンヱロー、近くはエローオークル、極めて明るい處はネプルスヱローを以て描いた。夫から前に森を描た殘りの繪具で、田の境界の暗く見ゆる部分に二三の線を施して、初めより四十分間に此スケッチを終つたのである。
 紙はワツトマンの九ツ切。筆は九號の羽根軸をウオツシに用ひ他は多くニユートン製の油繪筆一號と五號とを交々も用ゐた。挿入の圖は原畫通りにはゆかぬが、趣は分ると思ふ。空はもつと透明な藍色で、森の光部も穏かな緑であリ、輪廓もあのやうに硬くはない。
 カドミユームオレンヂは、他の黄で作つた赤味の少ない橙黄色で代用が出來る。
 

坂本繁二郎と青木 繁の水彩画 [絵]

坂本 繁二郎( はんじろう1882- 1969 )は、明治後期から昭和の前半まで活躍した洋画家である。代表作は「水より上がる馬」「帽子を持てる女」 など。淡い色調でありながら力強い画風で知られる。
坂本は1902年満20歳の時、同級生の青木繁とともに上京して、小山正太郎の「不同舎」に入って絵を学んだ。
青木繁とは、同じ久留米の出身で、生年も同じことから、比較されることが多い。文学青年で浪漫派で早世した青木、かたや87歳の長寿を全うした坂本には学者肌のところがあり、優れた美術論をいくつも著していて、二人は対照的である。

1921年(大正10)3年間渡仏、シャルル ゲランに師事。1912年頃から牛の絵を描き始め、この頃から坂本繁二郎の独特な画風が創られる。50歳ごろから馬(これが最も有名で、ときに「馬の画家」と呼ばれる)、晩年80歳を過ぎて月を好んで題材にした。能面や身の回りのものをモチーフにした静物画も多く残されている。終生九州八女のアトリエで画作、東京には出ていない。

坂本繁二郎には水彩画が多い。しかもエスキースではない、タブローと思われる良い絵が沢山ある。坂本の油彩画も極めて淡いので、画像で一見すると水彩画に見えるのも多い。画集や図録を持っているわけでもないので、見間違いかねないと危惧するほどだ。

制作年や題名が調べ切れていないが、まずはその水彩画から。



「白馬 」(1927 S2)
「母仔馬」
「松林白馬」(水彩) 17.6×23.3cm
「牛馬市 」(水彩)
「月」(1964 水彩)晩年には月を油彩、水彩で多く描いている。この水彩は習作のように見えるが、早い筆致と透明感が月明かりによくマッチしている。

ぼかしで背景から浮き上がるような、逆に沈んでいるような馬の絵の描き方などは、自分にも大変参考になるように思える。どんな技法なのだろうか。

青木 繁( しげる 1882- 1911 )は、代表作「海の幸」で有名な明治期の洋画家である。結核により28歳で夭折。奔放なタッチで独自の画風は、高い評価を受け今でも人気がある。
別れてしまうが、福田たねとの恋も広く知られる。たねとの間に生まれた息子は、我らが世代では懐かしい笛吹き童子の作曲で名高い福田蘭童(尺八奏者) 。その孫がクレージーキャッツ の石橋エータロー氏であることもよく知られている。
短い生涯で作品数も少なく、「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」などの傑作があまりにも有名で、そのかげに隠れているが、初期 の作品の中などに幾枚かの水彩画がある。「わだつみのいろこの宮」の水彩(水彩と確たる自信がないが)下絵もあるから水彩も巧みだったと見える。

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「ランプ」(1901年頃 水彩 )川村美術館蔵。
青木19歳頃の作品。不同社に入る前に描いたものか。
静物画は、特に描く人の人柄を表すというが、この絵には、技術的に高度ながら、素直に心に訴えるものがある。特に背景の色面の美しさは、右側の暗紫色と左側の赤と緑のバランスがとれていて、主役のランプを引き立てている。ランプ中央の緑が左の背景の緑と呼応して目を引く。
卓上のランプが3冊の本の上に置かれている様子が描かれているだけだが、水彩の透明感でガラスの質感もよく捉え、青木繁が当時相当の水彩技術を持っていたかを示している。

「落葉径」(1902明治35 鉛筆淡彩)

「黄泉比良坂」 (よもつひらさか Escape from the Land of the Dead) (1903 明治36色鉛筆/パステル/水彩 )
黄泉比良坂は、日本神話におけるこの世とあの世をつなぐ道のことである。そこで変わり果てた妻イザナミの姿を目撃したイザナギが、黄泉の国から逃げ帰る場面であろう。題材にふさわしい暗い絵だ。上部が少し光があるのが効果的。どこに色鉛筆とパステルを使っているのか判然としない。
裏面に「花園に立つ女」があり、これも水彩。習作だろうか。

「竪琴をもてる女(1904 水彩)

「絵はがき」(1904 明37水彩 9.0×13.9cm)

「錦絵 」(1905 明治38 水彩、金箔)32.7 x 24.5 cm
青木には水彩で描いた浮世絵風の作品がいくつか知られているが、これらは生活の糧として外国人向けに描かれたものではないかとされている。背景は金箔、鎧櫃の前で着物姿の女性が袂を噛み泣いている場面を描いた錦絵風である。「出雲朱比古C」という署名で本名を隠したのは、画家としてのプライドが許さなかったのではと推定されている。。

「狂女」(1906明治39 水彩 )29.1×15.5  石橋美術館 所蔵
1905年末から06年秋頃まで続いた、久留米帰省中に描かれたと推定されている。
この時は恋人の福田たねと生まれたばかりの子供を栃木に残しての帰省であり、辛い状況が、幻影を生み出したのではないかとされる。
右手を挙げ、眼を見開き口をあけて立つ裸体の女性を描いているが、何かを描こうとした下絵のようにも見える。女性の異様な表情、姿態とやや冷たい青白い色調が観るものを引き付けずにおかない。このあと青木は困窮と病苦を抱え、佐賀などを放浪し始める。

「無題」(水彩・素描)
「天平婦人」 (水彩 )22.5×14.1cm

最後に二人の代表作(油彩)を並べて、上掲の水彩画をあらためて見直して見た。



坂本繁二郎の代表作(油彩)は4枚。
「帽子を持てる女 」(1923 油彩)渡仏中の作品。単純化、デフォルメされているが、まさに坂本の色調。
「放牧三馬 」(1932 S7 油彩)静かな絵。
「水より上がる馬」(1937 S12 油彩)絵に動きと勢いがある。
「八女の月」(1969 S44油彩41.5×32cm)最晩年、亡くなった年の作品。

青木繁の代表作を3枚。
「海の幸 」(1904 油彩)一人だけこちらを向いている人物が福田たねだろうとされている。異様に白い顔でいやでも眼を惹く。
「女の顔 」(1904 油彩)青木にとっての「ファム・ファタール 」運命の女 -福田たねがモデル。
「わだつみのいろこの宮 」(1907 油彩)習作の水彩画は、本作品と髪の毛の長さなど少し違う。漱石が「それから」で次のように絵を褒めた。背の高い女というのはこの女性ではなく左に立つ方であろう。
「いつかの展覧会に青木と云う人が海の底に立っている脊の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った。つまり、自分もああ云う沈んだ落ち付いた情調に居りたかったからである」夏目漱石「それから」

青木の3倍も生きた坂本の絵は、やはり落ち着いている。並べて見ると、それがかえって若い時に絶頂期を迎えてしまった青木の荒っぽさのある絵の迫力を一層強くする。

坂本の水彩と油彩は、その距離があまり無いようにも見える。青木の水彩は油彩と違う。あくまで習作、素描か。「ランプ」で示した水彩の良さを追求していたら、どんな水彩画を描いただろうかと想像したりしてみる。

オスカー ・ココシュカの水彩画(1/2) [絵]

ある水彩画家のサイトを見ていたら、オスカー・ココシュカの花の水彩画が素晴らしいとあって吃驚した。以前「風の花嫁」に惹かれて、水彩画を描いていないかとネットの画集で探したことがあった。何枚かあったが習作のようなものばかりで殆ど無い、と決めつけていたのである。
しかし、あらためて探してみると、なるほど花の絵を中心に沢山あって我が検索力の脆弱さを思い知らされることになる。プロといえ水彩画家は、さすが凄いと脱帽した。

しかし、ココシュカの水彩画は彼の強烈な油彩画とは全く違うので、二度びっくり。これが同一人物の絵とはとても信じられないくらいだ。画材の違いだけでは、到底説明出来ない。なぜこうも違うのか説明してくれる人が欲しいものである。水彩は中年期以降の高齢になってからのものが多いようだが、若い時(35歳くらい)にも描いたことは、それを原画にしてのちにリトグラフなどエスタンプが作られていることで分かる。ちなみに代表作の油彩「風の花嫁」は、28歳の時の作品である。

オスカー・ココシュカ(Oskar Kokoschka, 1886- 1980 )は、20世紀のオーストリアの画家。エゴン・シーレ(Egon Schiele、1890- 1918 )と同じくクリムト(Gustav Klimt, 1862 - 1918 56歳 )に見出された。シーレの4歳上だが28歳で夭折したシーレと対照的に長寿で94歳まで生きた。
ただ、自分にはシーレとココシュカの絵は、特に人物の肌の色、眼などどこか似ているように見える。「時代」のなせるわざか、交流があったのかは知らない。

関連記事 クリムトとシーレの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-04-30

ココシュカはドイツ表現主義に分類されることが多いが、画家自身は、「青騎士」、「ブリュッケ」などのグループには参加せず、当時の芸術運動からも距離を置いて終始独自の道を歩んだと言われる。

ところで、ココシュカの絵も、生き方も作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860- 1911)の未亡人、アルマ・マーラーとの恋を抜きに語られることは無い。

交響曲「巨人」、「復活」などを作曲したグスタフ・マーラーは1911年に51歳で亡くなったが、2年後の1913年にココシュカは未亡人アルマとともにイタリアへ旅行している。結婚こそしなかったが、ココシュカは生涯アルマを思い続ける。
ココシュカのもっとも有名な作品の一つである「風の花嫁」(1914 油彩)は、アルマとともにいる画家自身を描いたものであることはよく知られている。

アルマ・マリア・マーラーーヴェルフェル(Alma Maria Mahler-Werfel, 1879 – 1964 )は、1902年グスタフ・マーラー(42歳)と 23歳で結婚(2人とも初婚)したが、1911年マーラーと死別する。アルマ32歳。そしてすぐに、7歳年下のココシュカと激しい恋に落ちた。
建築家ワルター・グロピウスとは、マーラーの死後3年の1515年に結婚、1929年には11歳年下の小説家フランツ・ ウェルフェルと結婚(アルマ49歳)しており「4大芸術の未亡人」とも呼ばれている。この中でココシュカだけがアルマと結婚していない。
瑣末ながら、アルマの名前にマーラー、ウェルフェルが付いているのにグロピウスがないのは何故なのだろう。単純ミスか。ココシュカは結婚してないから無いのが当たり前だが。余計な心配か。
17歳の時のクリムト(35歳)との恋に始まったまことに豪華な愛の遍歴は、ミューズ、ファム・ファタールなどというなまなかのものではない。彼女自身作曲家でもあったというが、中年になっても、こうも男が夢中になるのはいったい何を彼女は持っていたのかと訝る。
彼女は85歳で没したが、生前アルマはこんなセリフを残しているという。
「(グスタフ)マーラーの音楽は好きになれず、(ワルター)グロピウスの建築は理解できず、(フランツ)ウェルフェルの小説には興味もなかったけれど、(オスカー)ココシュカ……。ああ、彼の絵にはいつも感動させられたわ」(高橋容子氏「アルマ・マーラー」)

閑話休題。ココシュカの水彩画を理解するためには、どうすれば良いのか。わからないがまず若い時の水彩画を探して見た。

なお、オスカー・ココシュカの没年は1980年。絵の著作権は消滅していない。

「母と子」制作年不明。若い時のものだろうと決めつけたが、根拠なし。

「ギタ・ウァレルスタインの肖像 」
写真製版のエスタンプ。この作品の原画は1921年(35歳)制作の水彩画だという。この原画を忠実に復刻して1986年(没後6年)に作られたもの。
(エスタンプとはアーティストが版画にすることを意図しないで制作された作品を原画とし、 作者または遺族の了解を得て、版画の技法で第三者が制作したもののことをいう。)

「Girl with a Yellow Headband 黄色のヘアバンドの少女 」pencilとあるだけだが、水彩と思われる。これも制作年不明。

「Kürbis.南瓜 」(1944 Lithograph in colors)(Farblithografie色のリトグラフ) 1944年は58歳の時だが、原画の制作年なのか、リトグラフにした年かは不明。

「Mädchen mit Katze. 猫と少女 」(1975 Farblithografie色のリトグラフ)Nach dem gleichnamigen Aquarell von 1945 とあるので、原画の水彩画は59歳の時に描かれたもの。

「Various Flowers様々な花 」(1939-40. Watercolour on paper )53ー54歳のもの。
いずれにしても、見つかった水彩画は35歳のものが一番若く、あとは中年期以降ではないかと推定される。

これにたいして、ココシュカは若くして独特な油彩画の傑作を世に送り出している。よく知られたこの代表作の2枚も26、8歳のもの。アルマ・マーラー( 写真)との恋が描かせたことは疑いないであろう。
「 Alma Mahler, アルマ マーラー」(1912 油彩)構図、微笑みともまるでモナ リザだ。
「Bride of the Wind,風の花嫁 」(1914 油彩)「風のー」というより「嵐のー」と訳した方がふさわしいほど激しい絵。アルマと別れてから何度か塗り直し、暗くなっているという。

ココシュカニは肖像画にも高い評価の絵があるが、風景画にも傑作が多い。版画もある。

さらに次回(2/2)で水彩画を並べて見ることにする。

オスカー・ココシュカの水彩画(2/2終) [絵]

ココシュカは、若い時も水彩を描いたが、何かの理由で高齢になって特に花の絵を水彩で描くようになったのではないかという仮説を立て、以下何枚かの絵を見る。参考までに制作年の分かっているものには画家の年齢を付した。

なお、オスカー・ココシュカの水彩画とくに花の絵はネットで探すのも大変だ。何とか探してPCにファイルしたものの、ネットで幾つか確認したいことがあって再度見ようとしたらどうしても検索出来ない。油彩は容易に見ることができるのだが。

まず、若い時に描いた「横たわる裸婦 」(1922 水彩52×70cm)。ココシュカ36歳の時の水彩画。前回「オスカー・ココシュカの水彩画」(2/1)に掲げた「ギタ・ウァレルスタインの肖像」 が描かれた翌年のもの。後に描いた花の絵とは、まるでタッチが異なり油彩のタッチのようにも見える。
この水彩画のヌードは、プロの批評家によれば、次のような見方になる。
「伝統的な人体表現から途方もなく逸脱している。薄い水彩をたっぷり含ませた筆で、一気に仕上げられている。人体はかろうじてそれとわかる程度に示されているに過ぎないが、そのおおまかなモデリングはある種の官能性を感じさせる」
ミッシェル・クラーク著「水彩画の技法」( 荒川裕子訳 同朋社出版 1994ビジュアル美術館 第7巻)
(にわか勉強だが、モデリングとは明暗法や色面調整法等によって、2次元の平面に事物の立体性を表現すること。明暗法とは、光と影の効果により平面のフォルムに立体性を与えることである。簡単に言えば「形の描き起こし」。これに対しグレージングは色の重ね塗りのこととか。)
ついでながらミッシェル・クラークの「水彩画の技法」は、単なる技法書でなく水彩画の歴史書とも言うべき好著だ。

「Self-portrait (Fiesole)自画像 」(1948 油彩 )62歳 。 後掲の82歳の時の水彩自画像と比べると構図やタッチなどは似ているものの絵の雰囲気はかなり違う。

「Pomegranate and Praying Mantis, ざくろとカマキリ」(1948 watercolor and gouache on board ) 62歳。水彩とグワッシュだが、紙でなく板に描かれカラー用紙のような効果を出している。

「 Gelbe und violette Iris. 黄色と紫のアイリス」( 1960 )74歳 。優しい絵。日本画のよう。
「Urvater der Fische. 魚の先祖」(1961 )75歳 。水彩ではないが、珍しいので。左ひらめのようだが、Urvaterは先祖と訳して良いのか。

「Lilien und Rittersporn.ユリとラークスパー」(1967)81歳。ラークスパーは、千鳥草とかディルフィニウム(飛燕草)とか訳す。

「Selbstporträt. 自画像」(1976 Nach dem gleichnamigen Aquarell von 1968)82歳 。同じ水彩画のあとにーと、あるのでエスタンプ。
「Herbstblumen. 秋の花 」(1968 )82歳。

「Sommerblumen mit Rosen. バラと夏の花 」(1969 ) 83歳。


絵は「メイソン瓶の百日草」の模写。とても実物(画像)の素晴らしさには及ばないが。勉強にはなる。

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「Schwertlilien mit Rosen.バラとヒゲを生やしたアイリス」( 1969 )83歳。

「Sommerblumenstrauss mit Mannstreu. ヒイラギと夏の花の花束」(1969)83歳 。Offset lithograph in colors.オフセット版 色のリトグラフ。

「Delphinium. ディルフィニウム飛燕草 」(1974 )88歳。
「Sommerblumen im Glaskrug. ガラス水差しの夏の花 」(1975 )89歳。
「Genfer See Landschaft. ジュネーブ湖の田舎 」(1976 )90歳。珍しく風景画。油彩にも似たものがあるが、エスキースか。あるいは手すさびに油彩を見て水彩画にしたのか。
「Apfelblütenzweig. リンゴの花の枝 」(1976 )90歳。
「Blühender Apfelbaum 花咲くリンゴの木」風景画風。
「Zinnias in Mason Jarメイソン瓶の百日草」
「花 」(1967 )81歳。
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「花 」 題名、制作年不詳。ラークスパーか?。宝石ラピス・ラズリ(瑠璃)を彷彿させる鮮やかな紺色が綺麗。ウルトラマリンか。
「Tulips チューリップ 」(1958)72歳。一気に描いたという感じ。誰にでも描けそうで誰にも描けない絵。
「花 」(1967 )81歳
「Flower Piece - Roses II」 、 「 花」この2枚は鉢植えのバラのようだが、題名、制作年とも不明。バックが塗られているのが他の絵と異なる。ココシュカの花の水彩画は背景に色をつけていないものが多い。

「A Girl with Flowers 花を持った少女」(油彩)制作年不詳。少女の持った花に着目したが、水彩の花とは別もの。
「Autumn Flowers,秋の花 」(1928 油彩)42歳。花の水彩画と比べようと、花の油彩画を探したがこの一枚しか見つからなかった。前掲の「Herbstblumen. 秋の花 」(1968 )82歳の絵と比較してみると暗い。

ココシュカは、40歳の頃に動物シリーズを描いている。色も筆致も過激だ。
「The Tigon ティゴン 」(1926 油彩 )40歳。Tigonは虎とライオンの合いの子。
「マンドリル 」(1926 油彩 ) 動物園でスケッチしたものだが、背景はジャングル。40歳。
水彩画と比べるため何枚かの油彩も掲げたが 、残念ながら、何かが分かったということはない。

ココシュカはアルマと別れた後彼女の等身大の人形を作り、観劇など外出にも持ち運んでいたというが、ついにその首を切りアルマへの想いを断ち切ったとみられるのが1922年、36歳の時だ。
しかし、その後も彼女のことを想い続けていたことは、1949年、NYに移住したアルマ70歳の誕生日に63歳のココシュカは次のようなラブレター(電報)を届けたというエピソードで明らかである。
「愛しいアルマ。僕たちは『風の花嫁』の中で永遠に結ばれているのです」まさに「老いらくの恋」ー片想いだが。

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63歳といえば上掲の油彩の自画像が描かれた翌年。油彩もこの時期描いてはいるが、その後70代、80代になると花などの水彩画が多くなるように見える。
アルマとの恋が終わり、気力、体力も衰え枯れてきて油彩から水彩になったのかと思ったが、どうやらそう単純でもなさそうだ。
しかし根拠は無いが、ココシュカが過激とまで言われた油彩画から穏やかな水彩画を描くようになったのは、やはり高齢化と関係がありそうだ。老いらくの恋のように内に秘めた想いは強いのかもしれないが、うわべは淡白になりプラトニックLoveのような静かな水彩画を好んで描くようになったのではないか。
ココシュカの花の水彩画をそう見るのは穿ち過ぎか。
色が綺麗で線も軽い。少なくとも、「過激」とはほど遠く花の美しさだけを現そうと描いている。
自分は真正の年寄りだが、こんな絵は幾つになっても描くのは無理。天賦の才に加え、若い時の「激烈」を超え しかも内に熱いものを持ってはじめてこの域に達するのであろうか。

無断引用で心苦しいが、(一人でも多くココシュカの水彩画の良さを知って貰えるのではないかと勝手に決めてご寛恕願うことにして)冒頭の水彩画家の褒め言葉を紹介させて頂く。
ちなみにこの水彩画家もココシュカの画風とは異なるが、素晴らしい花の絵も描かれる方で圧倒的な人気がある現代作家である。

「花の水彩とか、物凄くいいのです。花のがわに立って花が息をしてるかのような筆使い。もっと褒めれば、画用紙の中で咲いたかのような花」とおっしゃる。絵の見方も第一級とみた。

マーラーの交響曲2番「復活」(1884-90)は好きなのでZENにもWalkman 、iPadにも入れていて時折聴く。この曲はマーラーがアルマと会う前の作品だが、これからは聴きながらアルマやココシュカの水彩画を思い出してしまいそうだ。


バルトルト・ヨンキントの水彩画 [絵]

ヨハン・バルトルト・ヨンキント(Johan Barthold Jongkind, 1819- 1891)は、オランダの画家、版画家。印象派を代表するクロード・モネに影響を及ぼした印象主義の先駆者とされる。
1862年頃にウジューネ・ブーダンを通じてクロード・モネと出会い、戸外での風景画制作について直接指導を行なったとされ、モネはヨンキントを「師匠」と呼んだという。
ブーダン、モネ、ヨンキントにはそれぞれ「空の王者」、「光の画家」、「夜の画家」なる別称があるのが面白い。
ヨンキントは青年期に学んだ的確なデッサン力や構図法、ハーグ派などのオランダ風景画の伝統に、外光を巧みに取り入れた明るい色調と大胆なタッチを併せて、独自の緻密さをもった作風を作りだした。乱れのない、落ち着いた画風が特徴である。
油彩には月明かりの夜の風景画があることから、「夜の画家」と呼ばれる。夜の水彩画もあるかと探したが見つからなかった。油彩ならともかく、プロでも水彩の夜景は難しいのか。

1863年以降に制作されたヨンキントの一連の作品を評して、のちに理論家のポール・シニャックは「この世で最も素晴らしい水彩」と述べたという。ミッシェル・クラーク著「水彩画の技法」( 荒川裕子訳 同朋社出版 1994ビジュアル美術館 第7巻)。

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また、詩人シャルル・ボードレール(1821-67「悪の華、パリの憂鬱」)や自然主義文学のエミール・ゾラ(1840-1902「居酒屋、ナナ」)からも称賛を浴びたが、アルコール依存症とうつ病に悩み、移住したフランス イゼール県 ラ・コート=サン=タンドレで死去した。72歳。

シニャックのいうこの世で最も素晴らしいという、1863年(43歳)から没年1891年(72歳)までのヨンキントの水彩画を、(ほぼ)制作年順に並べた。

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「The Banks of the Isere イゼールの堤」(1863 水彩)
「Honfleur ,Market Place オンフルール 市場 」(1864 水彩 グラファイト )オンフルールは仏ノルマンディー 。ウジューネ・ブーダンの生地。絵の大きさは不明。
「The Church of Saint-Catherine ,Honfleur サンーカトリーヌ教会、オンフルール」(1864 水彩)36×43cm。
「View of Clamart クラマールの眺め」(1864 水彩)クラマール (Clamart)は、仏、イル=ド=フランス地域圏。

「The Market Place at Saint-Catherine ,Honfleur サンカトリーヌの市場、オンフルール 」(1865 油彩)42×66cm。1864年に描いた2枚と同じ市場を1年後に油彩で描いているので並べた。
「The Quai de Bercy ケ・ド・ベルシー 」(1865水彩 黒チョーク)
「A Landing Stage on the Escaut エスコーの船着場」(1866 水彩)
「A Canal in The Hague ハーグの運河」(1868 水彩)
「 The Diligence from Grenoble to Sassenage グルノーブルからデューデリジェンス」(1875 水彩)
「The River Isere at Grenoble グルノーブルのイゼール川」(1877 水彩)
「Autoportrait sous le soleil 太陽の下の自画像」制作年不明。野外スケッチのいでたちが面白い。

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「The St.Andre Coast,Isere サンタンドレ海岸 、イゼール 」(1880 水彩とグヮッシュ)
「A Cherry Tree 桜の木 」(1881 水彩 チャコール クレヨン)
「The Village 村」(1883 水彩 チャコール グレイペーパー)
「Hitch of Bulls on the Road 道路に繋がれた牛 」(1889 水彩 グヮッシュ チャコール)
「コートサンタンドレ近くの風景 」(1880 水彩 ボディカラー 黒チョーク)
「Peasants Returning to the Farm 農場から帰る農夫」(1891水彩)
「Port Vendres ベンダー 港 」(Date Unknown 水彩)
「View of Faubourg Saint-Jacques フォーブール サンジャックの眺め」(Date Unknown 水彩)
「Canal in the Moonlight 月光の運河」(1868 油彩)夜の画家の傑作を一枚だけ。

ヨンキントの絵を見ると、風景にしてもピタリと四角の中におさまり、乱調でなくまさしく階調の美。とても酔いどれで、かつ神経症を病んだ画家とは思えない。
水彩画にしても、高年になるほど少し濃くなるようにも見えるが、大きな変化もなく破綻のない仕上がり。アマチュアの自分にもおおいに参考になる。

参考までにあと何枚か。制作年、原題不明につき題名など不正確ながら。

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「ロッテルダムのミル」
「手にバスケットを持つ二人の女性」
「崖とエトルタのビーチの眺め」
「タンバリンダンサー」
「ビーチ」
「漁船」
「ウルク川の運河」
「セーヌ川の河口にあるツリー」(1864)
「コー​​ト=サンタンドレ勤勉」
「運河のはしけ」
「Overschie専用オランドの村」


ジョン・セル・コットマンの水彩画 [絵]

ジョン・セル・コットマン(John Sell Cotman、1782 - 1842 )は、イギリスの水彩画家で19世紀初頭に活躍したイギリスのノリッジ派の一人である。
ノリッジ派とは1803年絵画,建築,彫刻の進歩向上をはかることを目的として東部(ノーフォーク)のノリッジ美術家協会に集まった芸術家たちの一派。
コットマンは、ターナーやコンスタンブルなどとともにイギリスロマン主義を代表する画家の一人。ロマン主義は従来の古典主義が様式の美を重視したのに対し、人間の内面や情熱を前面に押し出す作風を特色とする。

ジョン・セル・コットマンはターナー(1775-1851)より7歳下だが、ターナーより先に亡くなっている。
少年の頃から絵が好きだったコットマンは16歳の時にロンドンに出て絵を学んだ。数年年長のガーティン(1775‐1802 27歳で夭折したターナーのライバル )とも交友があったようで、初期の絵にはガーティンの影響が見られるという。
画家として成功し、ロンドン大学キングズカレッジの教授(美術)になるが、晩年には持病の鬱病が悪化し、絵も暗くなり、誰にも注目されることなく、60歳を前に亡くなる。
しかし、20世紀に再び評価され、一時はターナーをしのぐほどの名声を得る。

コットマンの水彩技法は、コントラストの強調により明るい対象を際立たせる手法である。
代表作「グレタ橋」にも見られるように、コットマンは明るい部分の周囲を暗く塗ることによって、主題となる対象を浮かび上がらせるー今でいえばネガティブペインティングーに特色がある。

日本のマルマンとイギリスのウィンザーニュートンの「コットマン」水彩紙はこの画家名からきているので水彩を描く人にはお馴染みの名前だが、紙に付けられた詳しい由来は知らない。自分はまだこの紙を使ったことがない。

コットマンの絵を制作年、正確な原題、マテリアルが不詳なのでアトランダムに並べた。
絵をじっくり見て、何か一つでも参考になるものがないか探そうと思う。

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「グレタ橋」(1806)代表作。
「ドロップゲート」(1806)31歳の作品。エッジを暗く塗ることによって、主題となる柵の部分の一本一本をくっきりと浮かび上がらせる。ネガティブペインティングである。
「スクリーン ノリッジ大聖堂」画面の下から上に行くにしたがって明るくなる。
「滝」右下に落ちる滝が印象的。構図が独特。
「ドロップゲート」1806年のものと同じ場所か。油彩のように重い。水彩であれば木などに何かメディウムを入れたか。
「セント·ベネットの修道院」風車であって修道院に見えない。
「廃屋」グレタ橋の色調ながら、点景に人物が描かれて雰囲気が変わっている。

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「夕方 ダンカムパーク」池面に映る小さな空が、光を良く捉えている。
「株式の上昇」カリカチュア風で、風景画家としては珍しい。風刺画か。
「ロケビーグスト公園内」アマチュアにも参考になる描き方だ。
「高山峡谷にかかる橋を渡る旅行」ターナーの「The Devil's Bridge 悪魔の橋、サン・ゴッタルト峠(1802 油彩)と同じ題材。当時の画家が好んで描いたのだろうか。水彩ではないが面白かったので。
「合唱団の北通路のノリッジ大聖堂内部」
「教会内部のスケッチ」上掲と同じモチーフだが極端に違う。こちらは抽象的ですらある。
「水道橋」代表作「グレタ橋」の手法。
「ビショップの庭で」 絵の具に何かを入れたようだ。コットマンは後年になってメディウムにライスペーストを用いることによって、油彩画のような効果を得ようとした。しかし、その結果水彩画の長所である透明性を失ってしまったといわれる。その典型例のように見える。
「ウォルシンガム修道院で食堂」これもネガティヴペインティング。後ろの暗い森が建物を浮かび上がらせている。
「ミセスジョン売るコットマン」この題名では、肖像がミセスジョンなのかコットマンなのか分からぬ。多分前者だろうと想像するが。

カルロス・シュワーべの水彩画 [絵]

カルロス・シュワーべ(Carlos Schwabe 1866-1927 )は、ドイツ北部アルトナ生れ。 画家としての活動拠点はフランスに置き、仏イル・ド・フランスで没した。61歳。
幼くしてスイス・ジュネーヴに移り住み、美術学校に入学する。ジョゼフ・ミッティに師事してバルビゾン派の自然主義に影響を受けた絵を描く。
 1890年、パリに出て壁紙図案の仕事をするかたわら、ロマン主義に傾倒する。アルフレッド・デューラーに憧れて緻密な細部表現を身につけ、ラファエロ前派のように神話や寓意を主題にし、華麗で幻想的な作風の象徴主義絵画を描くようになる。
画風こそ異なるがギュスターブ・モロー(1826-98)を彷彿させる神秘的な絵を描いた。 1900年、 ボードレール「悪の華」に挿画を描く。ほかにもモーリス・メーテルリンク、ステファン・マラルメの詩に挿画を描く。水彩画のほか銅版画や木版画、石版画も手がける。

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「The Virgin of the Lilies 百合の聖母」(1899水彩 97cm×47cm) 国立ヴァン・ゴッホ美術館蔵(オランダ)
代表作。中世の宗教画に似ているが、むろん明らかに異なる。シュワーべの独創性が掛け軸のような縦長の構図、逆光と影の扱い、東洋的な雲の描写、アールヌーボー的な枠組み、螺旋階段の手摺のような百合の装飾的な配列など随所に見られる。おのずと主役の聖母子に目がいく仕掛けが施されているようだ。ジャポニズムの影響を強く受けているとされる。

「マダムX」で有名なジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)に油彩画であるが「カーネーション、リリー、リリー、ローズ(1885-87年 テート・ギャラリー蔵)」と題名もちょっと変わった絵がある。
当時日本から輸出されていた盆提灯がいくつも描かれ、咲いているユリは日本から球根が輸出されていたヤマユリ。当時のヨーロッパ画壇を席巻していたジャポニスムの影響がうかがわれる絵だが、ふとこれを想い起した。

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他に似たような聖母の絵2枚。
「La vierge aux lys 百合の聖母」

「La Vierge aux colombes 鳩と聖母」 (1895)

「死と墓掘り人 (1)、(2)」
これも有名な絵。一枚は墓堀人がいない。死んだのは誰か。枝垂れ柳と天使の翼の線が流れるようだ。どんな筆を使ったのだろうか。天使の首と右の手のひらについている緑の明かり?が意味ありげ。一度見たら忘れられない謎めいている絵である。

「題名不詳(ポルトガル語 - 脾臓Etは理想、とあるけれど意味不明)」波が北斎の絵のようだ。海底にはドラゴンの尾らしきもの。

「PorträtデアTochter」普通の肖像画のように見えるが。

「エリージャン·フィールズ」構図といい、人物の衣装といい不思議な絵だ。題名も意味が解らない。

カルロス・シュワーベの絵は、モローの絵もそうだが、とてもアマチュアの参考にならない。テーマも解りにくいが、表現法も特殊な技法が使われているのだろう。しかもそれを身につけるのは相当の熟練を要するかに見える。
彼らの想念から生まれた現実にはなさそうな不思議な対象も、写実の積み重ねがあって、形を変えて幻想的に出来上がっていくのだろうが、その過程を追うことは不可能だ。
それにしても、こんな表現が出来る水彩絵の具とは、まことに不思議なマテリアルだとつくづく思う。

萬 鐵五郎の水彩画 [絵]

萬 鐵五郎(よろず てつごろう1885- 1927)は大正~昭和初期の画家。
岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)出身。結核で茅ヶ崎市にて42歳で亡くなった。

明治40年(1907年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。明治45年(1912年)、岸田劉生や高村光太郎らの結成した美術家集団 フュウザン会に参加している。フュウザン(仏fusain)とpは木炭の意味。バーナードリーチなども参加しているが、萬、岸田の意見相違などもあって2年ほどの短命で終わる。
萬は、その頃日本に紹介されつつあった、ポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著である。
黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として、萬の功績は大きいとされる。「裸体美人」(1911油彩)がその代表作。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。

萬は当初日本画を学ぶが、1901年ごろ大下藤次郎「水彩画の栞」を読み、水彩画を描くようになった。彼の絵にとって水彩画はどんな位置にあったのだろうか。
「水彩画と自分」(みづゑ1923.10)によれば、(水彩は)「油絵に疲れた時に描くのが一番良い。大いそぎで絵をまとめてみたい様な時なども油絵より余程便利な事がある」とあるから、多くの日本人画家がそうであったように、油彩第一であったが、かなり水彩に魅力を感じて、油彩を描く傍ら晩年まで水彩を描いていたように見える。1920年、35歳以降のものが多い。
ここでも大下藤次郎の後進の画家への影響は、小さくなかったことが分かる。

彼の水彩画はフォービニスムとは無縁の伝統的な、教科書的なものに見える。

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「雨の風景 」(1904)雨を水彩で表現するのは難儀だが、良い絵だ。大下風。
「夕日の砂丘」(1912 明治45 大正1)
「飛び込む」(1921頃)セザンヌの水浴する人に似て力強い。
「漁村の朝」(1923頃)
「鳥居のある砂丘越しの海」( 1923頃)
「砂丘の富士」(1923頃)
「高麗山の見える砂丘」(1923頃 部分)これは、珍しく激しいタッチと赤、青、黄の対比が鮮やかな絵。
「薄明かりの浜 」(1924頃)
「砂丘の冬」(1924頃)
「えぼし岩の見える海」(1924頃)

「裸体美人」(1911油彩)26歳の時の作品。代表作。ほかに油彩では自画像をはじめとしてフォービニスムらしい肖像画、裸婦に独特のものがある。

板画(版画)家の棟方志功(1903-1975)が、萬鉄五郎を敬愛していたことは、よく知られる。 棟方は、萬を日本の油絵でなしとげた功績を認めたうえで、「わたくしは萬氏の繪の事については、際限を持たない。それ程、わたくしは「萬鐵に首ったけ惚れて」いるのだ。仕方がないほど、参っているのだ」(「萬鐵』の繪心」「板響神」1952)と書いているという。
棟方が萬の持つ何に惹かれたのか、少なくとも穏やかな彼の水彩画ではあるまい。彼の版画から見て、激しいタッチの裸婦や自画像などの油彩であろう。

岸田 劉生の水彩画 [絵]

岸田 劉生( りゅうせい 1891- 1929 )は、大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストで明治の傑人といわれた岸田吟香(ぎんこう 1833-1905)で、その第9子、4男。吟香58歳の時に東京銀座で生まれる。父は72歳で没したが、劉生は38歳で夭折した。

岸田劉生も大下藤次郎の技法書を見て絵を独習 するが、1908年白馬会洋画研究所に入り黒田清輝に学んだ。
劉生も萬鉄五郎と同じく、大下の水彩画入門書が絵を描く契機になっている。
若いながら岸田は、中川一政、、三岸好太郎、斉藤与里、椿貞雄などと、関係の深い画家が多かったから大下の影響はここでも裾野を広げたと言って良い。
1912年(明治45年)、高村光太郎・萬鉄五郎、木村荘八らとともにヒュウザン会を結成した。また、草土社でも中心となり、活躍する。
草土社展に出品された「切通しの写生(道路と土手と塀)」(1915 T4油彩)は、劉生の風景画の代表作の一つとして教科書で多くの人に知られる。

岸田劉生は、理論家で文筆家でもあった。
デューラーに影響され緻密な写実力を持つとともに、モナリザに傾倒し、70点以上の麗子像を描いた画家の言は、アマチュアにも非常に分かりやすく説得力がある。
例えば次の如くである。

婦人は美くしいものである。 だから婦人は画家にとつて何時の時代でもよき画材とされてゐる。古来からの名画の中には婦人を描いたものは甚だ多い、もし古今東西の美術の中から「婦人」を除いたら実に寂寥たるものであらう(中略)
古来、手を美くしく描き得る画家があればその画家は必ず偉れた美を知つてゐる画家であるといふ事が云ひ得る。手は人間の肢体の中でも最も線の交響の微妙な部分である。其処には無数の美くしい線が秘くされてある。力のある画家はその力その美を捕へる。「美術上の婦人」 (「日本の名随筆 23 画」作品社)

「想像と装飾の美」の中では、日本画を痛烈に貶してきめつける。
「要するに、結局は今日の日本画は殆ど凡て駄目、今日の日本画家の大半は西洋画にうつるべし、さもなければ通俗作家たれ。日本画は日本人の美の内容をもてる一つの技法としてのこり、装飾想像の内容を生かす道となり、そういう個性によりて今後永久に生かされるべし。以上。」(「岸田劉生随筆集」岩波文庫、岩波書店)

水彩画についてはこう言う。
「実際水彩には水彩の味がある。無論労作から来る、シンとした深い重い味はない、しかし、新鮮な自由な大胆な強い味等はすいさいはよき技法だ。感じを、しっかり掴んで、呑み込んで、つまり充分その美を理解し切ってきて、いきなりそれを表現する。この事が素画及水彩の秘訣だ。だから水彩や素画で本当の芸術魅力ある美術を作れるのは、中々の事なのである。これが出来れば〆たものである。対象(画因)の芸術的美がいきなりはっきりと解る
強く強く解るのでなければこの事は出来ない」
(「水彩素画個人展覧会に就いて其の他雑信」 白樺 1920.3)余計ながら、素画とは、デッサン、画因とはモティーフのことであろう。

「水画には水画としての、美をあらはす道がある、水画家はそれをつかめばいいのである」「私の水画具パレット」 (みづゑ1922.3)

極端な潔癖症であったが、皮肉にも旅先で尿毒症を悪化させ38歳の若さで没した。

水彩を主に油彩を含め代表作を何枚か。
麗子像、村娘など水彩と油彩が比較できるのも楽しい。

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「落合村ノ新緑」(1907 水彩)大下風。
「生活(たつき)」(1907 水彩)
「麗子像 」(1912年頃 木版画 )劉生といえば麗子像だが、これは初期のもの。
「画家自画像 」(1918. T7 水彩)劉生の絵には文字や数字劉のサインなどが書かれているのが多い。アルブレヒト・デューラーのAとDの独特なサイン(モノグラム)を想起させる。画家27歳の時のもの。後掲の1920年の水彩自画像とくらべ目が鋭い。
「麗子六歳之像」(1919 水彩)
「毛糸肩掛せる麗子肖像」(油彩)
「麗子微笑(青果持テル)」(1921 油彩) 代表作、重文。
「自画像」(1920 水彩)

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「村娘於松立像」(1921水彩)麗子像を描いていた頃、麗子の友達だったお松をたくさん描いているが、麗子像とは違った良さがある。特にこの水彩の赤が良い。
「村娘」(1921水彩)
「村娘の図」(1919 水彩・コンテ)
「村娘之図」(1919 水彩)
「麗子十六歳之像」(1929 油彩)1929年は没年。まさに遺作。
「麗子五歳之像 」(1918 油彩)
「道路と土手と塀(切通之写生)」(1915 油彩) 代表作。
「猫」ー題名、画材、制作年など不詳なれど猫好きには魅力的な絵。日本画か。岸田劉生は、日本画を貶したりしているが、晩年は「四季の花果図」(1924)など日本画も描いた。

ところで、先に引用した「日本の名随筆 23 画」作品社は、青空文庫で読むことが出来るが、随所に参考になることが記されている。例えば人物画の手については先に引用したが、次は目について。劉生の絵を見ながら読むと本当にそうだなと思う。
「生きものや人物画を描くに当つて眼は実に大切である。眼は心の窓といふ事があるが、画家に於ても、その事は本当である。眼でその画の活殺が極ると云つて過言でない程、この眼といふものは大切である。 人物画(及び動物画)にあつては眼を立派に描き得るといふ事は、とりもなほさず「形」以上のものを描き得るといふ事である」

また、別の箇所でこう言う。劉生の美的感覚が解って面白い。
「要するに、美の最も深い感じは、「静寂感」又は「無限感」にあるのだから、「力」といふ様な多少でも動的意義のあるものは最後の美の主的形式となるには応はしくない。これに反して、綺麗とか優美とか云ふ様なものは、静寂にずつと近い素質を持つてゐるので、最高の美感の形式としてはずつと適当なものであると云ひ得る」

岸田と知り合いフュウザン会、草土社結成に参加した木村荘八(1893-1953)に「岸田劉生の日本画」(「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房)があって、岸田の日本画嫌いから、その変節?の経緯や岸田のばけもの好きなどが書かれていて面白い。少し長めの引用になるが。
「岸田は初めフューザン会の頃には日本画式を全然軽視して、殊に浮世絵は、歌麿など蛇蝎のやうに厭んでゐた。そして日本画式といふよりも広く東洋画式に対して、草土社の後期の頃、壺や林檎の静物や風景を一区切り描き上げて、麗子像の始まる頃から、頓に開眼関心するに至り、いはゞ大道から真向に入つたが、そこで仕事が燃焼して来るとスケールは見る見る絞るやうに狭く、深くなつて、初期浮世絵肉筆の鑑賞に至つて、止んだ。 ぼくの最近に見た「化けものづくし」の岸田について少々余事を述べておかう(中略)注 「頓に」は急にとか一途にとかいう意味があるがその両方であろう)
その「ばけものづくし」を見た、その一つ前に見た岸田の日本画が、これはまた、初期に属する作品の、猫を描いた白描で、辛酉晩春劉生写と署名ががある。辛酉は大正十年である。(中略)注 大正10年は1921年)
岸田劉生の「劉」字は―元より吟香先生の撰―「まさかり」又は「ころす」の意で、「生」字と併せて、「活殺」の意味であつたこと、間違ひない」

ここに出て来る猫は上掲の猫のことかどうか分からない。署名が見当たらないから多分違うであろう。
また、劉生には「ばけものばなし」という愉快な随筆がある。「岸田劉生随筆集」(岩波文庫、岩波書店)絵入りだからゲゲゲの鬼太郎の参考になっているかも知れない。

劉生といえば、「麗子像」と「切り通し」しか知らなかった自分が、初めて知ることが多く恥ずかしくなった。「劉生ー活殺」もである。この辺で筆を置いた方が良さそう。

小出 楢重の水彩画 [絵]

小出 楢重(こいで ならしげ1887(明治20) - 1931(昭和6)44歳)は、大正から昭和初期の洋画家。
1887年、大阪市南区長堀橋筋(現在の中央区東心斎橋)に生まれる。小学校から中学時代にかけて渡辺祥益に日本画の手ほどきを受ける。
1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科を受験したものの不合格、日本画科へ編入学する。下村観山の指導を受けるが、のち洋画に転向。1919年、二科展出品作の「Nの家族」で樗牛賞を受ける。この頃より挿絵等の仕事を手がけ始め、ガラス絵の制作にも着手する。
1921年~22年に渡欧。フランスから帰国後の1924年には鍋井克之(1888- 1969)らと大阪に「信濃橋洋画研究所」を設立し昭和前期の洋画界に新風を送り込み、若手の先駆者となった。
晩年の1930年頃に集中して描かれた裸婦像は、西洋絵画に見られる理想化された裸婦像とは異なった、日本人による日本独自の裸婦表現を確立したものとして高く評価される。

小出楢重は、後に「東の劉生、西の楢重」と呼ばれ、岸田劉生(1891- 1929)と並んで近代絵画に大きな足跡を残した。岸田より小出のほうが4歳年長だが、同時代に活動したといえ、浪速っ子と江戸っ子で二人は似たところが無いといってもよい。
絵でいえば裸婦像を追求した小出、ヌードのほとんどない劉生というだけでも良く分かるというもの。
その楢重のヌードは日本的と言われる。特徴がいくつかあるが、顔に殆ど力を入れていないのもその一つではないか。「裸女結髪」(1927油彩)のように後向きもあり、そっぽを向いたものが多い。こちら向きでも引き目かぎ鼻。その方が身体をより強く表現する効果があるのだろう。眼を重視した劉生がヌードを描いたらどうしただろうか。

さて、楢重は中学時代から水彩を描き、晩年はさかんにガラス絵も作製した。ガラス絵の技法書は今でも愛好家に読まれている。
わが敬愛する旧職場の先輩は、油彩、水彩も一流だが、見事なガラス絵も描かれる。ガラス絵協会の会長をしていて作り方のHPを運営しており、そこに楢重のガラス絵のことが紹介されていて初めて知った。

富岡清泰ガラス絵ミニ講座
http://members3.jcom.home.ne.jp/tomioka.k/

また、楢重は、雑誌、新聞の挿絵にも才能を発揮した。「楢重雑筆」など随筆をよくしユーモアに富んだ闊達な文章は愛読者が多い。

随筆によれば、楢重は、胃弱で自分を「骨人」というほど痩せていた。徴兵検査では10 貫目と言うと即、お大事にと帰されたという。37.5kgだ。また酒も全く飲めない体質でメレンゲなどの菓子を好んだという。どこからあの力のある裸婦像を描く力が出たのかと思う。

楢重の水彩画に対する考えについては、これら「楢重雑筆」などの文章から明確に知ることが出来る。

「そんな意味からでも画家は油絵の一点張りではまったくやりきれない。時には水彩もやってみたくなればグワッシュもやりたくなる、あるいはエッチングをやるのも面白いだろうし、木版を彫ってもいい、あるいは素描パステル、何でも好きなことをやれば気持が直る。(中略)要するに油絵というものは下地から仕上げにいたるまでああでもない、こうでもないと散々苦労を重ねて終点へまでこぎつけるので、楽しみよりもくるしみが多く、しかも力尽きて降参するという順序になりやすいものであるが、技法のうちに偶然を含む種類のものは、作者に賭博の楽しみを与えるもので失敗も多いが思いがけない儲けもあるものである」(「みづゑ」大正14年6月)
次の文は、ガラス絵も小さい方が良いと言い、水彩もそうだと言っているところ。同感である。
「ところで水彩は、もう25号以上にもなると、材料に無理が起って不愉快になります、水彩という材料は、そんな大ものを引受ける力がありません、何んとしても小品の味であります」「ガラス絵の話」

小出も劉生と同じく油彩が本業で、水彩はガラス絵と同じく気分転換という位置づけであったろう。定食の後のデザートという。ただ、二人とも水彩の魅力は十分に分かっていたように思う。それは彼らの水彩を見れば伝わってくる。

楢重の水彩画は少ない。

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「三泊旅行スケッチ 」(1906 水彩)
「横たわる裸婦 」(制作年不詳水彩 )27.4×33.3cm
「裸婦 」(1930 S5年頃 水彩 )30.0×50.3cm 水彩とあり少し大きいが、グワッシュだろうか。
「横たわる裸婦 」(1930 ) 水彩風だが、油彩だろう。
「横たわる裸婦」(1930 油彩)
「ソファの裸女」(1930 ガラス絵)ガラス絵は、アクリルや水彩、油彩も使用するが、これは油彩かもしれない。
「支那寝台の裸女」(1930 ガラス絵)
「谷崎潤一郎の蓼食う虫の挿絵」
「ステンドグラスの下絵」 (1929木炭 鉛筆 水彩)H114cm。
「帽子を冠れる自画像 」(1928 T3 油彩)画家41歳。たしかに骨人だ。

水彩が少ないので油彩を。我ながら水彩画と題しておきながら、羊頭狗肉みたいで気は引けるけれども。

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「Nの家族」(1919油彩)代表作。画家32歳。若い家族なのに、幸福感の乏しい絵。
「支那寝台の裸身」(1930 油彩)モジリアニ風。
「仏蘭西人形ー顔」(1930 油彩)
「地球儀のある静物 」(1925 油彩)
「壁面装飾のための7枚の静物 ばら」 (1924油彩)
「卓上の静物(西瓜のある静物)」(1928油彩)
「枯れ木のある風景」(1930 油彩)亡くなる1年前の作品。電線に烏ならぬ帽子をかぶった画家本人が描かれているとされる不思議な絵。前面中央の枯れ木とともに死の影が漂う。遺作とされる。
「卓上蔬菜 」(1927油彩・麻布)106.0×54.5cm 大作だ。
楢重のヌードは1930年制作が圧倒的に多いが、描き貯めていたのをこの年に一気に仕上げたのではないかとさえ思えるほどだ。没年は翌年である。
その2、3年前の静物画も独特の雰囲気をもっていて、理由が分からないが、なぜか惹かれる。以下の美術館の説明を読んで、なるほど大阪と関係があるのかそうかも知れない、と思った。
自分も大阪で2年間働いたので、少し分かるような気もする。鮮やかながら余り光がなくねっとりした絵ー上手く表現出来ないがーである。

「卓上蔬菜」は彼の充実期を代表する作品である。暗黒色を背景に、彼がよくモチーフに用いた六角形の小卓と赤、緑、黄などの野菜類。床に敷かれた絨毯の花模様。それらの鮮やかな色彩の対比と濃厚な色調。粘りある筆触。このような彼の好みは彼独自の画風を作品にもたらしている。小出の生まれ育った大阪島の内界隈は、近くに花街があり、天王寺、千日前の縁日には夜空に花火が打ち上げられ、夜店や見せ物小屋が立ち並んだ。彼の絵の特徴である粘っこいマチエール、グロテスクで濃厚な色調、シュールでエロチックな画面はここから来ているといわれる。(北九州市立美術館)

育った環境は絵にも影響するのだろうか。とすれば、大阪の楢重、東京の劉生か。
アマチュアには、それぞれが影響を受けたと思われる巨匠らーホルバイン(Nの家族の右下に画集らしきものが)、ゴッホ=楢重、ダ・ヴィンチ、デューラー=劉生を持ち出す方が分かり易いが。

村山 槐多の水彩画 [絵]

村山 槐多(むらやま かいた)は、1896年(明治29 )愛知県岡崎市生まれ、京都で育った。前年に古賀春江が、翌年に小出楢重が生まれている。岸田劉生は5年年長。

宮沢賢治(1933 年S8没)と同い年 というのは、大正期という時代に活動したという意味で違和感がないが、画家の林 武も同年の生まれと聞くと、林は1975 年(S50)79歳で亡くなるまで活躍しているので、村山槐多の夭折を強く思い知らされる。
1914年上京、18歳から1919年のたった5年間 に絵を描き、多くの傑作を残すとともに、小説「悪魔の舌」、「殺人行者 」、詩「京都人の夜景色」も書いた。これらはいま青空文庫で読むことが出来る。
村山槐多は、1919年スペイン風邪により、結核性肺炎で急死した。23歳。まさに彗星の如く現れ、一瞬燃えて消えた天才である。
なお、関根正二は、1899年生まれで槐多より3歳下だが、同じく1919年20歳で亡くなったのでよく槐多と比較される。関根の代表作である「信仰の悲しみ」(1918 油彩)は日本の近代洋画史を代表する傑作の一つと評される。
ちなみに関根には槐多と対照的に水彩画が殆ど無いが、同級生だった伊東深水と一緒に描いた「画家とモデル」、「農夫」(1916)と題する縦長の水彩画が神奈川県立近代美術館に2枚ある。

槐多の若いエネルギーのほとばしりは、ほぼ同時代のオーストリアの夭折画家エゴン・シーレ(1890-1918)を彷彿とさせる。シーレは、見る者に直感的な衝撃を与えるという作風から表現主義の分野に置いて論じられるが、槐多もよく似ている。

関連記事 クリムトとシーレの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-04-30

狂はん狂はんわれ狂はん
狂ひて描かん狂ひて描かん
ああわれは心も張りさけて狂ひて描かん 「村山槐多全集」(1963彌生書房)

槐多は日本美術院の研究生であった頃、彫刻家で詩人でもあった 高村光太郎(1883-1956 S31)の工房に出入りしていた (村山槐多18歳、高村光太郎31歳)。詩人は画家を「強くて悲しい火だるま槐多」と詠っている。詩人はクールに槐多を見ていたといえよう。

槐多は下駄でがたがた上つて来た。
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足で上つて来た。
風袋のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。
いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を偏在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。
「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」
眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。

村山槐多の絵は、短い期間に描かれているので数は少ないが、代表作「尿する禅僧」(1915油彩)「裸婦」(1914-5油彩) に見られるように、激しい画風である。水彩画もまた、明治のおとなしい水彩とは異なり奔放でかつ激しい。画材の違いなど意識していないように見える。
槐多の水彩画は意外に多いが、ほとんどが1914年(「カンナと少女」は、1915年)、18歳の作品というのはどういうことか。その前後はもっぱら油彩ばかり描いたか。
彼の水彩画は、青と赤を基調に太く強い線が特徴だ。エミール・ノルデの水彩画を思い出すような「朱の風景」(2枚ある)などは、日本人には珍しい色感で独自の水彩画の魅力を持っている。

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「山なみ風景(日光ニテ)」絵の右下1914と読める記載あり。
「農学士 田中十三男像」
「稲生像」(1913年頃)
「田端の崖」(1914)珍しく点景に小さな人物が描かれている。
「朱の風景」(1914)伝統的な風景画でなく心象風景、抽象風景。
「紙風船をかぶれる自画像」(1914 T3)鉛筆淡彩風の自画像。
「川のある風景」(1914)
「朱の風景」(1914)
「自画像」(1914)画家の油彩の自画像はもっと強い、激しいものが多い。

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「カンナと少女」(1915)「庭園の少女1914」とともに水彩画の代表作。赤いカンナ、赤い顔、赤い手、赤い帯が目立つ。
「二少年図」(1914)2年年長の江戸川乱歩が愛蔵していたとされる。
「バラと少女 」(油彩1917 T6 )東京近代美術館蔵。これは油彩だが一見すると水彩画と見間違える様な雰囲気である。
「庭園の少女」(1914)
「小杉未醒氏庭園にて」(1914)寄寓した小杉放庵宅の庭。
「種まく人 」(制作年不詳) 油彩か。
「信州風景 」(1917 T6 )コンテか。黒チョークか。力強い。

明治の混乱が治まり昭和に至る中間に生まれた大正デカダン、槐多はその先駆けと位置付けられるのだろうか。アマチュアの自分は、どうしても時代のもたらしたものというより、個性のなせる芸術と見てしまうが。

余談ながら、槐(えんじゅ)はマメ科の落葉高木。槐は、中国原産で夏に白い花が咲く。生薬で止血作用があると、ものの本にある。何故か子供の頃から槐色とは紫色に近い色でこの木と関係があると思っていたが、無関係らしい。えんじ色(臙脂色、えんじいろ)とは濃い紅色のことだそう。カイガラムシが原料とか。間違って覚えていることは沢山あるものだ。
槐多は、槐の樹が多いという意味か。
槐多は横浜の小学校教師であった父村山谷助と母たまの長男として生まれたが、母たまが結婚前に森鴎外家で女中奉公をしていた縁で鴎外が名付け親となったとウキペディアにある。
鷗外はどんな意図で名付けたのだろうか。

長谷川 利行の水彩画 [絵]

長谷川 利行( としゆき 、読みは「りこう」とも)は、 明治24年(1891年)生まれで昭和15年(1940年)49歳で没した京都府出身の洋画家、歌人。
没年は我が誕生年なので感じがつかめるが、紀元2600年、日独伊三国同盟、八紘一宇、戦争の足音が真近に聞こえてきた時期。同年に39歳で没した、絵も描いた詩人小熊秀雄(1901-1940)がいる。

長谷川利行は、23歳で夭折した村山槐多(1996-1919)よりも5年年長 である 。
1921年30歳の時上京する。 絵は独学で1923年「田端変電所」で世に認められたが、同年関東大震災に遭う。以降絵も描き傑作も残すが、生活が荒れる。
震災の悲惨を見て詠んだ歌から察すれば、彼が受けた衝撃の大きさが分かる。荒れた生活も本人の性格もあろうが、この経験と無関係では無かろう。

40歳を過ぎた1930年代以降は木賃宿や簡易宿泊所、救世軍の宿舎などを転々とし、1937年の二科展を最後に公募展への出展をしていない。1932年に詩人や小説家と共に芸術家グループ「超々会(シュルシュル会)」を結成し、長谷川は会の中心的な人物となるものの、1年ほどで自然消滅したという。もとより人とうまくやるような社交的性格ではなかったのであろう。
アウトロー、バガボンド、放浪奇行の天才画家 、放浪の画家 、日本のゴッホなどの異名がある。
歌人でもあり、上野に熊谷守一の筆になる歌碑がある。
己が身の影もとゞめず水すまし河の流れを光りてすべる
自卑の心いよゝつぶさなりわきたちの涙をおさへ思ひつゞくる

1940年5月、胃癌のため三河島の路上で倒れて、東京市養育院に収容される。治療を拒否し、同年10月12日死去。49歳没。この際、手元にあったスケッチブックなどの所持品がすべて養育院の規則により焼却されたという。
彼の歌に
人知れず 朽ちも果つべき身一つのいまがいとほし 涙拭わず
がある。亡くなった時のものでは無いと思うが、まるで予見したような歌だ。

東山魁夷や熊谷守一などの実力者が早くから彼の力量を認めていたが、一般的には長谷川の評価が進んだのは死後数十年たってからである。
2009年にも、1930年協会展に出展していたうちの一枚の油彩、「カフェ・パウリスタ」(1928 油彩)が発見され、なんでも鑑定団で紹介され(鑑定額は1800万円とか)て話題になった。

荒々しいタッチと跳ねるような線の色による表現主義的画風 で独自の詩情性を現出すると評される利行の絵は、やはり油彩画に本領が発揮されているようにみえる。例えば、

「動物園風景 」(1937年頃 油彩)45.0×53.0cm 石橋財団石橋美術館蔵 などは、自分の好きな絵だが、神がかりのような絵としか表現する言葉が無い。彼こそ世界に通用する画家だという気がする。

かたや長谷川利行の水彩は一瞬で捉えられた風景や人物が即興性と叙情性をもって表現されていて油彩に劣らぬ魅力がある。
似たモティーフの水彩と油彩を並べて比べると面白いのだが、水彩画が思ったより多く油彩を掲げる余地が無く諦めた。機会があればやって見たい。

彼の稚拙とも見える水彩のヌードも独特の愛らしさが漂っていて面白い。わざと下手に描いているようだが、利行は子供の絵こそ手本と言っていたそうだから「目指すもの」だったのだろう。
利行は、「水彩画そのものに愛着やみがたい」と「 みづゑ」(1911.10「教育の所感」)に書いているから、その良さを認めていたことが分かる。

水彩画を風景画、裸婦・静物、人物画にグルーピングした。

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「浅草龍泉寺」(1927水彩)22.0×29.5cm 。
「上野駅」(1929 水彩 )23.0×13.5cm 。
「浅草ロック 」(制作年不詳 水彩 )23.7×31.5cm 府中市立美術館蔵 。
「不忍池から見たアドバルーンのある風景 」(1935水彩 )12.0×16.8cm 。
「浅草大通り 」(1935 水彩) 15.8×22.7cm
「浅草風景 」(1936 S11 )18.4×23.2 cm
「街角」(ドローイング1938 水彩、鉛筆)戦前の東京に暮らす人々が、路上に行き交い、昭和の詩情をつくり出している。
「銀座風景 」(1938 水彩 )45.5×60.5cm 個人蔵 。
「カフェ・三橋亭 」(制作年不詳 ガラス絵 )8.7×13.8cm 町立九万美術館。利行は一時期ガラス絵に凝る。
「葛飾C」( 水墨 74.0×12.0cm)晩年 病が重くなり油彩がきつかろうと水墨画を勧められる。

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「横臥婦 」(制作年不詳 )23.1×29.8cm。
「裸婦 」(制作年不詳 水彩 )33.4×24.8額装 暗い色調が他のものと変わっている。
「裸婦」 (水彩 )18.6×13.6cm 。茶系。
「少女」(1935 )上半身ヌード。
「裸婦 」(水彩 )20.0×17.5 モノクロ風。
「花 」(1935 水彩 )20.5×17.4 赤いバラ一輪。
「ニンニクの芽」制作年不詳。
「バラの花」( ?年 水彩 ) 19.5×18.0cm 。モノクロ風だが、赤い色が見えるよう。奥行きまである。
「楽器のある部屋 」(制作年不明 水彩 )16.0×21.3cm 。彩色が見たいもの。
「菜の花」(1941? クレパス )22.7×15.8cm。絶筆だとされるが。

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「下町の少年像 」(1935水彩 )22.7×13.7cm 個人蔵 。
「四宮潤一氏像」(1936 ) 
「カフェ・オリエント」(1936 )
「ノアノアの女」(1937)自分には油彩のように見える。他に油彩にも「ノアノア 」(1937) 79.7×64.5cm 個人蔵があるから水彩画だろうか。
「寺田政明氏像 」(制作年不明 水彩)27.1×18.0cm 。寺田は、靉光とともに利行と交流のあった画家。靉光を描いた油彩の有名な肖像画もある。
「天城俊彦像 」(1937 水彩)17.7×13.6cm 個人蔵 新宿天城画廊店主で利行の理解者。
「自画像 」(1938 水彩 )36.8×23.1cm 47歳亡くなる2年前のもの。病人ながら絵は力がある。
「茶房の女達 」( 制作年不詳 )21.5×27.0cm。

あらためて、力量に圧倒されるばかりである。

小熊 秀雄の水彩画 [絵]

小熊 秀雄(おぐま ひでお、1901 - 1940)は、昭和初期の詩人、小説家、漫画原作者、そして画家である。ペンネームに、小熊 愁吉( しゅうきち)、黒珊瑚(くろさんご)、旭 太郎(あさひ たろう)などがある。
1901年(明治34年)、北海道小樽市に生まれる。幼年期は稚内市・秋田・樺太で暮らした。イカ釣り漁師、養鶏場の番人、パルプ工場従業員など様々な雑務作業に従事した後、1922年、23歳の時に旭川新聞社で記者となる。この頃から詩作を始めた。
1928年、27歳で上京。雑誌社や業界新聞で働きながら、雑誌に作品を発表。1935年に「小熊秀雄詩集」長編叙事詩集「飛ぶ橇」でプロレタリア詩人としての地位を確立した。
自由や理想を奔放に歌い上げる作風で、詩壇に新風を吹き込んだ。詩作にとどまらず、童話・評論(美術を含む)・絵画など幅広い分野で活躍した。
小熊の最初の詩集「小熊秀雄詩集」の装幀をおこなった寺田政明ら池袋モンパルナスの画家たちと交流し、みずからも絵を描いた。
1938(昭和13)年、「池袋モンパルナスに夜が来た」という文で始まる詩を発表。「池袋モンパルナス」の名づけ親が小熊といわれている。

池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が
街に出てくる
彼女のために
神経をつかえ
あまり、太くもなく
細くもない
在り合わせの神経を―
「池袋風景」(1938 S13 サンデー毎日)

周知のように、 20世紀初頭のフランスは世界の芸術の中心であり、パリのモンパルナスは、その拠点だった。モンパルナスが最盛期(エコール・ド・パリ)を迎えたのは、1920年代である。
デュシャン、ブルトン、ピカソ、ダリ、ミロ、シャガール、モディリアーニ、ジャコメッティ、藤田嗣治ら国籍も年齢も異なる芸術家たちが集まり、後期印象派からキュビズム、フォーヴィズム、ダダイズム、シュルレアリスムなど、その後の20世紀芸術を規定する革新的な前衛芸術を生み出していった。
小熊は憧れと期待を込めてアトリエ村を池袋モンパルナスと歌った。当時の池袋アトリエ村には確かにモンパルナスを彷彿とさせる雰囲気があったという。

池袋モンパルナスは、大正の終わり頃から第二次世界大戦の終戦頃にかけて、東京都豊島区西池袋、椎名町、千早町、長崎、南長崎、要町周辺にいくつものアトリエ村(貸し住居付きアトリエ群)が存在し、多くの芸術家が暮らし芸術活動の拠点としていた一画である。この地域に暮らした画家、音楽家、詩人などさまざまな種類の芸術家が行った芸術活動および熱く語りあった文化全体もさす。
ここにかかわった芸術家は、小熊秀雄の他高橋新吉、熊谷守一、長谷川利行、靉光、長沢節、丸木位里・俊夫妻、松本竣介、北川民次など延べ千人ともいわれる。
中には現役の画家にもまだおられ、野見山暁治氏もその一人だ。
ちなみに若い漫画家の集まったトキワ荘、田端文士村などもこの地の近くになる。

小熊秀雄は、晩年には、漫画出版社・中村書店の編集顧問となる。
ペンネーム旭太郎で原作(漫画台本)を担当した「火星探検」(1940年)はSF漫画の先駆的傑作とされ、手塚治虫(1928 S3ー1989- H1)、小松左京(1931-2011)、松本零士(1938-)らに大きな影響を与えたとされる。

1940年(昭和15年)、東京市豊島区千早町30番地 東荘で、肺結核により死去。満39歳の若さであった。前にも書いたが、長谷川利行と没年が同じ。まったく関係無いけれど自分の誕生年である。

小熊秀雄の水彩は1930年代の10年間に描かれたが、制作年、月が不明なものが多い。いずれにしても晩年の作である。絵は、黒インク線描水彩で比較的小さなものが多い。絵は独特なので、アマチュアの参考にはなりそうもない。

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「詩人の食卓」(1930年代)水彩・インク)33.0×21.8cm。
「ピストル」(水彩)同名の絵が2枚ある。
「飛翔するイメージ ー童話風にー」(1930年代 S4-14 水彩)18.2 ×12.3cm。
「小熊夫人の像」つね子夫人は、1982(昭和57)年、79歳で亡くなった。
「たき火にあたる人物」(1930年代 S4-14 水彩)19.0× 12.8cm。
「巣鴨拘置所」(水彩)
「自画像」(1938 S13油彩)
「少年」( 水彩 ) モデルがひとり息子かどうかは不明。長男焔は1945(昭和20)年、19歳で早世した。
「三人の人物とカエル」(1930年代 S4-14 水彩)20.4× 14.8cm。
「河童 」18.3 ×27.0cm。
「寺田政明像1 」22.3× 30.3cm画家の寺田政明は長谷川利行にも肖像画(水彩)があるが、子息が俳優の寺田 農(みのり)氏。
「きのふは嵐けふは晴天」(1930年代 S4-14 水彩)27.1 ×35.9cm。

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「ピストル」(1930年代 S4-14 水彩)17.6× 23.7cm。
漫画 「火星探検」 1940 台本 旭 太郎(小熊秀雄 )画 不明。
漫画「 勇士 イリヤ」 作 小熊秀雄 画 謝花凡太郎。
小熊秀雄詩集「飛ぶ橇(1935 S10)」表紙。 装幀が寺田政明 かどうか不明。
「夕日の立教大学」(1935油彩)。
「池袋モンパルナスのスケッチ」市立小樽文学館所蔵。

小熊秀雄の著作集は青空文庫に収載されているので、詩も読めるが自分は詩ごころが無いせいか、あまり良い鑑賞者になれそうもない。あの時期に反戦詩人として生きた稀有な存在だったことは誰もが認めるところだろうが。

旭川市に建てられた詩碑に刻まれた遺稿の詩。
 こゝに理想の煉瓦を積み
 こゝに自由のせきを切り
 こゝに生命の畦をつくる
 つかれて寝汗掻くまでに
 夢の中でも耕やさん

 さればこの哀れな男に
 助太刀するものもなく
 大口あいて飯をくらひ
 おちよぼ口でコオヒイをのみ
 みる夢もなく
 語る人生もなく
 毎日ぼんやりとあるき
 腰かけてゐる
 おどろき易い者は
 ただ一人もこの世にゐなくなった

余計ながら多才な小熊には短歌もあるが、どうもあまり良い出来でないように思う。なんとなく滑稽な味合いはあるが。狂歌や俳句なら佳作に違いない。

 犬の顔まぢまぢみれば犬もまた まぢまぢわれのかほをみしかな
なやましき烏の踊りみぎり足 いちぢるしくもあげにけるかな
現世に大根が生きていることの 可笑しかりけりうごかぬ大根

難波田龍起・史男の水彩画(1/2) [絵]


難波田 龍起(なんばた たつおき:1905 明治38 - 1997 平成9 )は、洋画家。日本の抽象絵画の旗手とされる。北海道旭川市出身。画家で、詩人でもある。1996年に文化功労者として表彰される。

1923年早稲田第一高等学院に入学、高村光太郎に出会い、詩、美術などの影響を受けた。
早稲田大学政経学部中退後、川島理一郎(1886-1971 栃木県足利市出身の洋画家)に師事し、1929年国画会に初入選。
1935年フォルム展、1936年アヴァンギャルド芸術家クラブ結成に参加する。1937年には自由美術家協会の創設に参加し、翌年に同協会会員となる。
戦後は、戦後抽象画家として活動、現代日本美術展や日本国際美術展などでも活躍した。
1974(昭和49)年、画家でもあった次男・史男の不慮の事故死(33歳)に遭う。長男・紀夫(詩人)も翌年相次いで亡くなるという不幸に見舞われる。
しかし、その後20年にわたり油彩、水彩、銅版画などの抽象画の画業を続け晩年まで旺盛な制作意欲をみせた。平成9年世田谷区の病院で逝去、92歳。

関係ない話だが、自分の父が明治35年生まれである。難波田龍起は、明治38年の生まれで、3歳年下。画家の次男史男は、昭和16年生まれで自分より一歳下であるが、亡くなったのは自分がサラリーマン11年でまだまだひよっこの頃といった具合で、親子ともほぼ同年代だから時の流れが、実感として良く分かる。

難波田龍起の抽象画は、日本的と言われる。たしかに四角い画面にきちんとおさまり、はたんが無いように見える。その意味で装飾的で部屋に飾っても落ち着くような絵が多い。奔放なカンディンスキーや強い直線や原色を使う色彩のモンドリアンと異なる。油彩でも水彩でも同じだ。

油彩も水彩に比べさほど大きくないようで、両者は画像で見る限り目指すもの、描かれたものに大きな差が無いようにみえる。水彩は戦後描かれたものが多い。

難波田龍起の抽象水彩画は、四辺に余白があるものが多い。そのため絵が画面の中にきちんとおさまり落ち着く効果がある。線や色の使い方、にじみ、ぼかしもアマチュアにもそれなりにおおいに参考になるような気がする。抽象画そのものについては難しくて理解出来ないのだが。

難波田龍起は抽象画についてこう言う。
「抽象美術は 人間の空想力や 想像力を取り戻すものである。そして、目に見える現実のみに執着する人間の心を もっと広い世界 目に見えない世界へ解放するのである」
目に見えないものを見るとは難解だが、それをヒントに龍起の抽象水彩を眺めてみる。



「春のおとずれ 」(1988 水彩・ペン) 26.5×21.5cm 縦縞が上に伸びている感じ、それが春か。
「水彩作品」(1978 水彩)24.0×32.5cm 。ブルー を基調に水彩らしい。
「秋の詩」(1991 水彩)24.6×19.4cm。茶系が秋の雰囲気。
「思い出の風景」(1996水彩・パステル ペン) 23.0×31.0cm。何が思い出なのか、余人には不明。
「敦煌を想う」(1986年水彩・ペン )26.0×21.0cm。敦煌の洞穴の仏像か。具象を見てしまうのは、正しい鑑賞法ではないだろう。
「ファンタジーA 」( 水彩 )濃いブルー、紫に趣がある。
「コバルトブルーの歌 」(1991 和紙 水彩)71.5×157cm と大きい。和紙を使っているのが珍しい。(「心象風景」は誤り。抽象画は間違いやすい。抹消に失敗。)
「東京の顔シリーズ 2 夜 」(1965 水彩 )47×32.5cm。(「心象風景」は誤り。要注意。難波田の絵は右下にサインがあるものが多いので上下、左右を間違える可能性は低いが、抽象画は題名も含め扱いに難儀する。)
「夏のファンタジー」(1992 水彩 パステル) 33.0x24.5cm。茶系なのに夏とは?
「病床日誌24 広島記念日 」(1997 カラーボールペン) 亡くなる2年前の作品。晩年の龍起は、入院中も「描けなくなるまで描こう」と、紙にカラーサインペンとカラーボールペンによって制作を続けた。そのうちの31点は《病床日誌》としてまとめられ、そこには死を間近に控えた画家の透徹した心境を映し出しているとされる。これはそのうちの一枚。



「心象風景」(1993水彩・パステル・ペン) 23.7x33.2cmブルーに暖色が入っている。
「心象風景」 (1984 ペン )27×24㎝ 透明水彩らしいタッチ。
「女性像(仮題)」(水彩 色紙 )23.5x26.5㎝。女性の形は見当たらない。
「無題 」(水彩 )27×24cm 中に丸が3つ。上に十字。どんな世界を表現しているのか。
「春の詩 」(水彩 )21×20cm 。おたまじゃくしが踊るように。春の雰囲気。
「緑の夢 」(1978 水彩 )27×19.5cm 。にじみとぼかしのみで珍しく線が入っていない。
「題名不詳」(色紙に水彩 )27×24cm 円に十字。薩摩藩の旗印。
「ファンタジー 青 」(1966)四辺が青。右下の赤い点が効果的。仕上がるまでの過程はどんなものか、知りたい気がする。色から入るのか、線から描き始めるのか。
「荒れる海」(1981水彩 インク)25.5×17.9cm 。愛息を海で喪い7年が経った。どんな思いで描いたのだろうか。

次回は、子息史男氏の水彩画。


難波田龍起・史男の水彩画(2/2終) [絵]

難波田史男(なんばたふみお:1941 昭和16-1974 昭和49 )は繊細なタッチで幻想的な心象風景を描いた抽象画家。同じ抽象画家の難波田龍起の次男として東京都世田谷区に生まれる。画家を志し、1960年文化学院美術学科に籍を置くが、美術学校特有の授業に馴染めず62年に中退、以降、独自の画法で制作に取り組む。
型にはまらない自由な生き方は、一方で若者の孤独を増幅させ、自身の目を内面へと向かわせたとするのが一般的な見方である。

自分と同じ60年代から70年代初頭に青春時代を過ごした史男は、水彩とインクで繊細なタッチの幻想的な心象風景を描いた。
今、当時を振り返れば、アルバイトに追われながらの学生生活でいっぱいだった自分とは比較にならない、好きなことができた彼の環境が羨ましいような気がする。

1965早稲田大美術専攻科入学、心の中に生まれてくる歓びや苦悩をありのままに描き出し、今も多くの人の共感を呼んでファンが多勢いる。
1974(昭和49)年、九州旅行の帰途、瀬戸内海のフェリーから転落 して不慮の事故死 を遂げる。33歳の若さであったが、父を凌いだかも知れぬ特異な才能を思うと長生きすれば、どんな素晴らしい絵を描いたかと惜しんで余りある。

史男には殆ど油彩がなく水彩ばかりである。中でも圧倒的にインクを使った水彩画が多い。水彩のにじみ、ときにスパッタリング、インクのデリケートな線描は画家が見つめた非現実 、内面的空想の世界の表現に適していたのであろう。

若い画家は、幾つかの言葉を残しているので、絵を描く姿勢や考え方を推し量ることが出来る。残念ながら水彩そのものについて直接言及したものは見つからなかったが。

「世界が、私から逃げ出して行くという意識が、私をして、絵を描かしめる。逃げ出して行く世界を追いかけながら私は描くのだ」
「ぼくらはこの世界にしか生きられないのだ。僕はもはや孤独とか寂しいとか言わない。僕はこの世界を賛美して死にたい。それは色彩による、ただ色彩のみが美しい」
「私が点を打つと私の意識は上下左右に動き出します。音楽の繊細な旋律の中を変化してゆく音のような形象をよそおいながら、私は線の旅に出ます」




「終着駅は宇宙ステーション」( 1963 水彩 インク テンペラ)個人蔵。この年、自分は学校を卒業して会社に就職した。こんな絵を描いていた人もいたんだ。
「無題 」(1967 水彩 インク)20.8×31.7cm。パウルクレー風。
「無題 」(1963 水彩 インク) 2枚組?。
「自己とのたたかいの日々 N-14 」(1961 水彩 インク) 左下人。悩める文化学院の二十歳頃か。没後に両親によって命名された題名という。5点の作品シリーズのうちの一枚。
「無題 」(1970 水彩 インク) 右下は花?
「無題 」(1970 水彩 インク) 左 掃除機?右に女性。珍しく具象的な絵。
「湖上 」晩年の作品という。フェリーの事故を暗示しているようで怖い。
「巨人と遊ぶ子供たち」( 1961 )巨人というより火星人?絵の具が乾いてから描いたか。
「無題 」(1971 水彩インク) 33. 0 x 48. 0 cm黄色の輪?色の面で描かれ線のない絵。
「海辺の散歩 」晩年の作品。これも海の事故を考えると怖い。
「無題(部分 )」(1963 s38 水彩 インク)77.0 ×109.0 cm と珍しく大きな絵。
インクはどんなペンを使ったのだろうか。よく見れば、微妙な太さ細さ加減が難しそう。
「無題 」(1954 インク) 彩色前か?これを見たらふと、画家はインクを描いてから彩色したのか、それとも彩色してからインクをにじませたのか、あるいは両方か気になり出した。
ドリッピングやスパッタリングも多用しているが、線は色とのハーモニーもあるだろうからどちらもありだったのだろう。



「祭壇 」(1971 水彩インク)70年代の絵は、線が少なくなっているようである。しかも線が滲んでいる。
「無題 」(1972水彩インク)打ち上げロケットのよう。結構強い色を使っている。全体に暗い。
「無題 」(1973 水彩インク )右にあるのは太陽?真ん中の赤い円も気になる。
「夕空と舟」(1972水彩インク )亡くなる2年前の作品。船を見ると、どうしてもフェリーを連想してしまう。
「無題」(1969 水彩インク )立像?。茶系のモノトーン。
「白い太陽」(1973 水彩インク )上部にあるのが太陽か。人や船らしきものも。
「太陽の讃歌」(1967 水彩 インク) 原色が鮮やか。白が強烈で繊細というより激しい絵。
「ニコライ堂」(1960 油彩 段ボール)若い時(19歳)の油彩画。

我が国における抽象画の歴史も不勉強で知らない。またもとより抽象画の見方も分かっていないが、難波田親子の絵はアマチュアには分かり易いような気がする。しかも水彩という観点から見ると、より親しみが湧いて少し分かったような錯覚におちいる。

余談ながら、難波田城(なんばたじょう)は、埼玉県富士見市南畑(なんばた)にあった城郭。今城址公園であるが、鎌倉時代の武将難波田高範の居城。難波田親子はその末裔か。富山市に難波田親子の美術館があるというが、不勉強でそのいわれも知らない。

カミーユ・ピサロの水彩画(1/2) [絵]

ジャコブ・カミーユ・ピサロ(Jacob Camille Pissarro、1830- 1903 )は、19世紀フランスの印象派の画家。
カリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島(サン=トマ)島において、ボルドー出身のセファルディムの四兄弟の三男として生まれる。絵を描きたくて1852年に家出を決行、ヴェネズエラの首都カラカスへ。3 年後には芸術の都パリに出る。

パリでは画塾アカデミー・シュイスに学び、そこでモネと知り合う。1860年代にはパリ近郊のルーヴシエンヌ、ポントワーズなどで、モネ、ルノワールらとともに戸外にキャンバスを持ち出して制作した。1870年(40歳)には普仏戦争を避けてロンドンへ渡り、現地で落ち合ったモネとともにターナーらの作品を研究した。

ピサロは印象派展には1874年の第1回展からグループとして最後の第8回展(1886年)まで、毎回参加しており、計8回の印象派展に欠かさず出品したただ一人の画家として知られる。

ピサロにはゴッホのひまわり、モネの睡蓮のような強い個性のある作品はない。
代表作は、「オペラ座通り テアトル・フランセ広場」( 1898 油彩)、「羊飼いの娘(小枝を持つ少女、座る農家の娘)」 (1881 油彩)「モンマルトル大通り、曇った朝」 (1897 油彩)などだが、言われて絵を思い浮かべられる人は少ないだろう。

しかし、あのセザンヌさえピサロを師と仰いだというのだから、実力者だったことは疑いが無いし、美術史において大変重要な画家であることは間違いない。
印象派の中では最長老だったこともあり、ゴーギャンなど多くの画家に慕われたというから人格者でもあったのだろうか。それを裏付けるように絵は温かみがあり、落ち着いてどこか優しい魅力がある。

それでいて、彼ら新印象主義と呼ばれる画家たちの多くは、当時流布していたアナーキズム(無政府主義)の思想に共鳴しており、ピサロも例外ではなく過激派でもあったというから面白い。

晩年には、新印象主義にこだわらず、ふたたび自由な筆づかいの作風に戻る。同じ景色を異なる光のもと描く連作という形式で、印象主義の探求を深めた。
73歳で亡くなるまで、いわば生涯を印象主義で貫き通した画家として知られる。

油彩画家であるピサロにとって水彩画は、テンペラ、パステルも同じだが、油彩を描くための下絵であったと思われる。野外で水彩の下絵を描きそれをもとにアトリエで油彩に取りかかったのであろう。多分当時の他の画家も同じであったように、あくまで油彩が主である。

ピサロにはグヮッシュを含め水彩画が多い。とくにエラニー時代1884年から1890年頃のものが多いように見える。むろんエスキースであっても、独立した絵として見ても楽しいことに変わりはない。
時々油彩で描いた習作も残されているので、ピサロの探究心の強さに感心してしまう。

ところが、晩年の連作もの、「モンマルトル大通り」「オペラ座通り(テアトルフランセ広場)」、「ポンヌフからのルーブルとセーヌ」などになると水彩が残っていない。何枚も描くので下絵など不要だったのであろう。同じような絵を、四季、晴、雨、雪、曇天朝、昼、夕方と光の変化を捉えようという執念に圧倒される。

ピサロの絵は、油彩も同じだが風景画が主で人物、静物画は少ない。水浴するヌードもいく枚かあるがごく少ない。
ピサロの水彩風景画は、油彩も同じだが見ていて落ち着く。安定しているのだ。今回じっくりと眺めてあらためてそう思う。何故なのか、そう考えて見ればアマチュアの自分にも多くの点で参考になるような気がする。

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「Boats at Dock ドックのボート」
「Cagnes Landscape カーニュ風景」カーニュ(シュル メール) は、フランス、プロヴァンス コート・ダジュール地方。保養地ニースの隣にある。
「Fan Project」
「Landscape 2 風景2」
「Landscape 3 風景3」
「Landscape at Eragny エラニー風景 」エラニーは、 仏イル・ド・フランス地方ヴァル ドワーズ県 、パリ北西郊外70Kmにある。 ピサロは1884 年から移り住み、亡くなるまでここで絵を描いた。
「Milking Cows 乳牛」
「Portrait of Jeanne, the Artist's Daughter 画家の娘、ジニーの肖像 」ピサロは、8人(うち2人は早生)の子沢山。そのうち5人が画家になったという。子供達は巨匠の親を越えられなかったのだろうか。
「The Effect of Sunlight 太陽の光の効果」 晩年のターナー風の絵。ピサロは普仏戦争を避けロンドンで暮らしていた頃ターナーの作品を研究したことがあるという。
「The Tedders」

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「Study for 'Cowherd at Eragny', エラニーの牛飼いのための習作 」(1884)
「Eragny Landscape, エラニー風景 」(1886 )点描水彩画。ピサロは1885年頃から90年まで、ジョルジュ・スーラやポール・シニャックの影響で点描画法を試みているが、時間がかかりすぎると言って後に放棄した。
「Field of Rye, ライ畑 」(1888)
「Peasant and Child 農婦と子ども」(1890 水彩と黒クレヨン)
「Landscape at Eragny, Clear Weather, 晴れた日のエラニー風景 」(1890 )手前に台形の畑。
「Landscape with Figures by a River, 川辺に人のいる風景」(1853-4 ) 点景に 左下 のロバ 。籠を下げている。
「The Banks of the Marne at Cennevieres,」( 1864-1865) 左下ボートが良い。
「Road to Saint Germain, Louveciennes, サンジェルマンへの道 」(1871 )真ん中の馬車がすぐに目に入る。
「Study for 'All Saint't Church '」(1871 グヮッシュ)
「テーブルの二人の農婦 」(1874)
「農場の白い馬 」(1874グヮッシュ)

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「Half length Portrait of Lucien Pissarro リュシュアン ピサロの半身像 」(1875 ) 長男リュシアン(画家)その娘(ピサロにとって孫)も画家になったという。
「裁縫する婦人 」(1881 グヮッシュ)
「Landscape at Osny, オニの風景」(1882-3 )真ん中に牛一列。描きたかったのはこれだろうか。
「じゃがいもの収穫 」(1884-5)
「La Saint Martin a Pontoise 」(1884-5)
「Peasant Woman in a Cabbage Patch キャベツ畑の農婦 」(1884-5)
「Peasant Woman Standing next to a Tree, 木のそばに立つ農婦 」(1885)
「The Round 円舞」(1884水彩)84年と92年の似た絵が2枚ずつ。どれが下絵か分からぬ。この水彩は47×61cm だが、他の3枚の大きさが不明。
「La Ronde 円舞 」(1884油彩)
「La Ronde 」(1892水彩と黒チョーク)
「La Ronde」( 1892テンペラ カンヴァス)

次回(2/2終)でもピサロの水彩画をたっぷりと。

カミーユ・ピサロの水彩画(2/2終) [絵]


ピサロの絵は、教科書に載るような安定感のある落ち着いたものというのが定評だが、1000枚近くの画集でよく見ると複雑な面を持っているようにも見える。風景画も壁に飾りたくなるような光溢れる美しい景色のものがあるが、かたや貧しい農村、農夫や農婦、農家の子供なども描いている。都市景観も賑やかな通りの雑踏があり、街に工場の煙突の煙がたなびいたりする。光の変化を捉えようとした側面が強調されるが、アマチュアには解らぬ別の側面もあったのかも知れない。
ピサロの言葉に「誰も見向きもしないような辺鄙(へんぴ)な場所に美しいものを見る人こそ幸福である」「本物の印象主義とは、客観的観察の唯一純粋な理論となり得る」というのがあるそうだが、かなり屈折した性格もあったかと推察出来そうだ。
そう思わせるのは、幼くして絵を描きたくて家出したこと、執拗なまでの光の変化を捉えようとする連作、ぶれぬ印象主義、妻と育てた6人の子供、無政府主義への傾倒、など彼の強い意志が感じられないか。
このような詮索はアマチュアの手に負えないし、絵の鑑賞に不可欠というものでも無かろう。
むしろピサロの絵の安定感はどこからくるのか、追求した方が絵の勉強になりそうだ。
これも専門的には色々あるのだろうが、ひとつはその構図の取り方にあるような気がする。かなり考え尽くして作っているに違いない。

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「Portrait of the Artist's Son, Ludovic Rudolphe, 画家の息子、ルードヴィク ラドルフ」(1888)
「自画像 」(1873 油彩 )43歳とは見えないグレイのヒゲ。1900年(フレスコ画)、1903年(油彩)の自画像もあるが、こちらはさすがに老人の白いヒゲだ。
「Portrait of the Artist's Mother, 画家の母の肖像 」(1888)
「Haystacks, 干し草の山 」(1889)
「Twilight, Eragny, 夕暮れ、エラニー」(1889 )上と同じ絵だが、夕暮れなので 積み藁が茶色いのでそれと分かる。
「Eragny, エラニー 」(1890 ) 左に林。夕暮れか。
「Eragny Landscape, エラニー風景 」(1890) ぼかしにじみ。朝か昼であろう。
「Eragny, Sunset, エラニー、日没 」(1890)
「Eragny, Twilight,エラニー、夕暮れ 」(1890)
「Hampton Court Greenハンプトンコートグリーン」( 1890 )英国南西部になる旧王宮庭園。

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「Hoarfrost, 霜」(1890 )真ん中に尖塔。冬景色だが、春の色彩。
「Kensington Gardens, ケンジントン庭園 」(1890)ダイアナ妃が住んだ、ケンジントン宮殿の庭園。ハイドパークに隣接する公園。 右に人の群。
「Landscape, 風景 」(1890 )森の中に家。
「Landscape at Eragny, エラニー風景 」(1890 )ひだりに島のように見えるのは雲か。
「London, St. Paul's Cathedral, ロンドン セントポール聖堂 」(1890)
「Three Peasant Women, 三人の農婦 」(1890)
「Trees, Eragny, 樹々、エラニー 」(1890 )左 の一本杉が印象的。
「Feast Day in Knokke, クノックでの祝宴の日 」(1891 水彩 グヮッシュ)
「Kew Gardens 2, キュー国立植物園 」(1892)キューガーデンはイギリスの首都ロンドン南西部のキューにある王立植物園。キュー植物園などとも呼ばれる。1759年に宮殿
併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を有している。世界遺産に登録されている。
「エラニーにて、1886年頃」(写真)ピサロと6人の子どもたち、中央の女性が妻のジュリー。
「テアトル・フランセ広場、雨の効果」(1898油彩)代表作のひとつ。

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「Kew Gardens, the LIttle Greenhouse, キュー国立植物園、小さなグリーンハウス」( 1892 )ヤシの木が植物園らしい。
「The Cowherd (Young Peasant)牛飼い 」(1892 フレスコ グヮッシュ 、水彩 )
「Market at Gisors ジゾールの市場 」(1894-5)ジゾールは、パリから西北西に70kmの町。
「Sunset with Mist, Eragny, 霧の日没、エラニー」(1890 )
「The Picnic, ピクニック」(1891)
「Workers in The Fields 農場で働く人たち 」(1896-7 水彩)大きさ不明。次のグヮッシュと同じ絵だが、油彩は見当たらない。両方ともエスキースではないのだろうか。
「Workers in The Fields 農場で働く人たち」(1896-7グヮッシュ)25.4×19.7cm

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さて、日本では、大原美術館でピサロの「The Apple Pickers」( 1886 油彩) を見ることが出来る。128×128cmの大きな絵である。題は「リンゴ摘み」とか「りんご狩り」と訳せば良いのか。
画集にそのエスキースが無いか探したが、見つからず「Seated Peasant Woman Crunching an Apple 座ってリンゴをかじる農婦」(1886 パステル)があった。油彩では左下のリンゴをかじっている人物、そのものである。また、画材や制作年は不明だが、真ん中の棒を持った女性の習作も残されているから、エスキースは作らなかったのかも知れない。
ピサロのエラニー移住は1884年からで、アトリエは林檎の果樹園に続く庭の納屋を改造したというから、その地での作品であろう。
ピサロの探究心には感心するが、このように部分的にも習作をしているのだ。
ピサロの代表作「羊飼いの娘(小枝を持つ少女、座る農家の娘)」(1881 油彩 81×61.7cm オルセー美術館)も農村に住む若い女性の日常を描いた集団像の為の習作としての単身人物像だと言われている。油彩画を描くとき部分的にスケッチや習作を沢山描いたのであろう。それが水彩やパステルでなく油彩であるところが凄い。しかも後世タブローとして代表作の一枚になるところは流石に巨匠だ。

リンゴ狩りは、これに似たモチーフの絵がほかにもある。
「The Pickers、Eragny リンゴを摘む人達、エラニー」(1888 油彩 )60×73cm ダラス美術館蔵。大原美術館の絵が描かれた2年後の作品で点描画風。
こちらにはエスキースと思われる「Picking Applesリンゴ摘み」( 1888 グワッシュ )46×59 cm 個人蔵、がある。絵にグリッド(格子)があるのでそれと分かる。しかし大きさは油彩より少し小さいだけだ。

これらの絵も、構図がしっかりして落ち着いた魅力的な絵の一例であるが、アマチュアには思いもつかぬ計算の上に出来上がっている構図なのであろう。
次の絵なども、グヮッシュが習作だろうが、油彩は実に安定感がある。
「Woman Burning Wood 木を焚く婦人」(1890 グワッシュ )子供と牛がいない。炎の赤が鮮やかでそちらに目がいく。
「White Frost,woman breaking wood 「白い霜、木を折る婦人」(1890 油彩)火のそばに人物が現れ安定感が出る。さらに後方に牛の群れが描かれ遠近感が出て更に落ち着く。
しかし、安定感は、ともすれば絵の面白みに欠けることもある。このグヮッシュには
また別の魅力もあることも疑いが無い。

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